男は、いつ何時もーー
男は、いつ何時も堂々と、毅然と全てを受け止めるべし。
人前で情けなく声を上げるようなことは、決してあってはならない。
数年ではない。数十年の修行の末に、私はこの境地に辿り着いた。
幼い頃、私は母に虐げられていた。
母はもともと厳しい人だったが、ダンジョン攻略で父が命を落とした日から、彼女は別人になった。
父が死んだことで生じた歪みのすべてを、私という幼子に向けたのだ。
当初は言葉だけだった。「あんたがいたから」「どうしてあの人は死んだのか」と、朝食の食器を並べる音に紛れて投げられる毒のような言葉。一度は強く身体を打ち、徐々に精神を蝕んでいく呪い。
それは次第に熱を帯び、やがて掌や拳という物理的な衝撃として私に降りかかるようになる。
理不尽な怒声と暴力。私は椅子の脚を父のそれのように思い、一心不乱にしがみつきながら、耳を塞いで泣くことしかできなかった。
少しでも声が聞こえてしまうと、私の身体は硬直し、思考が消える。床に頬を打ちつけられ、頬の奥に響く鈍い痛みと、じわりと滲む血の味。
「泣くな!」という叱責に、泣き声さえ押し殺して、私はただただ震えていた。
幼い私には酷だった。母に対する恐れは、いつしか女性全般に対する恐怖に拡大していく。
女性という存在そのものが怖くなったのだ。
母以外の女性の視線すら私には凶器になっていた。
学校で女子生徒とすれ違うと、胃がきゅっと痛む。私に向けられたものではないのに、女子の笑い声に怯え、女性教師がこちらを見るだけで息が詰まりそうになった。
視線、声、仕草。そこに敵意がないと分かっていても、反射的に身体がこわばった。
世界の全てが私を害そうとしているようだった。
友人はいなかった。周囲は「冒険者になる」ことを夢見る子供ばかりで、自分のことを話せる相手なんていない。
話しかけようと思ったことも何度かあったが、その度に母の罵倒が脳内に響き、鎖のように私を縛り付ける。
朝が来るのが嫌だった。帰り道の夕日が怖かった。家などなかった。
ただ、ひたすらに日々が過ぎるのを待つだけの生活。
誰にも気づかれないのに、傷を隠す技術だけが磨かれていった。
十四歳のある日。私はついに死ぬことを決意した。
今でこそ、せっかく授かった命を自ら放棄することなど考えられないが、当時の私は絶望のどん底。
この決意に微塵もつらさも感じず、むしろ、早く解放されたいと待ち遠しくもあった。
漫画やアニメでは、同世代の主人公がヒロインと青春を謳歌している。
仲睦まじく手を繋ぎ、互いの将来を誓い合う。見えない部分への希望がある。
しかし、私はどうだろうか。異性と手を繋ぐどころか目も合わせられず、そもそも同性の友人すらいない。
私を好いてくれる人間は一人も存在しない。私が世界に存在しないように。
私の未来は電源の切れたテレビのように、真っ黒で、冷たくて、無関心だった。
だから、せめて来世では。
来世では人並みの人生を。
普通の人生でいい。
笑い合える恋人がいて……いや、同性の友人でもいい。とにかく、心を許せる相手がほしい。
朝が来ることを嫌がらない、普通の人生がいい。
当たり前の幸福を、ほんの少しだけでも手に入れられたら、それでいい。
そんなことを考えながら、私は冒険者養成学校の裏手にある山へと向かった。
誰もいない道。枯葉の積もった登山道。
制服のまま、リュックも何も持たず、ただただ無心で歩いた。
飛び降りるか、急斜面を転がれば死ねるだろう。
気づいてもらう必要はない。そんな救いはいらない。
生きている限り「いつか救われる」なんて期待してしまうから、その希望を断ち切りたいだけだ。
山頂へと向かう途中だった。
どこか夢見心地な空気の中で、私はなぜか、脇道へと足を向けていた。
意識していたわけではない。けれど、確かに導かれたとしか思えない自然さで。
枯葉を踏む音も、鳥の声も、すべてが遠ざかっていく。周囲に溶けていく。
そんな音のない世界に、それは存在していた。
扉だった。
空間の真ん中――何もないはずの登山道の奥に、不自然なほど静かに佇んでいる。
それは地面から浮いているでもなく、木の根に寄り添うでもなく、ただそこに据えられていた。
空間に不自然に取り付けられた扉。
