侯爵貴族の屋敷にて(その1)
王都エンドアの東の一画には、大きな屋敷が建ち並んでいる。金持ちや貴族が多く住む、高級住宅街となっているのだ。
どこもそれなりの広さの敷地を誇っているので、それぞれの門と門の間隔は大きく空いている。そんな中で一際目立つのが、赤いレンガ塀で囲まれた森のような場所だった。
塀の内側に沿って、緑の葉の生い茂った大木が大量に植えられている。もしも知らない者が通りかかったら「公園か何かだろうか」と誤解するかもしれないが、もちろん街の人々のための公共施設などではない。
キリンガルム侯爵の屋敷だった。
その屋敷の奥に『梅の間』と呼ばれる一室がある。
部屋を囲む四面のうち一つは壁ではなく引き戸で構成されていて、開ければ縁側となり、中庭に面している。中庭といっても小さなものではなく、四季折々の花を咲かせる生垣だったり、片隅には池が掘られていたりする、かなりの規模の庭園だ。
開放的な構造であり、風情も感じられる部屋をキリンガルム侯爵は気に入っており、今夜も彼は梅の間で晩酌を楽しんでいた。
ただし芸妓や酌女も同席しておらず、むしろ逆に、人払いを申し付けてあるほどだ。モーリッツ大公から送り込まれた者と差し向かいで飲む形であり……。
いわば密談の真っ最中だった。
「それで、どうなっておるのだ? あのクラウドという男の動向……。用向きは済んだはずなのに、まだ王都に留まっておるのだろう?」
行政府や王宮で他の貴族と接する時、キリンガルム侯爵は慇懃無礼にも聞こえる口調の場合が多い。しかし今は己の屋敷の中であり、ストレートな物言いになっていた。
既に七十歳を超えて、髪も髭も真っ白になっているキリンガルム侯爵。頬もこけてきており、若い頃から痩せ気味の体格は、年齢のせいで痩せ衰えている、と思われるかもしれない。
しかし、まだまだ老け込むようなタイプではなかった。例えばその瞳の奥には、前途ある若者にも負けないくらいに、野心の輝きが宿っている。
そんなキリンガルム侯爵と向かい合って座っているのは、灰色のローブに身を包んだ男。ローブのフードは後ろに垂らしているので顔はあらわになっているが、それは普通の人間のものではなかった。
太く短い鼻面に、いかにも噛む力の強そうなガッシリした顎。刺青みたいな黒い線が顔面に何本も刻まれているところまでは、ファッションの一言で済ませることも出来るかもしれない。しかし何よりも異形なのは、両耳が頭の上に生えていること。
虎の力を持つ半獣族の男、つまり虎の獣男だった。
「はい、まだ国に帰る素振りは見せておりません。殿の提案は大人しく受け入れましたから、そちらに関しては問題ないのですが……」
この虎の獣男も、王宮に仕える庭人の一人。
しかし現在の王宮の実権を握っているのはモーリッツ大公なので、ミノグールの頭領に率いられた庭人たちは、モーリッツ大公を『殿』と呼んで敬っていた。
だから彼が「殿の提案」と言っているのは、キリンガルム侯爵の遠縁の一人がアザッム家に入り、新たな『アザッム伯爵』になるという件だ。それについてはクラウドが王宮に参内したその日のうちに、キリンガルム侯爵もモーリッツ大公に呼ばれて、事の次第を聞かされている。
元々クラウドは忠義の心が厚いという噂であり、亡くなった主君に対する忠誠心から、この話には難色を示すのではないか。そんな心配もしていただけに、キリンガルム侯爵としてはホッと胸を撫で下ろすどころか、やや拍子抜けするくらいだったが……。
「『そちらに関しては問題ない』とはどういう意味だ、デグロール。何か別の問題が発生しておるのか?」