事の始まり
雲1つ無い青空の中。
スノーサの町を愛器とともに離陸したアジェーナは、次の補給地点であるノールボッテンに向けて飛行していた。
(気持ちいい……空を飛ぶってこんなに気持ちがいいことだったんだなあ)
心地よい温度に保たれた「緩衝液」のなかで、アジェーナはこぽこぽと漂いながら瞳を閉じる。
胸郭内の神経節を働かせ、自らを器体ごと「横に落とす」グリッチにより、彼女は順調に飛行を続けていた。
(嬰智種の優れた法術強度をテストするための有着陸世界一周飛行。内政が忙しくて葦原を離れられない先輩の代わりに、何としても成功させないと)
不慮の事故で死んだと思ったら、この艶やかでおぞましい女性の体に転生し、まるで兵器のようにテストと練成を繰り返される日々。最悪とはいわないが、お世辞にも他人に自慢できる人生とは言えないだろう。
(法術の練習は厳しかったし、先輩の転生知識チート講座も難しかったけど……これを土台にして、この世界の事をもっとよく理解すれば、きっと私も、もっとうまく立ち回れるようになるはず)
希望を胸に、アジェーナは閉じていた瞳を開いた。
コクピットのガラス越しには、先ほどと変わらないすがすがしい青空が広がっている。
(日が出ているうちにノールボッテンにはつけそうだし、本場のエルフさんたちがどんな暮らしをしているか、しっかり観察しよっと)
まだ見ぬ北国の町に思いをはせるアジェーナ。この後、まさかあんな目に遭うことになるとは、この時は全く想像もしていないのだった。
リントゥアルエ辺境伯領の長く厳しい冬も、つい先日ようやく終わりを迎えた。どんよりとした雪雲は嘘のように消え去り、空にはさわやかな青空が広がっている。
その晴れ空の下を、一組の男女が大きなトナカイにそれぞれ騎乗して進んでいた。
「さきほどのイヴァロ村も、とりあえず冬を乗り越えられたようで、一安心でしたね、アルマス様」
身の丈180cm近くはあろうかという大柄な娘が、ニコニコと嬉しそうに隣の少年へ話しかけた。まだほのかに幼さの残る顔立ちからすると、20歳は超えていないのだろう。浅黒い肌にとがった耳。顔立ちは人形のように整っていて、大きくてごつさすら感じる体格との間には、少々アンバランスな印象を受ける。羊毛から作られた防寒着に身を包み、腰の右側には刃渡り50cmもある長い銃剣、左側にはブルパップ式の散弾銃を下げていた。
「あそこはできたばかりの開拓村ではないし、イヴァロ男爵も統治者として及第点の人物だ。乗り越えるだけならやってもらわないと困るよ、マルヤーナ。……だからこそ、もっと村を発展させて、冬の間も経済活動を止めないようにしていきたいが、なかなか難しいな」
マルヤーナの言葉に対して、もう一方の少年が答える。マルヤーナと同様に浅黒い肌ととがった耳を持ち、綺麗に整った顔立ちではあるが、全体的に体の線は細く華奢で、明らかに成長途中であるのにもかかわらず、むしろマルヤーナより調和は取れた外見をしていた。こちらも羊毛から作られた色鮮やかな防寒着を身にまとい、腰の左側には銃身長254mmはあろうかという長い回転式拳銃と、豪華な拵えの軍刀を下げている。
「そうですよね……冬越しのために夏の終わりから準備を始めて、蓄えた物資をやりくりしながら春まで耐える……」
「鉱山のあるペツァモとか、単純に街として発展している首都ロヴァリンナなんかは『冬を耐え忍ぶ』以外の活動をする余裕があるから、冬でも仕事がある。でも、イヴァロみたいな田舎では、越冬のための物資を余計に消費できるような余裕がないからなあ」
「そんなところからあんまり派手に徴税すると、人死にが出て民衆の恨みを買いますし、税金を軽くすれば、殖産興業のための原資が足りなくてジリ貧になる……」
冬に立ち向かうためには豊かになる必要がある。豊かになるためには元手が必要だ。豊かでないから元手もあるはずがないのだが。
「あーあ、空からお金でも降ってこないもんかなあ」
「そんなありもしないことを夢見たってしょうがないですよアルマス様。現実を見ましょう」
