終章 変わりゆく者達へ(1/2)
どんな一日も必ず終わる。騒然とした昼が、悲嘆に沈む夜へととって代わり、また朝がやってくる。
教皇領、大森林保護区。そこに、人間とは異なる容姿をした狼人族という種族の集落がある。
亡骸は昨日の内に弔われたものの、いまだ生々しい血の痕の残る広場。そこに大森林保護区に暮す全ての狼人族が集まっていた。皆一様に表情は暗い。人間領のただ中という、いわば陸の孤島で彼らが不安になることなくたくましく生活できていたのは、テヴォという偉大な族長に支えられていたからに他ならない。
誰よりも強く、誰よりも思慮深く。どんな苦難が立ち塞がろうとも彼の後についていけば大丈夫だと後塵を拝する者達に思わせる大きな背中。それが失われた今、彼らの心には大きな空白が生まれてしまった。
木の一本も生えていない茫漠たる荒野を往くかのような、先行きの見えない不安。これから、どこへ向かえばよいのだろうか。
「ごめん……うちが来たから、こんなことに……」
いまだ大地に染み込んでとれない赤黒い残滓を一瞥し、黒髪の勇者は俯いた。傍らには二人と一匹の護衛もいる。
今回のことに関して、ユウは少なからず負い目を感じていた。
自分がこの集落を訪れなければ、あのような悲劇は起きなかったのではないか。少なくとも、聖堂騎士に集落を発見されることはなかっただろう。彼らが訪れなければ、ユウ達人間がいなければ長指族とも温和な話し合いができたのではないか。
――テヴォがあんな死に方をすることはなかったのではないか。
そのしょぼくれた頭に、黒い毛に覆われた大きな手の平が優しく置かれた。
「いや。嬢ちゃんが来てくれたから、族長は誇り高い狼人族として逝けたんだ。嬢ちゃんが謝ることはねぇよ」
代表して口を開いたのは男衆の一人。ここを訪れた時、一番最初にユウ達を出迎えた狼人族だった。
「どのみち、長指族が来れば俺達は――族長は戦ってたさ。あの人が人間を殺せるわけがねぇんだ。人間の娘がいる、あの人には」
ユウがいてもいなくとも、交渉は決裂していたと彼は言う。そしてそれは恐らく正しい。
人間に妻を殺され、それでも人間を恨まず、それどころか赤子を拾い育てるような慈愛に溢れたあの族長が罪もない人間を殺して回るなどできようはずがない。もちろん、その族長の背中を追ってきたこの集落の全ての狼人族もそうだ。
「なんにせよ、だ。もうここには、いらねぇなぁ」
テヴォと共にあったここでの暮らしを懐古するかのように、狼人族達は長く暮らした集落の家々を見回した。彼らの中にはここで生まれた者も少なからずいるだろう。この森で生まれ、この森しか知らない若い世代。この場所を故郷とする者達。外の世界へ憧れを抱く者もいればそうでない者もいるだろう。
ここを離れたくない者も、いるだろう。
狼人族達の今後については、皮肉にもユウ達の望む通りになった。この集落にいる狼人族は全て、“勇者特区”へと移り住むことになる。
狼人族がやったわけではないが、昨日多くの聖堂騎士達が死んだ。帰らぬ者を訝しみ、救助のために追加の人員がこの森にやってくることは想像に難くない。そうなればもうここでは暮らせない。
見つかった時点でもうどうしようもなかったのだ。それこそ彼らを懐柔して黙秘させる以外には。だがそんなことできようはずもない。
「輸送用の荷馬車を用意する必要があるな。それから全員同時は厳しいから、何往復かに分ける必要もある。現地につくまで人目につかないようにする必要がある以上、窮屈な旅になるだろうが……」
「かまいやしないさ。行った先に、楽しく生きていける場所があるんならな」
レイの言葉に鷹揚に頷いた狼人族の男は、次いで手を勇者の頭から肩へと置き換えた。
「どうだい勇者の嬢ちゃん。“勇者特区”はいいところかい?」
その問いに、勇者は顔を上げてしっかり相手の顔を見て言った。
「これから、皆で、ええところにするんや」
「……そうかい。そいつはいい。俺達しだいってわけだ」
無闇にいいところだと言われるよりも、その方がいい。自分達で土地を切り拓き、木を伐り、家を造り、住みよい場所を作る。この集落はそうやって生まれた。
また作ればいい。この集落よりももっと住みやすい、人間に怯え隠れる必要のない新たな故郷を。
狼人族と人間が、手を取り合って、あの親子のように笑いあって生きていける場所を。
「――あの娘は?」
あの紅髪が見当たらず、セラが周囲を見回しながら呟いた。
昨日は誰一人、ディナとまともな会話をしていなかった。当然だろう。自身の手で、父親をおくった娘にかける言葉など誰が持ち合わせていようか。
喉が裂ける寸前まで叫び、身体中の水分が出て行ってしまうのではないかと思うほどに泣いた彼女は、その後、言葉を忘れてしまったかのように黙した。促されるまま、父親の遺体を埋葬している最中も一言も発しなかった。あのディナが、だ。
狼人族に火葬の文化はない。遺体は集落の隅に埋められ、墓石も作られることはない。何も、しない。
生き物は死ねば土へと還り、微生物に分解され、やがて草木の養分となる。そしてその草木の実りを動物が糧とする。そうして命は廻っていく。自然の大いなる循環。テヴォはその循環へと還ったのだ。
ディナは父の眠る場所から動こうとしなかった。セラが無理矢理着替えさせなければ赤黒く変色した修道服を着替えることもしなかっただろう。
「――ここにいるよ」
すっかり枯れた声が、狼人族達の背後から聞こえた。
左右に割れた狼人族達の合間をやつれたディナが歩み出る。腫れぼったい目。寝ていないのだろう、隈もできている。昨日までの彼女とはまるで別人だ。
「まずは教皇に会いに行って今回の件を報告……。そんでアムディールの野郎を押さえつけて、移住が完了するまでここに誰も近づかねぇようにしねぇと……」
ユウ達の元へと歩み寄ったディナは一度深く息を吸い、一息に吐き出す。
「――泣いてる場合じゃあねぇな。親父に笑われちまう」
次の瞬間には、その瞳に強い意思が宿っていた。
そう、やるべきことはたくさんある。
今となっては、ディナ達が何者かに監視されていたのは明白だ。だが、森の中まで追跡されていたかというとそうではないだろう。もしそうなら鼻が利く狼人族が気づかないわけがない。つまり、狼人族の存在を新たに知った人間は昨日全員死に絶えたことになる。まだあの狡猾な枢機卿にこの集落の存在は知られていないはず。
だが、いつまでも部下が帰らないとなれば追加の人員を差し向けようとするはずだ。それを食い止める必要がある。保護区の警備を増員する、アムディールの動向を監視する等々、あらゆる手段を用いて移住が完了するまでの時間を稼ぐ。そのために教皇と共に奔走する必要があるだろう。
落ち込んでいる暇などない。この集落に暮す狼人族の全てがディナの家族だ。家族を守るために、今度は自分が力を尽くすのだ。
「……強いな、お前は」




