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予兆


 俺は思ったよりも大きな事態に巻き込まれている。そう気付いたのは、二日後のことだった。

 少しは慣れてきた三人での夕食。

 和気藹々……には遠いが、前よりは打ち解けた会話の中、セラフィーネが手を上げて静止する。


「――音がした。外だ」


 その瞬間、空気が変わった。

 笑いの名残を含んでいたリーネットの表情が引き締まり、俺も思わず箸を置く。

 セラフィーネは音もなく立ち上がると、倉庫の扉へと歩く。

 誰もが息をひそめていた。

 今は、外からの音は聞こえない。

 よく見ると、扉の下のわずかな隙間から、何かが滑り込んでいる。

 セラフィーネが拾い上げたのは、折りたたまれた紙。

 灰色の封筒。封蝋の代わりに、黒く乾いた――血のような跡がついている。


「挑発だな」


 彼女は静かに言った。

 封を切ると、中からはざらついていそうな便箋が現れた。

 セラフィーネは内容を確認すると、くるりとこちらに見せてくれる。

 粗末な筆記具で書かれた文字。

 それは、脅しのような詩のような、不気味な言葉だった。


『牙はいつも夜を這う。

 眠る前に、最後の祈りを。

 安住の地などない。』


「……誰の手によるものか、分かってるな」


 セラフィーネが紙をテーブルに置いた。


「灰の牙、ですね……」


 リーネットがぽつりと呟く。


「……私たちを狙ってるってことですよね」

「いや、バージルを、だ」


 思わず拳を握る。


「どうするんですか、セラフィーネ様」


 リーネットの問いに、セラフィーネは即答する。


「対応する。だが、まずは様子を見る。あからさまな挑発に、いきなり全力で応じるほど私は未熟ではない」


 そのまなざしは鋭く、しかしどこか静かな怒りを帯びていた。


「今夜から一層、警備を強化する。周辺の衛兵にも連絡を入れておくが、信用できる者だけに限る。都市案内人としての動線も、洗い直しておけ。何か起こるなら……ここ数日だ」

「……はい」


 リーネットは真剣な顔で頷いた。

 俺も、無言で立ち上がる。


「しかし、相当な手練れ達と見て間違いないな。隠密の腕なら騎士団の精鋭を上回るかもしれない」

「セラフィーネさんが気付いたのにですか?」


 俺なんて全く分からなかった。

 彼女が常に気を張っているという証拠でもあるが、だからこそ見つけられた警告文のはず。

 それなのに、セラフィーネの表情は明るくない。


「……気付かされたんだ。巡回の目を掻い潜り、私たちをも欺いたとして、全員が気付いていなければ『いない』のと同じ。警告の意味がないだろう。あえて音を立てたのさ」

 

 恐怖感を煽る、一種の心理戦を仕掛けてきたということか。

 


 警告文が届いてからの数日、俺たちの暮らしは大きく変わった。

 倉庫の出入りは時間を決め、裏道はリーネットが独自にチェック。セラフィーネは日が昇る前から騎士団と連絡を取り合い、夜は倉庫の周囲を一人で巡回していた。

 朝も、昼も、夜も。

 何も起きないことに安堵しつつ、起きないこと自体が不気味でもある。


「……このまま来なければいいんですけどね」


 リーネットはそう言って、少しだけ笑った。

 だけど、その笑顔の端に、無理やり浮かべたような硬さがあった。


「いや、来るだろう。あれは警告じゃない、予告だ」


 セラフィーネの声は低く、確信に満ちていた。

 まるで、獣の気配を察知した狩人のように、研ぎ澄まされている。

 俺は外にはほとんど出ていないが、街も少しずつ変わっていっているらしい。

 市場の露店が早めに店じまいをするようになり、夜に出歩く人の姿はほとんど見なくなった。

 ひと気の少ない裏路地では、不審な物音の報告が相次ぎ、衛兵たちも常に警戒の目を光らせている。


「……バージルさん、もし戦いが始まったら、私はあなたの足を引っ張らないようにします」


 ある日の昼下がり、倉庫の屋上で休憩していたとき、リーネットがふいにそう言った。


「案内人の力なんて、戦いでは無いも同然です。でも、私のせいでバージルさんが捕まるなんてこと、あってはならないから。いざとなったら、私を置いて――」


 リーネットだけでなく、俺に良い感情を抱いていないだろうセラフィーネでさえ、男の俺の安全を一番に考えてくれる。

 元の世界なら――完全にとは言えないが――女性を守る方を優先するはず。

 それが、この世界の常識であり、誰もが納得しているのだろう。

 郷に行っては郷に従えという言葉があるし、俺も習うべき。

 だとしても、俺は――。


「ありがとうございます、リーネットさん。でも、いざとなったらリーネットさんを抱えてでも、一緒に逃げますよ」

「抱えてって……」


 彼女は呆れたようにため息をつく。


「……あなたは、つくづく男性らしくないですね。まぁ、そこが魅力でもあるんですが」

「はは、そうですかね?」


 ともかく、リーネットが笑ってくれてよかった。

 セラフィーネはと言えば、そんなやり取りを一度見てからというもの、リーネットに命令を飛ばす頻度が明らかに増えた。


「巡回路の死角を報告しろ」

「倉庫の裏に繋がる水路を調べておけ」

「避難経路を再確認だ」


 リーネットは文句も言わず、次々と指示をこなしていった。


 

 そして──ある夜。ロザリアの街に、久しぶりの雨が降った。

 どこか遠くで、犬のような咆哮が響いた気がした。

 けれど、それは風と雨のせいだと、誰もが思い込もうとした。

 翌日。倉庫の裏手、朝露に濡れた石壁に、奇妙な痕跡が残されていた。

 セラフィーネがそれを見つけたとき、すでに赤い手形と黒々とした文字は、ゆっくりと雨に滲み始めていた。

 

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