初体験
夜。家の中は静かで、窓の外からは虫の音がかすかに聞こえる。
さすがに、虫にはオスも多いのだろうか。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、俺はランプの明かりで本を読んでいた。
リーネットが暇つぶしのためにと貸してもくれたもの。
何冊かあるが、やはり物語は違う。男性はほとんど出てこないし、出てきたとしても、とても弱々しく描かれているか、反対に英雄のようだった。
――ドンドン。
不意に、玄関の扉が控えめに、それでいて確実な力強さで叩かれた。
「……こんな時間に、誰だ?」
リーネットのノックの仕方ではない。
灰の牙の残党か――自分で言うのは恥ずかしいが――俺を狙う女性か。
前者だとしたら、わざわざノックをする意味がない。除外しても良いだろう。
後者に関しても……セラフィーネに目をつけられると理解していて訪れる命知らずはいない。
では、いったい誰だ?
部屋を出て、階段を降りる。
玄関まで行って、おそるおそる扉を開けると、そこにいたのは――。
「こんばんは。通りすがりの騎士団長だ」
「セラフィーネさん!?」
彼女は鎧を脱ぎ、軽装に身を包んでいた。珍しく髪も下ろしている。
その姿が妙に色っぽくて、俺は思わず目を逸らす。
「何してるんですか、こんな夜に……」
「……通りすがった。あと、考え事をしていたら、なぜかここに来ていた」
「こ、ここまでの道、けっこう曲がりくねってますけど……?」
「そういう日もある」
そう言って、勝手に家に上がり込んでくる。
「ちょっと待って、え? いや、いいんですけど……いきなりだなぁ……」
彼女は俺の部屋までまっすぐ進むと、俺が使っていた椅子を奪い、ちゃっかり座る。
「読書か。知的な男は……良いな」
「セラフィーネさんは本とか読まなさそうですもんね」
「……それは酷くないか?」
「冗談です」
くすり、セラフィーネは笑う。
こうやって軽口を叩けるようになったのは嬉しいな。
「……なぁ、バージル」
セラフィーネは静かに俺を見つめてくる。
どこか真剣な雰囲気が部屋に満ちていく。
「今夜は、お前の隣で本を読み、寝る前に少し話をして、良い夜だったと心から言いたい」
「それは……えっと――」
「恋人のような時間を過ごしたい」
その一言に、俺の喉が詰まった。
「……こ、恋人、って……」
ようやく絞り出した声は情けないほど小さく、情けないほど震えていた。
だが、セラフィーネは動じない。
そのまま、俺の隣に立ち、そして――ためらいもなく、ベッドの端に腰掛けた。
「セラフィーネさん……あの、えっと、そっちは寝る場所で――」
「知っている。だから、ここに座った」
「え、でも、俺がさっきまで寝てたとこで……」
「知っている。だから、ここに座った」
「ぐっ……!」
勝てる気がしない。
セラフィーネは、ゆっくりと長い髪をかき上げる。
鎧を脱ぎ、軽装となった彼女は、ひとりの女性としてそこにいた。
「さっきの冗談のこと、少し気にしていた」
「え?」
「本を読まないと思った、というやつだ。……実際、読まない。けれど、知りたいとは思っている。あなたの好きなことを、少しでも多く」
その横顔はどこか照れていて、普段の彼女からは想像できないほど柔らかかった。
俺の心臓がうるさいくらいに暴れ始める。
「それに……今夜は、ただ通りすがっただけじゃない」
ごくりと唾を飲む。
「ほんとは、通りすがりたいと思った。あなたに会いたくて、理由を探した」
そう言って、彼女は俺の手に、そっと自分の手を重ねた。
大きくて、温かい手だった。
「……バージル」
「は、はい……?」
「わ、私は、誤魔化すのが下手だ。……今夜は、そういうつもりで来た。本を読んで終わらせるつもりはない」
ゆっくりと、顔が近づいてくる。
目をそらそうにも、その瞳から逃れられなかった。
「ま、まってくださいセラフィーネさん、あの、こういうのはもっとこう……段階というか……!」
「段階? ……模擬戦も、本番も、一度目から全力で挑むのが礼儀ではないのか?」
「いやそれはそれで正論なんですけど、あのっ……!」
俺の言葉に、何故かセラフィーネはハッとする。
「……そうか、そういうことだったのか! ちょっと待っていてくれ!」
慌てて部屋を飛び出して行ったセラフィーネ。
三分ほど経って戻ってきた彼女の姿は――。
「……ぶっ!?」
――れいの、スケスケの下着だった。
「ど、どうだ……これが段階というものなのだろう? 理解すると、その、なんだ……恥ずかしいな」
自信と羞恥の狭間で揺れるその表情は、まさに「戦場に出る前の緊張感」に似ていた。
そして、彼女はゆっくりと近づいてくる
(――お、おいおいおいおいおい!)
なんだこれ、刺激が強すぎるだろ!
俺は全力で目を逸らす。
それでも視界の隅には映る。
これはもう、理性を試される拷問だ。
「気に入らなかったのか……?」
「い、いやその、気に入るとか気に入らないとか、そういう問題じゃないんですよ! たぶん!」
セラフィーネはしばらく沈黙した後、ぽつりとつぶやいた。
「……慣れてないんだ。こういうの」
「そ、それは俺もです!」
「だから、失敗したって思われたら……すごく怖い」
その言葉に、ようやく、真正面から彼女を見る。
彼女の瞳は不安で少しだけ潤んでいた。
この反応は……少しズルいな。
「……大丈夫ですよ。俺、セラフィーネさんのこと、すごく綺麗だって思ってますから」
その言葉に、彼女の頬がかぁっと染まる。
「ば、ばか……そういうのは……もっと後で言うものじゃないのか……?」
「模擬戦も本番も、一度目から全力で挑むのが礼儀なんですよね?」
「……っ!」
セラフィーネは距離を詰める。
顔が、近い。呼吸が混ざる。
指先が、俺の頬にそっと触れる。
「バージル。私を、受け止めてくれるか?」
俺の喉が、ごくんと鳴った。
鼓動は部屋に鳴り響きそうなほど。
ただ、セラフィーネが本気なんだとしたら、俺だって。
「……はい。たぶん、ちゃんとはできないと思いますけど……でも、頑張ります」
「ふふっ、そういうところが、好きだ」
セラフィーネは微笑むと、そっと俺の肩に手を置き、顔を――。




