出されたものは残さず食べるのが礼儀だから
味気ない燕麦粥で空腹をしのいだ後、アジェーナは半日ほどふかふかのベッドで──リントゥアルエ家が裕福だとか、客人だから丁重にもてなしてるとかではなく、これぐらいしっかりした寝床でないと真冬は凍死すると言うことなのだろう──安静にしていた。そのかいあってか、全身の痛みは早くも我慢できる程度には引いてきている。
(初めてのルオトラ料理……どんな感じなんだろう。楽しみだな)
部屋の中で動けるようになったということで、夜は介助者が食べさせやすい燕麦粥ではなく、一般的なルオトラの夕食を用意してもらえることになっていた。今は質素ながらきめ細かな純白のテーブルクロスが敷かれた机の前に座って、食事が運ばれてくるのを待っているところである。
(品よく磨き上げられた銀製のカトラリー……よく手入れされている。味の方も期待できるかも……)
――ぐう……
アジェーナが期待に胸を膨らませて脚をばたつかせた直後、呼応するように腹の蟲が鳴った。
幸い、こじんまりとした客室の中に居るのはアジェーナただ一人である。年甲斐もない恥ずかしい姿に、我ながら顔赤く染まったのを感じた。
だが、己の本性を今更隠して、何になるというのだろう。
いや、ならない。
ホムンクルスも生物である以上、腹は減る。むしろ胸に神経回路が詰まっている影響で、ヒトよりも燃費は悪い方だ。それゆえアジェーナにとって食事は、異世界生活を送るうえで欠かせない習慣に他ならなかった。
(葦原にいたころは精進料理みたいなのしか出てこなかったし、飛行器で飛び立ってからは栄養ゼリーみたいなやつしか口にしてなかったからなあ……そろそろ洋食が恋しくなってた頃だったんだよね)
前世とは肉体がまるっきり変わってしまったといえど、一日三度の娯楽で感じられる地続きの感覚はそう安いものではない。それは地球という大舞台から切り離されてしまったことで感じる一種のホームシックに近いものだったのかもしれなかった。
(やっぱり食事っていうのは救われてなきゃいけないんだ。静かで、孤独で、豊かで……!)
アジェーナが心の中で拳を握ったとき、部屋の扉が不意にノックされた。
「はーい」
「ルルです。お食事を持ってきました」
アジェーナが応えたのち、セルヴァは部屋の扉を引き、ゴロゴロと音を立てながらワゴンを進める。
ワゴンに載っているのはこげ茶色のパンと、いわゆるクローシュと呼ばれる金属の蓋みたいなアレが被せられた一皿であった。
「どうぞ……ジェナちゃん。有り合わせだけど……」
「ありがとうございます、ルルちゃん」
アジェーナは一礼して、テーブルに乗せられた食事へと目をやった。
「これは……」
「栄養が付くようにとのことで、魚と根菜のスープです」
クローシュを外されたそこにあったのは、不揃いだが具だくさんのカブや玉葱のような野菜が浮かぶ白濁したスープであった。
それは幾つもの具材が、纏めて煮込まれたシチューのような、そう、シチューのようなスープだ。
「い、いただきます……」
アジェーナはスプーンを握り、幸いにも湯気が立ち牛乳のような香りで食欲を掬う一皿の上で奥から手前にスプーンを引く。
すると、煮込まれて溶けだした脂の膜が白濁した液体の上で弾けふやけた野菜の欠片が掬い上がる。
(これは……)
アジェーナは一瞬躊躇したが、目の前で心配そうな視線を向けるセルヴァの姿を見て、意を決してそれを口に含んだ。
すると、どうだろう。
極めて念入りに煮込まれた野菜は、あっけなく口の中でどろりと溶けて消えた。
かすかな繊維の感触と、わずかにえぐみを感じるこの味は、前世で冷蔵庫に1週間放置した野菜をポトフにしたあの日と同じ感覚だ。
きっとこの国では晩秋に収穫した野菜を雪中に保存することで、春までのたくわえとしているのだろう。