木枠は古びているが、腐敗も傷もない。
その枠からうっすらと青い光が、私を魅了しようとしているかのように漏れ出している。
優しく、暖かく、どこか懐かしいような光。
未知のものでも恐怖は感じない。
むしろ、自分にはない未来の輝きを感じて、どうしても近づきたくなった。
一歩、また一歩と扉が大きくなるにつれ、身体の痛みが消えていく。息は深く、視界は明瞭になり、雑念は消えていく。
そして、私は扉に手をかけた。
ひんやりとしたノブに触れると、心臓が一度だけ跳ねた。
それでも私は、迷いなくゆっくりとノブを回し、扉を引いた。
――そこには白い部屋があった。
真っ白な部屋。
床も壁も天井もなく、けれど確かに「空間」としてそこに在る。
どれだけ広いのか、どれほど遠いのか。何故か認識することができない。尺度が通じない世界だった。
ただそこには、白だけがあった。
そもそも、誰がどんな目的でこの部屋を設置したのか。全てが謎だった。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間から、どこか懐かしいような、優しかった時の母に抱かれているような安堵が心を満たしていた。妙に気分が良い。
いつの間にか、眼前にテーブルと椅子が現れている。
後から試してみると、この部屋では「私が望んだもの」が出現するようだった。
思うだけで、それが現れる。暖かな布団や重厚な書物、生物的な温もり以外は全て手に入った。
それだけではない。何時間いようが喉は渇かず、腹は減らず、心が澄んでいる。
時間が止まっているのか、それとも私が流れに取り残されているのか。
判断すらつかないが――もしかしてこれは、神様が私のために用意してくれた墓なのかもしれない。
これを出れば私は死ぬのだ。どのように死ぬかは分からないが、きっと、命を終える。
私にせめてもの情けをかけてくれたのだ。
母が、女性が――私を責め立てる誰もがいないこの場で、気が済むまで過ごせ。
私はそう受け取ることにして、無音の楽園に腰を下ろした。
そこからの人生は、奇妙なほどに幸せだった。
他の人間ならは「なんで味気のない」と不気味がるかもしれない。
しかし私にとって、身体を鍛え、内なる己と向き合うことは、至上の喜びだった。
朝も夜もない空間で、自分の肉体と精神を延々と対話させる。
木剣を振るい、瞑想し、時に何者でもない影と語り、そして、涙を流す日もあった。
誰にも見られない場所でだけ、人は本当の自分に戻れるのかもしれない。
いや、私はようやく「自分を作り始めた」のだ。
あの日から、ようやく。
詳しく数えていないが、一年、五年、十年と時が経ち、見た目は変わっていく。
痩せ細っていた身体は努力の鎧に包まれ、異性への苦手意識にも打ち勝った。
怯えから逃げるために閉ざしていた目は、恐怖と向き合ために開き、強さへと変わっていた。
しばらくのうちは、この扉を出たら死ぬという「終わり」に恐れもしていたが、それも無くなった。
人間は、自らが満足する経験や成果を得ることで、死への恐怖を克服するのだ。
ただ黙々と、今日の自分が昨日の自分より一歩進んでいるかを問い続けた。
ただ一つ、私に持てなかった家庭にのみ未練がある。
温かい食卓、誰かに名前を呼ばれる夜、「普通」の人なら経験できる、子供の寝息。
だが、それすらも、もはや瑣末な問題だ。
男は、いつ何時も堂々と、毅然と全てを受け止めるべし。
人前で情けなく声を上げるようなことは、決してあってはならない。
この境地に辿り着いた私は今日、ついに部屋を出る。
死すら受け入れよう。神への感謝を忘れずにいれば、私はもう二度と取り乱さないだろう。
悠然と歩む自分に誇りを感じる。
最後に一度、部屋を見回す。
壁も天井も、すべてが変わらず真っ白なままだった。何もないのに、全てがあった。
純白の部屋。私の心を、恐怖を洗い流してくれた。
「……ありがとう」
深く頭を下げ、私は扉の方へと向き直る。
そして、ゆっくりと、扉のノブに手をかける。
覚悟はできている。あとは、一歩踏み出すだけだ。
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