叡智の嬰児
マルヤーナがアルマスを呼びに行った後、セルヴァはぬるま湯の入ったバケツとタオルをもってアジェーナの枕元に来た。
「お、お体、お拭きしますね……」
「どうぞ……?」
どうしてセルヴァはそんな気恥ずかしそうにしているのだろうか。そんなことを思いながらアジェーナが許可を出すと、セルヴァはアジェーナの布団をめくって上着を脱がせ、ぬるま湯で湿らせたタオルでアジェーナの体を拭き始めた。
「……気持ちいい」
「よ、よかったです……」
妙に艶やかな声でアジェーナが言うものだから、セルヴァはますます気恥ずかしくなってしまう。しかし、アジェーナの白磁のように滑らかできめ細かい肌を拭いていくうちに、とあることに気づいた。
意外と引き締まった腹部から太いへその緒が出てるのも気になるといえば気になるが、さっきからずっと気持ちよさそうにしているのに、ため息の1つも聞こえてこないのである。
(声も、のどから出してるというより、ノイズのない蓄音機から聞こえてくるような感じがする……どういうことなんだろう……)
一度気になると、どんどん意識がそっちに向いてしまうものだ。はじめはあんなに恥ずかしかったのに、今は無心でアジェーナの背中を拭いている。そういえば、彼女の体を起こすとき、表情はそこそこ痛そうだったが、うめき声の1つも聞こえなかった。
「あの、アジェーナさん、ジェナちゃんって呼んでいい?」
「はあ。いいですけど……」
急に距離を詰めてきたなとアジェーナが不思議に思っていると、続けてセルヴァはさっきからずっと気になっていることを尋ねる。
「ジェナちゃん、全然呻いたりため息をついたりしないけど、ちゃんと呼吸してる?」
「……気づかれちゃったか」
セルヴァが指摘すると、アジェーナは観念したかのようにまったく口を動かさず言った。
「あ、あ、なんか聞いちゃいけないことだった?」
「ううん。そのうち説明しないといけなかったし、いい機会だからルルちゃんには教えておきましょう。あ、もう服着ていい?」
動揺したセルヴァが手を止めると、アジェーナはのんきに脱がされた上着を着ていいか聞く。
「あ……はい、どうぞ」
「ありがとね。……さて、ルルちゃんの言う通り、確かに私は肺を持ってないので息をしていません。でも呼吸はしています」
「ん~……?」
アジェーナがわざと矛盾した言い回しをしたため、セルヴァは大きく首を傾げた。
「そこにずっと空気を吸っては吐いている”外肺”が置いてあるでしょ? あれがガス交換をしていて、胎盤とへその緒を介して私とつながってるから、息をしなくても呼吸ができるんです」
「赤ちゃんみたい……あ、じゃあやっぱりその声は魔法で出してるの?」
「正解。私たち嬰智種は、肺の代わりに神経の塊が詰まってるから、純血種よりも多様で強力な法術が使えるですって。だから、声帯がなくても日常生活に支障は……あんまりない、かな」
本当は「支障はない」と断言したかったが、外肺がかさばって邪魔くさく感じることはあるので、アジェーナはこっそり言葉を濁した。
「そうなんだ……一周回って面白いね……」
「そう思ってくれた方が嬉しいです。あんまり哀れまれたりすると、なんか悪いことしてる気になっちゃうから」
気まずそうなセルヴァの様子にアジェーナは苦笑する。逆の立場だったら自分でも同じような反応をするだろう。
そんな会話をしていると部屋の扉がノックされて、マルヤーナとアルマスが入ってきた。
「ここ、リントゥアルエ辺境伯家の嫡男、アルマスだ。この度は大変な目に遭われたこと、心よりお見舞い申し上げる」
「葦原皇国より参った者です。アジェーナとお呼びください。こちらこそ、お忙しい中助けていただき、誠にありがとうございました」
アジェーナが反射的に頭を下げると首に痛みが走る。我慢できないほどではないが、思わず顔をしかめた。
「無理するな。表敬でけがが治るなら、今頃戦場に王宮を立てるのがブームになっているはずだ。聞きたいことは山ほどあるが、まずはゆっくり寝て傷を癒してくれ。話はそれからだ」
「ありがとうございます……」
声変わりするかどうかぐらいの少年に、外見は20歳の自分が心配されている。その構図にアジェーナは情けなく思っていたとき、彼女のおなかがぐぅ、と鳴った。
「おおそうだ、昨日の昼過ぎからずっと何も食べてないだろう。セルヴァ、燕麦粥でも作って持ってきてやってくれ。バターは載せるなよ」
「え、なんでバター載せないんですか!?」
アルマスの指示に対してセルヴァが異議を唱える。彼女はバターが好きなのだろうか。
「お前にバターをトッピングさせたら、『燕麦のお粥~トナカイのバターを添えて~』が『燕麦のバター煮』になるだろ……それなら最初からバターを載せること自体を禁止した方がいい」
「体が弱ってる人にあんな脂肪の塊食べさせようとしちゃだめです。元気な人でも気持ち悪くなるんですから」
どうやらセルヴァのバター好きは常軌を逸しているレベルらしい。ため息をつきながらアルマスが諭すと、マルヤーナもそれに続く。
「そんなぁ。おいしいのに……」
セルヴァはひどく残念そうな様子でそう言うと、まるで荷馬車で出荷される豚のように、とぼとぼと部屋から出ていった。あまりにも哀愁が漂う彼女の姿に、アジェーナは思わず笑ってしまう。
「すまんな。あいつは少々味覚、いや好みがおかしくて……」
「いえいえ、人間誰だって好き嫌いはありますから」
そうしていくらかの世間話をした後、また快復したら詳しい話をしてほしい、と言ってアルマスとマルヤーナが退室した。少し経つと、セルヴァが燕麦粥を持って部屋に戻ってくる。
(なんかだいぶ味気ない気がするけど……量も少ないし、負傷者だから気を使ってくれたのかな)
いわゆるメシマズ系とは違って、味の傾向がおかしいわけではなかったし、何よりおなかがすいていたので、この時のアジェーナは何も気にしていなかった。