この目一杯スープで煮込むという手段は、凍結で組織が破壊され、脱水した野菜を可能な限り食べられる状態にする苦肉の策に違いなかった。
ミルク──アジェーナは知らなかったが、トナカイの乳である──ベースのスープの味も、決して思ったほどではない。前世で飲みなれていた牛乳とは何かが違う感じがするが、こういうものだと受け入れることは難しくなかった。
納得できる味である。
不味くは、ない。
けれど、それしか味がしない。そう、塩味が足りないのだ。
(洋風料理だから、もっと塩っ気が強くて濃厚な味がすると思ったんだけどなあ……)
続いて魚の方を一口食べてみる。こちらはこのスープの中で唯一新鮮な食材なのだろう。豊かな魚の風味が口いっぱいに広がり、野菜よりも明確においしいと感じた。それでも、その豊かな素材の味に見合った塩味が、やはりしないのである。このため、ぼんやりとしたパンチに欠ける味になってしまい、アジェーナが期待していた方向とはだいぶずれてしまっていた。
「やっぱり、おいしくないかな? アールヴヘイムのエルフにも『ルオトラ料理はまずい』と言う方が良くいて……」
「そ、ソンナコトナイヨ……」
アジェーナは、申し訳なさそうな視線を向けたセルヴァに会釈で応える。
アルマス閣下もセルヴァさんも、自身を深く気遣い心を砕いて下さっている。
が――ない袖は振れぬものである。
手に取ったライ麦パンは、まるで石のように硬くパサついて水分ゼロの状態のもの。
ざくざくと、ナイフで切って一口含んだもののとてもではないが飲み込むことは叶わない代物だった。
(つ、辛い……スープは耐えられるけど、パンは慣れないと辛いだろうなぁ……)
スープを掬い、ライ麦パンを口に入れる。
不幸にも硬くなったパンを食べたことはある。
だが、酸味のある味わいを感じるパンを、現代の白パンに慣れ親しんだアジェーナは味わったことは無かった。
しかし、出されたものは綺麗に頂くべき――
日本人的価値観が染みついたアジェーナにとって、当分の主食をスープにしっかりと浸し、ただでさえ薄いスープの塩味をさらに希釈して黙々と食べることが、彼女に出来る唯一の抵抗であった。
とはいえ、味わっていけば分かる。
スープに溶け込んだカブと玉ねぎ、人参のような根菜類は、きちんと憔悴したアジェーナの消化を考えた上で細かく切って煮込まれている。
せめて冬場でも手に入る魚くらいは新鮮なものを使おうと気をまわしてくれたのは想像に難くないし、生のミルクをスープが白濁するほど用いることがどれほどの贅沢であるか、答えを導き出すのは難くない。
(うん、うん……なるほど、そういう料理だと思えば、御馳走に違いない……うおォン、私は人間法術演算機だっ……)
そうしてもくもくと食事を続けていくうち、アジェーナは気づけばライ麦パンの味わいにも慣れ、乏しい塩味を感じる余裕まで生まれていた。
郷に入っては郷に従え。
ライ麦パンの最後の一切れで皿を満遍なく拭い口に入れた最後の一口は、確かに自分が遠い異国の地へと足を踏み入れたのだと実感できる美味となっていた。
「ごちそうさまでした! 美味しかったです、ルルちゃん。シェフにお礼を言っておいてください」
「……ジェナちゃんは、優しい人なんだね」
一礼をするアジェーナの前で、セルヴァはほっと胸を撫でおろしワゴンを運び去っていく。
再び扉が閉じられたのを見届けてから、ゆっくりと椅子から立ち上がり、アジェーナは外肺をベッド脇に持ち運んで横になった。
(しかしパンはいいとして、新鮮な野菜が食べられないのは辛いなぁ……)
自分はこの場所で何が出来るのだろう。
どうせなら、甘味の一つでも、デザートに付く環境にならないものか。
そんな贅沢なことを考えながら、次第にまどろんでいく意識の中、次に起きたときは何か少しでも事態が好転していて欲しいと思うアジェーナであった。