魂の帰るところ
白樺がぽつぽつと生える湿地帯。その中を流れる川を遡っていくと、やがて大きな湖にたどり着いた。
(うわぁ……)
目の前に広がる美しい景色に、思わずアジェーナは目を見張る。湖面のそこかしこでは鴨類が気持ちよさそうに泳ぎ、上空には美しい鷺類が獲物を狙っているのか優雅に旋回している。湖畔は草木で緑に染まり、トナカイなどの野生動物がのんびりと暮らしているのがちらほら見えた。
「ここがリントゥアルエ辺境伯家の代々守ってきた聖地『リントゥコト』だ」
アジェーナが壮大な自然に見とれていると、横にアルマスがやってきて言った。
「ルオトラ神話では、鳥を『魂の運び手』として位置付けております。このリントゥコトは、ルオトラ周辺に住む渡り鳥の一大繁殖地でして、毎年初夏になると沢山の鳥たちがここに集まってくるのです」
マルヤーナも反対側にやってきて、リントゥコトがなぜ聖地なのかを補足する。
「あとは、普通にチュンとの国境とアールヴヘイムとの国境、そして国内の各運河の水源として非常に重要だから、と言うのもある。ここに何かあったら、我が国は大混乱に陥るだろうからな」
確かに、地図を見る限り、ルオトラはこの湖から国内すべての河川に水が流れている。ここをせき止められたり、別の川を作られたり、何かで汚染されたりしたら、人々の暮らしにも、河の生態系にも大きな影響があるだろう。
「へぇー……」
アジェーナが感心していると、河川砲艦は右に回頭して2つの河のちょうど間を目指し始めた。よく見ると桟橋がいくつかあり、どうやら港町があるらしい。
「俺は叔父といとこ……リントゥコト子爵とその息子に顔見せに行ってくる。アジェーナはマルヤーナと森林浴でもしててくれ」
「わかりました」
自分は同席しなくてよいのだろうかと思いつつ、アジェーナは港周辺でこの絶景を眺めて楽しむことにした。
「のどかですねえ……」
街のパン屋で買ったシナモンロールをかじりながら、水と戯れる鳥たちを眺める。そんな贅沢なひと時を楽しみながらアジェーナが言った。
「ここは聖地で辺境ですから、あまり開発が進んでいないのです」
「下手に開発して、水が汚染されたら大変ですしね。……ん?」
そこまで言って、アジェーナはふと違和感を覚える。
「この文明レベルの国なのに、どうして無秩序な開発をしないのか、不思議に思っていらっしゃいますね?」
「ふえ!? いや、その、まあ、はい……」
失礼な想像をしたうえに、なぜかそれを言い当てられてしまい、アジェーナは動揺した。
「海を隔てて東にあるオーカリアとかは、工業化と乱開発で急速に自然環境が悪化して、我々よりずっと豊かなのに、日々の飲み水にも苦労しておられると聞きますからね。アジェーナ様はより進んだ文明をご存じのようですから、そんなことをお考えになっているのかなと」
「……素晴らしい推論です」
たくましい体格と武闘派なイメージから勘違いされやすいが、別にマルヤーナは頭を使うのが苦手なわけではない。貴族にふさわしい知識と教養があるし、エルフ系種にふさわしい知能がある。そのため、真っ向勝負ではかなわないのに、絡め手も通用しないという恐ろしいことになる。この人が味方で本当に良かったと、アジェーナは思った。
「まあ、これは簡単な話で、我々エルフ系種は長生きしがちですから、どうしても『長い目で見てどうか』をいつも気にするんです。長く生きていると、自然が変容するさまを目の当たりにするので、自然の回復力を信頼していない、ともいえるかもしれません」
「へえ、逆に、自然の強さに絶対の信頼を置いちゃいそうですけど、そうならないあたり、やっぱりエルフの皆さんって賢いんですねえ」
「……賢いなら、あんな失態はしないですよ」
すっと目を細めて、マルヤーナがつぶやくように言う。
「あんな……?」
「カヤーニは開かれた街ですから、間諜も入るだけなら簡単であることは事前にわかっていました。でも、そんなことはカヤーニ子爵家も知っていて、だからこそ日ごろから軍や警察の訓練に力を入れ、怪しい動きをすれば可及的速やかに捕まえられるようにしていたのです。でも、それは甘い考えであることを知りませんでした」
「ま、まあ、結果的に私も取り返せたし、町の被害も大したことなかったし、日ごろの訓練の成果が出たんじゃないですか……?」
「それじゃダメなのは、あなたが一番よくご存じでしょう?」
マルヤーナはアジェーナの方を向いて、珍しく強めの口調で言った。
「……最近、よく眠れていらっしゃらないようで、心配しています。私もアルマス様も、常在戦場の心で日々を生きておりますが、アジェーナ様はそうではない、人より魔法が強力な一般人なんです。その身を狙われ、いずこへと連れ去られる恐怖を、私たちはよくわかっていませんでした。改めて謝罪させていただきます。本当に申し訳ありませんでした」
マルヤーナが席を立って頭を下げる。彼女が葦原人だったら、土下座でもしていそうなくらいの勢いだ。
「……顔を上げてください。あの時、あの場にいた皆さんはベストを尽くしました。今もこの命があるのは皆さんのおかげです。感謝こそすれど、謝罪されるいわれはないです」
アジェーナにそう言われて、マルヤーナは姿勢を戻す。
「……わかりました。では別の方向でいきましょう」
そういうとマルヤーナは上品に椅子に腰かけた。細かい所作からも育ちの良さがわかるなあと、アジェーナは感心する。
「前に申し上げた通り、リントゥコトは渡り鳥の営巣地です。そして、我が国では鳥を神聖視していますが、その理由は彼らを魂の運び手であるとみなしているからでございます」
「だからこの湖が聖地なんですよね」
「はい。つまり、ルオトラのすべての魂はこの湖からやってきて、亡くなったらここに還ってくるわけです」
マルヤーナにそう言われて、アジェーナはもう一度湖の方を見る。最初に見た時はただの美しく自然豊かな景色だったが、改めてその謂れを知ってから眺めると、前よりも神聖な風景に見えてくるから不思議だ。
「今日ここをお見せしたのは、アジェーナ様を必ず帰りたいところへお返しする、その覚悟を示すためです。……ルオトラ人の魂が必ずここへ帰ってくるように、アジェーナ様には行きたいところに行き、安全に御帰りいただくよう、全力を尽くしますので、どうか安心してお過ごしください」
マルヤーナの方を向くと、彼女もアジェーナの方を向いて微笑んでいる。先ほどのような深刻な表情ではなく、思わずほっとするような慈悲に満ちた微笑みだ。
「なるほど、そういうことかあ……」
「すまない、遅くなった」
アジェーナが思わずそんなことをつぶやくと、背後からアルマスが呼び掛けてくる。
「アルマスさん」
「まあ、なんだ。敵はなかなか手ごわいようだが、我々だって日々研鑽を重ねている。もう前回のように後れを取ることはしない。これに限らず、何か悩みや不審な点があったら、随時相談してくれ。必ず対処する」
「はい、ありがとうございます」
一度植え付けられた恐怖は、一朝一夕で取り除けるものではない。とはいえ、その日以降、アジェーナの表情は少しだけ明るくなった気がした。




