お約束の一手
時間は少し戻ってガラス温室農業プラント建設の段取りをしているころ、アジェーナはいつもの3人を集めて小会議室で二の矢をどうするのかという話をしていた。
「代謝や成長を促進させる法術は昔から使い手がおり、回路も現在では既知のものとなっています。にもかかわらず、これらが農業でほぼ使用されない理由はなぜでしょうかはいアルマスさん速かった」
「は? 俺はただアジェーナの話を聞いていただけだが?」
何の前触れもなく突然回答を迫られたアルマスは困惑する。
「でも実際、アルマスさんなら知ってるでしょ」
「まあな……基本的に、代謝促進魔法では成長に必要な養分を補給されないのが原因だ。いくら高速で建物が建築できても、資材がなかったら建物は建てられないのと同じことが起きる」
「結構! アルマスさんの言う通り、このまま温室の中で代謝促進グリッチ回路を構築しても、あっという間に土中の養分が枯渇してほとんど成長しなくなっちゃいます。このため、グリッチを併用して農産物の生産高を高めたいなら、肥料をばんばか使ってあげないと意味がないです」
そう力説するアジェーナに対する反応は三者三様であった。アルマスは無言で続きを促し、マルヤーナはいつも通りニコニコと微笑み、セルヴァは素直に驚いている。
「そこで、温室のボイラー兼火力発電所からの電気を使って、空気中の窒素を肥料化しましょう」
「空気中の」
「窒素を」
「肥料化……」
アジェーナの言葉にいったん3人が固まった。
「ちょっとまってくれ、空気が肥料になるなら、代謝促進魔法の最中でも植物には供給されるんじゃないか?」
空気の7割以上は窒素である。植物も気孔から空気を吸って吐いているのだから、炭素と酸素のように外部からの供給は不要なはずと考えたのだろう。
「いえ、植物は自力で空気中の窒素を取り込むことができないので、普通に法術を使っても供給されないないという認識であってます。窒素は極めて安定な物質で、水にも全然溶けませんから」
「なるほどな……」
アジェーナの話を聞いたアルマスは、腕を組んでなにやら考え込んでしまった。植物に直接窒素を吸わせる方法を考えているのだろうか。
「必要なのは窒素原子で、窒素分子ではありません。なので、例えば硝石の硝酸イオンとか、汚い話ですけど、尿の尿酸とかでも大丈夫です」
「尿……もしかして、屎尿が肥料として広く利用されているのは、あの中に窒素を含む物質が入っているからなのでしょうか」
マルヤーナが手を上げてアジェーナに質問する。
「はい。窒素の他にリンも入っているので、あとは草木灰とかでカリウムを足してやれば養分のバランスはとれます。現時点でも向上心の強い農家さんなら、経験的に理解しているのではないかと」
「そうなんですね。でもそれでしたら、普通に屎尿を用意すれば、わざわざ空気を肥料にしなくてもいいのではないでしょうか」
そう。マルヤーナの指摘したように、有機肥料だけでも肥料の三要素のバランスはとることができるのだ。それは、現代でも有機肥料で育てられた作物が、一定数商流に乗っていることからもうかがえる。
「できなくもありません。さっきも言ったように、これまでも向上心の強い農家であれば、経験的にやってきたことでしょうから。でも、化学的に合成した肥料、つまり化学肥料の方が、圧倒的に簡単で、なおかつ低コストなんですよ」
化学肥料の有機肥料に対する決定的な優位点は、品質が安定していて安価に大量に手に入ることだ。「空気からパンを作る」だの、「緑の革命」だのともてはやされたのは伊達ではない。
「……動植物に由来する肥料は、とにかく製造に手間と時間がかかるんだ。骨粉は元をたどると家畜を繁殖させて育てるところから始めないといけないし、草木灰も燃やすための草をはやさなければ始まらない。屎尿だって集まる量は周囲の動物や人間の数に依存するし、しかもしばらく土中で発酵させないと作物やそれを食べた人間を病気にする可能性すらある」
「でも、空気から肥料を作っちゃえば、製造設備を動かしている間ずっと肥料が生産され続けるし、成分も常に一定だから、土の中の三要素のバランスをより厳密に管理できるのかな。衛生的にも有利そうだし」
アルマスが有機肥料の問題点を、セルヴァが化学肥料の利点を挙げる。
「確かに、皆様のおっしゃる通りだと思います。とても勉強になりました」
マルヤーナは穏やかな微笑を浮かべてそう言った。
「で、やり方なんですけど、先ほど言った通り、窒素は水に溶けないので、化学反応で水に溶ける物質にします」
「具体的には?」
「硝安と硝石にします」
「硝石はわかるが、硝安……?」
アルマスたちは首をかしげる。
「法術を使わないプロセスはこうです。まずアンモニアと水素を鉄系触媒の存在下で……」
と言ってアジェーナは会議室の黒板に、アンモニアを合成したのち、一部を硝酸に変換してアンモニアや水酸化カリウムなどと反応させる経路を板書した。
「これはグリッチを使わない経路だよな? グリッチを使う場合はどうなる?」
「触媒が法術回路に置き換わるだけですね。もともとの反応がかなり無理をして引き起こしているものなんで、今のところこれを短縮するルートは……」
「ねえジェナちゃん、そのルートの後半に書いてある『二酸化窒素』ってこれの事?」
アジェーナがセルヴァの方を振り向くと、彼女の指先から赤褐色の気体が机の上に垂れ流されている。
「……臭え! セルヴァ! それやばい臭いがするぞ!」
「……窓、開けますね」
隣に座っていたアルマスが思わず立ち上がって怒鳴りちらし、マルヤーナは静かに部屋の窓を開けた。廊下からの隙間風が窓へ抜けていき、毒々しい色の毒ガスを外へ吹き飛ばしていく。
「この体のせいで直接かげなかったのは残念ですけど、アルマスさんの反応を見るに、ルルちゃんがさっき出した気体は二酸化窒素であってると思います。たぶん相当難しいグリッチだと思うんですけど、どうやったんですか?」
窒素と酸素の直接反応は吸熱反応である。すなわち、反応後より、反応前の物質の方が安定な状態である化学反応であるため、その反応条件はかなり厳しいものだ。
「ちっちゃいころ、物が燃えるのは酸素と急激に結びつくからだって教えてもらったから、空気中の窒素も燃やせるのかなってずっと頑張ってた時期があったの。炎は上がらないし、むしろガスの出ているあたりが冷たくなってくるし、みんなが臭いって嫌がるから、特に自慢できる魔法じゃないと思ってたんだけど」
セルヴァがきょとんとした顔で答える。オストワルト法が丸々ショートカットできる新ルートに、アジェーナは息のないため息をつくことしかできなかった。
今日でGWが終わり、ランクインも絶望的なため、毎日更新は今回で終了します。今後は週1くらいで細々と交信することを目標に頑張っていきますので、引き続き応援よろしくお願いします。
少しでも面白いと思っていただけたり、本作を応援したいと思っていただけましたら、評価(★★★★★)とブックマークをよろしくお願いします。