都市案内人
艶かしい手つきで尻や胸を触られながらも、なんとか女性の大群から抜け出した俺は、通りの端にあった男性用トイレに逃げ込んだ。
背後から追ってくる声はなかったが、それでも心臓の高鳴りは簡単に収まってくれなかった。
一瞬だけ見えた入り口の注意書きには、『危険なので、護衛がいない時は使用しないでください』と書かれていた気がする。
男が一人で外を歩くことすら推奨されていない。
それが、この世界の常識らしい
「はぁ……はぁ……ど、どうなってるんだこの世界は……」
トイレの個室の扉に背を預けたまま、俺は何度も深呼吸を繰り返した。
足元はやや震え、手にはじっとりと汗がにじんでいる。
本当に、意味がわからない。
いや、意味自体は分かっているんだ。
さっきから同じ考えがぐるぐると巡っている。
この世界には男性がほとんどいない。
事実として、目の前に突きつけられている。
門番の言葉、街の視線、あの少女の反応。
すべてを繋ぎ合わせれば、ひとつの「現実」として成立してしまう。
要はあれだ、男子校に一人だけ女子がいる感じ、その逆だ。
ラブコメ漫画でしかあり得ない世界だと思っていたが、俺はその「あり得ない」に迷い込んでしまったらしい。
ひとまず洗面台に向かい、水をすくう。
この世界でも、水は魔道具で供給されているらしい。
淡く青く光る石の装置が、手を差し出すと優しく水を生み出す。
手のひらに溜まった水に、焦燥した自分の顔が映る。
頬がやや赤く、目には疲労と混乱が滲んでいる。
それを見るのが嫌で、目を伏せたまま勢いよく顔を洗った。
再び水を手にすくい、今度は頭を濡らす。
火照った思考を冷やすように、指先で髪を押さえる。
外からヒソヒソと声が聞こえるが、先ほどよりは遥かに静か。
ようやく、呼吸が整ってきた。
――これは、夢じゃない。
俺は、あの白い部屋を出た。
そして、もう戻る道はなくなったんだ。
元の世界に戻る手段が――あるのかそもそも不明だが――考えつかない以上、この世界で生きなければいけない。
一時間前までは死を覚悟していたし、受け入れてもいた。俺は何もかもやり切ったと。
しかし、この混沌とした空間にブチ込まれてから、その決意は脆く崩れ去ってしまった。
まったく知らない場所で死ぬというのが、怖くなってしまった。
深くため息をつく。わずかに胸の重さが抜けた。
……仕方ない。この先に何が待ち受けているのか、どんな結末を迎えるのかを考える前に、まずは順応しなければならない。
これは現実だ。第一に身の安全。次に、この世界のことをもっと知ろう。
「――よし」
静かに呟くと、扉の前に立ち、ゆっくりと手をかける。
ドアを押して外に出ると、小さかった喧騒が再び大きくなる。
「――ああっ! 彼が出てきましたよ!」
「本当に男性が、この街に……」
「し、しかもさっきよりも色っぽくない?」
「あぁ、あと二十年若ければ……」
バタン。
俺は、無言で扉を閉じた。
そして、静かに振り返り、再び洗面台の前に立つ。
「……もうちょっと心を落ち着けよう」
順応するには、あと少しだけ、時間が必要かもしれない。
そんなことを思っていると、外の声がまた大きくなった。
俺に対してのものではない、新たな何かへの反応だ。
元の世界で考えると――この騒ぎを聞きつけて教師が来たような。
恐る恐る顔を出して見ると、トイレを囲む女性たちに向けて言葉を発する人がいる。
「お騒がせしてすみませーん! はいはい、都市案内人です! この方は私が保護しまーす!」