入浴
服を脱ぎ、羊皮紙に書かれていた手順どおり、胸元と額、手のひらに香油をひと撫でする。
甘い香りが鼻腔を満たし、思考がゆるやかに沈んでいく感覚があった。
浴槽に足を入れると、驚くほど自然な温度の湯が全身を包み込む。
熱すぎず、ぬるすぎず、俺の身体のことを知っているかのようだ。
ふぅ、と息が漏れる。強張った筋肉が、瞬く間に解きほぐされていくのを感じる。
……だが。なんだろう、この感覚は。
湯の表面が、風もないのにゆらりと波打った。
その波紋が広がるたび、胸の奥に「見られている」ような気配が走る。
目を凝らすと、湯面に淡い光が揺らいでいた。
最初は湯の反射かと思ったが、それは形を持ち始め――やがて、女の横顔のようにも見える輪郭を描いた。
「……っ」
思わず湯をかき乱す。
だが、波紋が収まると、また同じ輪郭が浮かび上がった。
その口元が、わずかに動く。声は聞こえない。
それなのに、頭の中に直接、囁くような感覚だけが流れ込んできた。
『……すぐ……来る……』
そこで光はふっと消え、湯は元の静けさを取り戻した。
心臓が早鐘を打つ。
ただの幻覚か? いや、存在感は確かにあった。
背後で、扉が小さく軋む音がした。
反射的に振り返ると――誰もいない。
「……気のせいか」
小さく呟き、再び湯へ視線を落とす。
――そこに、一本の髪が浮かんでいた。
淡い光の下で、濡れた絹糸のように輝く、長いピンク色の髪。
それは、さっき出会ったばかりの聖女――エルネスタのものとしか思えなかった。
「……エルネスタさん……?」
呼びかけても返事はない。
代わりに、微かに甘い香りが湯気に混じり、肺の奥まで忍び込んできた。
香りが先ほどより濃い。
まるで、ついさっきまでこの湯に、誰かが――。
浴室を出た瞬間、肌にまとわりつくような甘い香りがまだ離れないことに気づいた。
衣服を着ても、布越しに漂うその香りが、息をするたびに肺の奥まで忍び込んでくる。
不思議なことに、浴槽に浸かっていたときよりも、今のほうが胸の鼓動が早い。
(……なんだ、これ)
額や首筋から熱が逃げず、身体の芯がじわじわと火照っていく。
汗ばむわけではないのに、何かが全身を駆け巡っているような感覚。
落ち着かない。座っても、横になっても、呼吸が整わない。
そんなとき――控えめなノックの音が、やけに鮮明に耳に届いた。
「……バージル?」
聞き慣れた低い声。
扉の向こうから、セラフィーネが覗き込むように声をかけてきた。
「ああ……どうかしましたか?」
返事をしながら扉を開けた瞬間、彼女の整った顔立ちと、涼やかな瞳が目に飛び込んでくる。
その瞬間、理性が崩れ去ったのが分かった。
「ん、少し話でもとな。顔が赤い、湯あたりか?」
セラフィーネが心配そうに近づく。
その動作一つ一つが、いつもよりゆっくり見える。
いや――違う。俺が、彼女をいつも以上に細かく見てしまっている。
「……いや、多分……」
言葉が続かない。
気づけば、腕が勝手に伸びていた。
彼女の腰に手が触れる。
わずかに驚いた表情が、すぐに苦笑へと変わった。
「……なるほど。そういうことか」
次の瞬間、彼女の腕が俺の首に回される。
温かい吐息が耳元をかすめた。
気づけば、窓の外はすでに夕闇が迫っていた。
ぼんやりとした疲労感と、妙な満足感が身体の奥に沈んでいる。
隣では、セラフィーネが静かに鎧を着直していた。
動作はいつも通り無駄がなく、しかし口元はほんの少しだけ緩んでいる。
「……大丈夫か? 顔色は悪くないが、少し……抜け殻みたいだぞ」
からかうように視線を寄越す。
「……平気です。どうしてか、普段よりぼーっとしてますけど」
「何かあれば、すぐに言うんだぞ」
「もちろんです」
そう言うと、セラフィーネは満足げな笑みを浮かべる。
「……よし、落ち着いたら食堂へ行くぞ。エルネスタ殿が晩餐を用意してくださっているそうだ」
セラフィーネが客室の扉を開け、外に出る。
甘い香りは霧散したはずだが、まだ少し感じてしまう。気のせいだろうが。
階段を下りると、すでにリーネットが食堂の前で待っていた。
彼女は俺たちを見るなり、眉をひそめる。
「……お二人、なんか雰囲気が……変じゃないですか?」
「そうか?」
セラフィーネはとぼけた声で返す。
俺も何も言えず、ただ肩をすくめた。
食堂は、広間というより王城の晩餐室を思わせる造りだった。
長いテーブルの中央に蝋燭が並び、皿の上には香草を散らした肉料理や、黄金色のスープが湯気を立てている。
その香りと、微かに混じるあの甘い匂いが、またも胸の奥をざわつかせた。
テーブルの上座に、エルネスタが静かに座っていた。
薄紅色の髪が蝋燭の炎を受けて輝き、瞳は夢見るように細められている。
その視線が、一瞬だけ俺の全身をゆっくりとなぞった――ように感じた。
「……ようこそ。お席へどうぞ、バージル様」
柔らかな声が、空気を揺らした。
それだけで、心臓の鼓動がわずかに速くなるのを、俺はどうしても止められなかった。
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