盛大にため息をついてのけぞるアルマスに、マルヤーナが無慈悲な突っ込みを入れた時だった。
「……おい、あれ、鳥じゃないよな」
「あれ?」
アルマスにそう言われて、マルヤーナも青空へと目を向ける。
「……あのおっきいクジラみたいなのですよね? 飛行器でしょうか」
「俺もそう思う。物理現象だけで飛ぼうと思ったら、どこかにエンジンとかプロペラとかがついているべきだが、それがない。あんなのを動かせるなんて、きっと相当な魔法の使い手が乗ってるんだろう」
この世界にはバグが残っている。
所定の動作をすると、世界の法則が乱れ、おかしな速度でぶっ飛んだり、あり得ない化学反応が起きたりするのだ。そうしたバグを活用する術を、この世界では魔法と呼んでいた。
「飛行機であんな高さを飛んでたら、それはそれですごいですけどねえ……」
「そうだな。我が邦に招いて技術指導を……ん?」
直後、空を気持ちよく泳いでいたクジラの周囲に、複数の黒煙の花が咲く。飛行器に対して榴弾による曵火射撃が行われたことは、だれの目にも明らかだった。
「ちょっと! 撃墜されましたよ!?」
優雅な流線型の巨体がへし折れ、人が乗っているであろう前半分は水平きりもみ状態に陥りながら、辺境伯領の方向へ墜ちていく。
「撃ったのはうちじゃないぞ!? マルヤーナ!」
「はい! 墜落地点に急ぎましょう!」
二人はそう叫ぶや否や、トナカイをその辺の木──実際には障害物なら何でも良い──に横付けさせる。続いて手綱を木の方向に引き、反対側からムチを入れた。
するとトナカイは調教された通り木に向かって横っ飛びをする。騎乗者がトナカイごと木にぶつかってから1/60秒以内に手綱を前に押し、ムチを入れたのと同じ方向から拍車を入れると、トナカイは騎乗者ごと30Hzでブルブルと左右に震えだした。動体視力の良い者なら、彼らが繰り返し木にめり込んでいることが見えるかもしれない。
「いくぞ! 遅れるなよ!」
「もちろんです!」
二人が木の立っている側からムチを入れると、鞍上ごと振動していたトナカイは、物理法則を無視して勢いよくかっ飛んでいった。
くるくると落ちていく飛行器を追いかけて、アルマスとマルヤーナは乗っているトナカイごとバグった速度で吹っ飛んでいく。巻き込まれているトナカイたちはさぞおびえていることと思いきや、もはや何も考えられず流れに身を任せているようだ。
「しかし、なんでチュン帝国の奴らはいきなりあの飛行器を撃墜したんだ!?」
「帝国主義者の考えることなんてわかりませんよ! でも、あの飛行器がチュン帝国にとって撃ち落としたいものだったってことはわかります!」
猛烈な風切り音に負けないように二人が怒鳴りあう。チュン帝国は辺境伯領の南西側で接している好戦的な国で、いくつもの異民族を征服して巨大化した大帝国だ。この国はここ半世紀の急激な拡大で辺境の治安が悪化しており、チュン帝国領から侵入した馬賊が辺境伯領の運河舟を襲撃したり、国境沿いの村で略奪を働こうとしたりするため、辺境伯領にとっては「迷惑な隣人」と化している。
「……くそっ、やっぱ間に合わないか」
アルマスが前に向き直ると、飛行器はちょうど地面にぶつかって砕け散るところであった。粉雪が勢い良く舞い上がり、煙のように白く立ち上るものの、やはり可燃物は積まれていないのか、炎や黒煙が上がる様子はない。
「誰かが脱出した様子はありませんでしたよね!?」
マルヤーナから悲鳴のような確認が飛ぶ。炎上してないとはいえ、あの高さから落ちたらまず助からないだろう。
「死体ぐらいは弔ってやるのが人間ってもんだろ!」
前を向いたままアルマスが叫び返す。冬が明けたとはいえ、それまでに大量の雪が地表に降り積もっていた。寒く冷たい場所に放置するのは、たとえ死体でもいたたまれない。
「そうでしたね! 失礼しました!」
いずれにせよ、外から飛んできた飛行器が、他国に撃墜されて自国領内に墜落するというのは、間違いなく異常事態である。統治者の親族として迅速に確認すべく、二人は物理法則をゆがめながらかっとんでいった。
本日はこの後12時過ぎにも更新予定です。