第五章 天に吠える狼少女(4/5)
ドクン、と。
見えない波がユウを中心に広がっていった。それはその時、その瞬間に世界が変わったことを示す証左。零が一に、無が有になった証明。本来あり得ざる可能性が生まれ落ちた産声。
世界が波打つ。その鼓動が運命の変動を世界の隅々まで伝えていく。その波を、知恵ある者は“界脈”と呼んだ。
レイが長剣を大地から引き抜いた。もうその必要がないと感じたからだ。
折り重なるように覆い被さっていた狼人族達もレイに続いて力を緩めて下がった。もう押さえつける必要はない。もう彼が暴れる様子はなかった。
「親父……」
おずおずとディナが歩み寄った。未だ泡立ち続けるその巨体を地面に横たえている彼へ向けて。
「親父……親父……ッ!!」
すぐ触れられるほどディナが近づいた瞬間、ビクンとその巨体が動いた。レイや他の狼人族が身構える中、その肉膨れした太い腕を支えに彼は上半身を起こした。
「う、おお大声出すなィ……ギ、き、聴こえてラァ……最初か、かかから、ずっと、な……」
肉に埋まった顎から、理性ある言葉が零れた。
テヴォの意識が戻ったのだ。
「「族長オオッ!!」」
周囲の狼人族達が歓喜の声を上げた。ユウも、その護衛の二人も、そしてもちろんディナも安堵に胸を撫で下ろした。
ユウの力によって、肉塊と成り果てたテヴォが人間と共に生きていける可能性を得たのだ。
涙ぐんでいることを悟られないように、ディナは一度目を閉じて空を仰ぐと、いたずらっぽい笑顔を作った。
「なんだよ。聞こえてんなら、ちゃんと返事しろよ。クソ親父……!」
「ぐ、ガ、ハハハ……だ、だぁれが、クソ親父だ、ば、馬鹿娘……そんなだから、へ、返事する気が、失せたんだ」
いつも通りのやりとり。心の底から楽しそうな、親子の会話。愛情の籠った悪態。
「感動の再開……再開?のところ悪いけど、長々と話してる暇はないわ。いつ再生の限界が来て身体が崩壊し始めるか分からない。私の知りうる魔法の知識を全て使って、元に戻す方法を探るわ。ディナも手伝って。練魔行が肉体を活性化させるならその逆もできるはず。まずはこの過剰再生を止めないと。失敗しても恨まないでね」
近寄っても安全であることを確認したセラがさっそくその身体を調べにかかる。意識が戻っても、治癒魔法の暴走が止まったわけではない。暴れなくなって多少は延命できたとしても、いずれは再生の限界が来て身体が崩れてしまう。それまでに解決策を見つけられるかどうか。
正直、見込みは零に近い。
それでも、限りなく零に近くとも可能性は存在する。ならば手を尽くす意義はある。諦めるのは手を尽くしてからでも遅くない。それはこの場でユウが証明したところだ。
跪いてテヴォの身体を触診するセラ。
だが――
「よしなぃ……ま、魔法師の姉ちゃん……」
頭上から降ってきた拒否の言葉にセラは怪訝に首を傾げた。
「お、オ、俺は、もう、ダメだ……いつ、また、意識が飛んで、暴れちまうかかか、分からねぇ……」
「親父!何言ってんだよ!てめぇ、頑丈なだけが取り柄だろうが!どんな大怪我しても、一晩経てばケロッとしやがってさ!消毒とかいって酒まで呑むし、そんなやつが、そんな弱気になってどうすんだよっ!」
必死に訴える娘に向けて、父親は腕を伸ばそうとした。
だが、止めた。意図せずに疼く腕を、意思の力で抑え込むことで精一杯だった。
「か、身体中が、い、痛ぇんだよ……全身の生皮を何度も剥がされてるみてぇだ……。い、今にも、痛みで、頭がどうにかなっちまいそうなんだ……」
全身が異常な再生力によって膨張し、破裂し、また再生する苦痛。その途絶えることのない拷問の中にテヴォはいる。本来ならとうの昔に精神が先に耐えられず死んでいるはずなのだ。勇者の力の介在があったとはいえ、今意識を保っていられるのは一重にテヴォの強靭な精神力の賜物だ。彼でなければ勇者の力は何の意味もなくなっていただろう。
「分かるんだ……次、意識がとんだら、も、もう戻れねぇ……ただ、痛みに暴れるだけの……肉の塊になっちまう……そ、そうなる前に……お、おレを……」
「嘘だ……やめろ!それ以上言うなッ!!」
次に紡がれる言葉を察したディナがその言葉を遮る。
それを機に重苦しい沈黙が降りた。
誰も、かける言葉が見つからなかった。ユウでさえ、どうすればいいか分からず、何を言えばいいか分からず、一度口を開けたが何も言わずに閉じてしまった。
これから元に戻す方法を探す、そんな悠長な時間などなかったのだ。今この時会話を交わせているのが奇跡。
ボコリと肉が泡立つ。その様を見て耐えろなど、誰が言えようか。
だから、これが最期だと。誰もが分かってしまったから、何も、言えなかった。
「ディナよぉ……」
その沈黙の中、父親は語る。
「て、てめぇを森の中で見つけた時、さ、最初は……そのまま放っておこうと、お、思ったのさ……でもよぉ、あんまりお前が、わんわん泣くから……でけぇ声で生きたい生きたいって泣くもんだからヨォ……魔が差して、拾っちまった……」
テヴォには妻も実の子もいない。魔族領から人間領へと逃走している最中、妻は人間に矢を射られて死んだ。故に、テヴォにとって人間は妻の仇なのだ。だが、彼は人間を恨むことはなかった。自分の縄張りに侵入した異物を排斥しようとするのは生物として自然な反応だと思ったからだ。
何より、憎んだところで妻が生き返るわけでもない。
妻を失って間もない頃、失意に沈む中見つけた人間の赤子。今にも事切れそうな母親の胸に抱かれて、力の限り泣き叫ぶ小さな生命。
失われる生命がある。だが、彼の意思一つで救える生命もある。
手を差し伸べたのは、自然に反することだったのだろうか。
「顔の形もちげぇ、毛も生えてねぇ……だってのによぉ……日に日に、狼人族よりも狼人族らしくなりやややがって……」
言葉を発するのも辛いのか、時折苦し気に意味のない音が口から漏れる。
「い、今では、本当に、てめぇの娘ダと、思ってる……。娘のために、親が身体張るのは、当然だ。悔いは、ねぇ……」
「――なんで、なんで今そんなこと言うんだよぉ!?それじゃまるで、まるで……!」
その先をディナは言えなかった。言いたくなかった。
だが、堰を切ったように流れ出した涙が、全てを物語っていた。