予兆
翌日。アルマス、マルヤーナ、アジェーナの3人は、カヤーニ子爵夫妻──つまりマルヤーナの両親──と追加の農業ハウスや化学プラントを建てるための交渉をしていた。
カヤーニ子爵は武人然とした老人であるのに対して、子爵夫人は少々体格が豊かな20代女性のように見える。夫人の方が若干若いとはいえ、10歳も離れていないのにここまで見た目に差が出てくるあたり、ヒトとエルフ系種の差は中身以上に大きく感じられた。
『ふーむ……とりあえず、素晴らしい技術なのはわかった』
『方伯も弾薬費には頭を悩ませていますから、これまでよりはるかに安く硝酸が手に入るのはとてもありがたいですね』
子爵と夫人が好意的な反応を見せる。案の定というべきか、硝酸合成プラントが気になるらしい。
『ええ、ですので、ぜひとも我が領の設備投資にお力添えを頂きたく』
『ご協力いただければ、硝酸を方伯領に、硝安を子爵領に優先的に供給させていただきます。お値段も原価まで割り引かせていただきましょう』
カヤーニ子爵領は都市化が進んでおり、硝安の需要は対して無いと思われた。しかし、エステルボッテン方伯を寄親とする他貴族領にはルオトラ連邦の食を支える貴重な穀倉地帯が広がっており、その農業生産力は緯度も標高も高いリントゥアルエ辺境伯領とは比べ物にならない。
これらに対して、安価で強力な肥料を供給できることは、カヤーニ子爵の立場をさらに高めることになるし、単純に貿易黒字を増やすことにもなる。
『……わかった。大筋はこの条件で承認しよう。細かい部分は担当者間協議で多少値切ることになるだろうが、かまわんか?』
『いえ、今は一刻も早い火薬の増産が必要な時。問題はございません。承認ありがとうございます』
そしてアルマスとカヤーニ子爵は、固い握手を交わした。
技術的な説明と、契約。これらを済ませたころには、もう太陽が西の空に沈もうとするころになっていた。
「意外とあっさり決まりましたね」
リントゥアルエからついてきた水兵に買ってきてもらったのだろうか、シナモンロールをほおばりながらアジェーナが発声する。
「俺はこんなもんだと思っていたぞ」
「そうなんですか? カヤーニ側からすれば、自分のところにプラントを建てさせた方が実入りがよさそうですから、どこにプラントの建設位置と経営権の所在で揉めそうだなと」
「そこは初めから問題じゃなかった。カヤーニには、この硝酸合成プラントは建てられないし、農業用温室はうまみが少ない」
アジェーナが疑問をぶつけると、アルマスはさしたる問題ではなかったといわんばかりの回答をした。
「……?」
「前に言ったろ? カヤーニは国境の街で、戦争になったら真っ先に攻められる場所の1つだ。そんなところに、火薬の製造にかかわる重要設備を置いておきたいと思うか?」
「あ……」
カヤーニの財力と利便性の高さに気を取られ、国防上の理由でここに硝酸プラントを置くことは難しいということにアジェーナは気づけなかったのである。
「もちろん、要塞都市として守りを固めるという手もあるが、カヤーニは戦争で灰になることを前提とした街づくりをしている。いったん敵を上陸させた後、サイマー川の水底へ叩き落すのがこの町の防衛戦略だ。そういった面でも、やはり重要施設をカヤーニに建てることは難しいな」
「言われてみれば、そうでしたね……」
カヤーニの成り立ちは道中散々聞かされたはずだったのだが、どこか「川は防衛線の構築に使うもの」という思い込みが抜けなかったのだろうか。
「あとはまあ……我が邦の経済状況とは関係なく、早急に火薬の生産能力を向上させねばならない状況なんでな」
「え、『一刻も早い増産が必要』って、リントゥアルエ領の財政の話ではなかったんですか?」
うつむいていたアジェーナが、驚いてアルマスの方を見る。
「これを言うと気に病みそうだから、本当は言いたくないんだが……アジェーナが墜ちてきてから、チュン帝国からのルオトラ連邦に対する有形無形の圧力が増大している」
「……そうですか」
正直、驚きはない。辺境伯領の財政に関係なく、火薬の増産が必要ということは、どこかとの戦争が近づいているということだ。であれば、理由は相変わらずはっきりしないものの、どうみてもチュン帝国がアジェーナを追っていることが関係しているに決まっている。
「チュン帝国中央の方では部分的な動員が始まったとの情報もあるが、ルオトラとはだいぶ離れているから、軍勢が到着するまで数か月はかかるだろう。とはいえ、奴らの事だから、その前になんらかの非合法活動を企てる可能性は高い」
「拉致とか、ですかね」
軍事大国として何世紀もの間領土を広げ続けているチュン帝国は、決して力押しだけで敵国を屈服させてきたのではない。豊富な人口と多様な民族構成によって多くの工作員を抱え、これらによる合法非合法問わない活動もまた、かの帝国の強さを支えている。
「そうだな。君もなかなかの使い手ではあるようだが、至近距離での戦いに自信がないようだし、マルヤーナと手合わせして分かったように、君以上の戦闘力を持つ魔導士を連れてくることは不可能ではない」
「もっと、私自身が、強くならないといけない、ということでしょうか……」
アジェーナの絞り出すような言葉に、アルマスは静かにうなずいた。




