刃
夜の空気が妙に重く感じられたのは、単なる気のせいではなかった。
遠くから、低く唸るような音――それが雷ではなく、爆音だと気付いたときには、もう街が騒ぎ始めていた。
「……来たか」
セラフィーネが立ち上がった。手にはすでに剣がある。
リーネットと共に倉庫から出ると、市場の方角で、火の手が上がっているのが見える。
数人の衛兵が目の前を走り抜けていく。
「リーネット、避難経路を確認しろ。バージル、倉庫を離れるな。奴らの狙いはお前だ」
「わかりました。でも、セラフィーネさんは……?」
「迎撃に出る。遅れれば、犠牲が出る。……それだけは防ぎたい」
セラフィーネは走り出し、その姿はすぐに夜の闇と同化した。
「私たちは戻りましょう」
「……わかりました」
俺とリーネットはすぐさま倉庫内に戻った。
入口を塞ぎ、窓の鍵を確かめ、武器としてセラフィーネから借りた大剣を立てかける。手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
「……街の人は大丈夫ですかね」
そう呟くと、彼女はわずかに表情を曇らせ、すぐに小さく頷いた。
「狙いはバージルさんです。きっと、過度な被害は出ないでしょう」
「そう……ですよね。俺たちにできるのは、ここで守りを固めるだけ」
「はい。大丈夫です、倉庫裏のエリアは警戒の必要なしと判断されていますし、誰も――」
その言葉が終わるよりも早く、どこかで物音がした。
壁を隔てた向こう。水をかくような、湿った気配がある。
雨の音とは違う。誰かがそこにいる。動いている。
「リーネットさん、裏の水路って、確か――」
「まさか……!」
リーネットと同時に立ち上がった時、倉庫の扉が、勢いよく開け放たれた。
暗闇の中に差し込む月光。
そこに――複数の影が現れる。黒ずくめの軽装。手には短剣。
「……灰の牙か」
先頭の女が、俺たちを見下ろしながら笑った。
市場の裏手、煙がまだくすぶる石畳を踏みしめながら、セラフィーネは一人、また一人と盗賊を倒していった。
剣の切っ先が火を裂き、金属の擦過音と断末魔だけが夜に響く。
「まさか……ここまで大掛かりに攻めてくるとは」
セラフィーネは十人ほどの騎士団員を召集したが、明らかに人数が足りていない。
敵の数はその三倍ほどいて、味方が押されているのを空気から感じ取っていた。
「だが、私が多く倒せば問題ない!」
倒れた盗賊の持っていた矢を拾いあげ、すれ違いざまの敵の喉を正確に貫く。
セラフィーネの剣が逆手に翻ったと思うと、返す刃で次の盗賊の膝を砕き、振り向きざまに肩口を裂いた。迷いも容赦もない動き。
「――次ッ!」
周囲を見渡す。息を切らしている暇はない。
しかし、あることに気がつく。
(――道を、開けている?)
敵の配置に不自然さを感じる。
一般的な盗賊は略奪に意識を割くあまり、戦闘中の陣形などにはあまり気を使わない。
その道では一流と表現できる灰の牙は別だ。
統率の取れた動きで相手を翻弄することを得意としている。
ならば、これは一体なんだというんだ?
警戒する間もなく、空気がひときわ冷えた。
気配が変わる。肌を刺すような、洗練された殺気が風に混じってくる。
路地の奥から、一人の女がゆらりと姿を現す。
長身で痩躯、漆黒の外套の下に鋭利な鎖骨がのぞき、右手には曲刀。左手には、血で濡れた騎士団の腕章。
「……あんたか。噂の騎士団長」
女の目には、狂気ではなく、冷えきった理性があった。
セラフィーネは即座に構えを取り直す。
「名を名乗れ」
「灰の牙、団長──ルメリア。……あたしに勝てたら、名簿にでも記すといい。あたしが勝ったら――」
ルメリアはボロ布のような服をまくり、腹を見せた。
そこにはナイフで付けたような無数の、しかし一定の意図がある跡。
「ここに大きく刻んでおいてやる――よッ!」
次の瞬間、黒い弾丸が飛び込んできた。音を置き去りにするほどの速さ。
金属が激しくぶつかり合い、火花が弾ける。
セラフィーネの身体が、弾き飛ばされた。
「くっ……!」
受け流すはずの一撃に、肩口まで切り裂かれかけた。
鎧がなければ、かなりのダメージだっただろう。
「……随分、鋭いな。私でなければ、今の一撃で死んでいた」
「死ぬのは変わらないんだ。大人しくしなよ」
大剣で器用に弾く火花の向こう、黒い刃が踊る。
セラフィーネは後退しながら体勢を整えようとするが、その足元すら狙うように、ルメリアの攻撃は止まない。
(速い……!)
読み切れない動きではない。しかし、対応する暇がない。
剣士としてのセラフィーネは、常に理で構築された動きで戦ってきた。
研ぎ澄まされた剣技と、徹底的に削ぎ落とされた無駄のない判断力――だが、目の前の敵は、理の裏を突く。
頭を狙ったと思えば足に、攻撃の途中なのにナイフを空中に弄ぶ。即座の判断ができない。
「なあ、騎士団長さん。そんな綺麗な剣じゃ、殺しの剣には勝てないよ」
ルメリアは笑っていた。重たく息を吐くセラフィーネを見下ろすように。
「もっと泥を舐めなきゃ、あたしみたいに強くなれないよ?」
「貴様のようにはなりたくない」
冷たい声が返る。
だが、その一言にルメリアの口元が吊り上がった。
「そう、そうだよな……奪うためじゃなくて、守るために戦ってるんだから――だから死ぬ」
再び、曲刀が唸った。地を擦り、空を裂く。
一撃ごとに鋭さが増し、まるで斬撃の雨のように降り注ぐ。
セラフィーネは耐えている。だが、動きが鈍り始めていた。
徐々に増え始めた裂傷がじわじわと体力を奪い、足元も少しだけふらつく。
痛みに耐えながら、彼女は自分に問いかける。
(ここまでか? 違う、まだ――)
血が喉に上がる。
立ち止まれば、命を失う。
なら、進むしかない。
セラフィーネは肺から空気を追い出し、踏み込んだ。
逆風を切り裂き、ルメリアに向かって一直線に剣を突き出す。
(――届く!)
だが、切先はルメリアを捉えない。
――捉えている、はずだった。
確かにそのはずだったのに、セラフィーネの予想よりも、遥かに自らのリーチが短い。
「……甘いんだよ。足元をよく見てみな」
その言葉に、セラフィーネは自分の失敗を理解する。
「――魔道具か!」
視線を落とせば、足元の石畳が――まるで粘土のように歪んでいた。
濡れた靴底が沈み、力が逃げていく。
「あたしたちは命をかけてるんだよ。それに見合う品を手に入れてないと思ったか?」
ルメリアが口元を歪める。
その声には快楽すら滲んでいた。
力を入れて足を引き抜こうとするが、遅い。
足の自由を手に入れるより早く、首を飛ばされてしまうだろう。
「ほら、こんなものもあるんだ」
ルメリアが左手を握るようにすると、彼女の頭上に、膨れ上がるように巨大な火球が現れる。
燃え盛る魔力の塊。
常人なら、視界に入っただけで戦意を喪失するほどの威圧感。
(このままでは……受けきれない)
セラフィーネは剣を構える。しかし足が動かない。
防御も回避もできない。
「あたしらは男を手に入れる。そのために――死ね」
火球が振り下ろされる――間に合わない。




