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トラウマ

 暗闇の中を、一目散に走っている。

 外肺のブロワーが甲高いうなりを発し、肺組織を介して全身に酸素を送り込む。


 それでも、馬の走力にはかなわない。


(ひいっ!)


 後ろから蹄の立てる轟音が迫ってくる。精神が乱され、そこかしこの神経回路が勝手に興奮する状態では、法術(グリッチ)なんてとても使えない。


(やめて! 私が何をしたって言うの!?)


 声にならない叫びをあげて、アジェーナは走り続ける。迫る地響き。はち切れそうな心臓。

 そして、いよいよその轟に飲み込まれようとしたとき……


(うわあ!)


 辺境伯屋敷にあてがわれた一室で、アジェーナは目を覚ました。


(また、夢か……)


 本能的に行われる荒い呼吸。取り込まれた空気は存在しない気管ではなく腸に送り込まれ、肛門から排気される。万が一外肺を喪失した時、直ちに窒息しないため、嬰智種(ホムンクルス)はどじょうのように腸呼吸ができるよう設計されていた。


(……とりあえず、お風呂入るか……)


 辺境伯屋敷は、暖房兼発電用水管ボイラーの熱により、1日中温水が出せるようになっている。まだ日は出てないが、職種によっては起きているメイドもいる時間なので、そこまで迷惑がられないだろう。アジェーナはよろよろとベッドから出て風呂場へと歩みを進めた。




「最近、アジェーナさん元気ないですね」

「まあ、あんなことがあったからな。トラウマになっていてもおかしくはない」


 一見、いつも通りふるまっているように見えるアジェーナを遠目に見ながら、マルヤーナとアルマスはそのような会話をしていた。


「朝早くに起きてきてお風呂に入っていくこともよくあるそうで」

「……いい機会だ。いちど、我が国の聖地を見せておいた方がよさそうだな」


 アルマスはそう言うと、アジェーナを連れていくべく、彼女のもとへと向かった。




 カヤーニへ行った時にも乗った河川砲艦に乗り、今度は蒸気機関を使って上流へとさかのぼっていく。川岸の風景からはだんだんと人気がなくなっていき、よく言えば自然が豊かな地域、悪く言えば辺境に向かっていることを予感させた。


「アルマス様、そろそろ昼食の時間としてもよいのではないでしょうか」

「そうだな、このあたりで飯にするとしよう」


 新緑の溢れる森の中。そこを通る川の真ん中で食べる食料は、いつもよりおいしく感じるに違いない。


「アジェーナ様、ホッといたしましたか?」

「イエイエ、ソノヨウナコトハアリマセンヨ」

「何、別に責めているわけじゃない。あんなことがあったばかりだ。この船に乗るのだって、勇気が必要だったんじゃないか?」

「そう思っていただけるなら、ありがたいんですけども……」


――ぐう


 アルマスのフォローもそこそこに、アジェーナは自らの正直な生理現象に酷く赤面した。


「そうですね。そろそろ昼食にいたしましょう。我が邦伝統の保存食ですが、先ほどボイラー室で温めてきましたから、普通に食べるよりはお口に合うかと思います」


 そういって、マルヤーナが雑囊から取り出したのは布に包まれたライ麦パンであった。

 

 保存食のパン。

 アジェーナの脳裏に一瞬、緊張が走る。


 だが、取り出された素朴な黒パンにマルヤーナが、ナイフを入れたところでその緊張は困惑に変わった。


「これは、さか、な?」


 ガリっと音を立てて切り分けられた黒パンの中には、熱を通されて香ばしい匂いを漂わせる魚とベーコンが段々になって交互にぎっしり詰まっていた。


 こまった――これは例えようがない。

 けれど肉厚の魚がこれでもか詰め込まれている姿は、空腹のアジェーナにとっては十分美味しそうな食事に見えた。


「そうですわ。カラクッコと言って硬い黒パンに淡水魚と豚肉が重ねて入っていますのよ」

「俺も食べるのは、久々だ。いただこう」

「ちなみに、此方の切った方はアルマス様と私で。アジェーナ様には丸々一個用意して頂きましたのよ」


 アジェーナはマルヤーナからもう一個の“カラクッコ”を受け取った。


 手に持つカラクッコは、しっかりと熱を持ったうえでずっしりと重い。

 アジェーナはこんがりと焼き色がつき、硬くごつごつしたライ麦生地に、慎重に切り込みを入れる。

 

「わぁ……美味しそう」


 するとたパンの断面からは艶やかに脂が滴り、食欲をかき立ててくれる。


(これは……ルオトラ飯の中では大当たりなんじゃない?)


 たまらず熱いうちに一口頬張ってみる。


 まず感じたのは、香ばしいライ麦パンのもつ風味深い苦味だった。


 表面はまるでクッキーのように固く歯ごたえがあり、噛みしめるほどに穀物の旨みがじんわりと口内を満たして、結構おいしい。

 普段であれば感じるライ麦特有のほのかな酸味は、カラクッコにはない。なぜならその層にたどり着く前にぎっちぎちの魚とベーコンの層に行きつくからだ。


 中身の滑らかな淡水魚魚の肉質に舌が触れた。

 咀嚼するときに、魚の身がむちっと解れ、細かい骨が食感のアクセントとなって砕けていく。


(えっ、この魚……美味しい。鮎って言うよりイワナって感じの味がする……)


 淡水魚特有のほのかな泥の香りを想像していたが、それは全くなかった。

 その代わりに、感じるのは湖の水を思わせるような澄んだ清涼感のある風味だった。


 煙で燻したような繊細でありつつもしっかりとした魚の旨味が力強く伝わってくる。


 次に感じるのは、塩味と旨味をしっかりと感じるベーコンの味だった。

 ベーコンはしっとりとした脂分を持ち、僅かな燻製の香りが後を引く。


 このベーコンがあるおかげで、シンプルな川魚に適度な塩味が効いて、芳醇な脂と相まって旨味を一層増幅させる。


「はふはふ、これ、美味しいですね……」


 アジェーナは、しっかりと咀嚼しながら嚥下し、二口目を口に入れる。

 魚の焼き目の香ばしさ、焦げたライ麦の苦みが調和する絶妙なハーモニーだ。


 塩辛すぎず、淡泊すぎず、絶妙なバランスは――魚のサンドイッチという第一印象を十分覆し得る美味であった。


「アジェーナ様、ゆっくり食べないと、火傷してしまいますわよ」

「いや、しかし……疲れた体にはたまらない馳走だな」

「カラクッコ……侮りがたし」 


 アジェーナはシンプルだがなんだかんだ、飽きの来ない味わいであるカラクッコを気づけば丸々胃に収めていた。

 幸い、これ以降の行軍の間、二人の傍で腹が鳴ることは無かった。

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