第四章 招かれざる者(1/4)
宴の夜が明け、また朝がくる。森のただ中でないと聴くことのない不思議な余韻を残す鳥の鳴き声が朝靄の中に響き渡った。それはさながら魔除けの聖なる音色。その声を耳にした夜に生きる者達は、陽の光に灼かれる前にそそくさと塒へと帰っていく。光のあるなしで森の生態系は驚くほど変わるのだ。だが決して分断されているわけではない。それぞれパズルのピースのように密接に繋がりあい、森という一つの生物相を描き出す。当然狼人族もそのピースの一つだ。
族長ことテヴォの家だけでは人間一行がまとめて夜を越すには手狭だったので、各々適当に分かれて狼人族の家にお邪魔して夜を越した。寝床を提供することに難色を示す狼人族は一人もいなかった。
レイが習慣である朝の鍛錬のために陽が昇ると同時に起き出すのとほぼ同時に狼人族らも起床し始めた。彼らに見られつつも筋力トレーニングを始めたレイだったが、それを面白がった狼人族の男衆が集まり集団でのトレーニングとなり、しまいには組手へと発展し、昨日の宴の続きと言わんばかりのお祭り騒ぎとなった。
このような風土で育ったのなら、なるほどディナの性格も頷ける。こんな騒ぎになったのは、ある意味それを予想できなかったレイの責任か。
さすがに昼前には騒ぎは収まり男達は仕事に戻っていったが、律儀に挑戦者全てを相手にしたレイはその頃には疲れ切って地べたに座り込んでいた。
「ほんと、真面目というか何というか……」
呆れた様子のセラが横に立って、呼吸を整えている騎士を見下ろした。すぐ側にはユウとさくらもちの姿もある。騒ぎの最中に二人とも騒々しさで目を覚まし、見物客として観戦していたのだ。
「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……今まですごいなぁぐらいしか思ってへんかったけど、全員に勝ってまうなんてレイ君化けもんやな……」
自身の護衛の実力の高さに感心を通り越して亜然とするユウ。レイは挑戦者をすべからく打ち負かしたのだった。とはいっても、集落に来る最中のディナとの組手ほど実戦形式ではなく、狼人族は練魔行を使わずレイも素手。つまりステゴロの殴り合いだ。
最初こそいかに穏便に済ますかを考えていたレイだったが、相手の実力が油断すればやられかねないレベルだったこと。そして男であり身体も丈夫でちょっとやそっと殴った程度ではビクともしないということで、途中からはレイも気兼ねなく相手を殴り飛ばしていた。もちろんお互いに大怪我をしないように一線は引きつつ、ではあるが。だが終盤になりレイの実力が尋常ではないと分かると狼人族はもう加減などしていなかったように思う。結果として怪我をしないためにもレイは全力で相手をするはめになり、その結果が今の疲労状態だ。
それでも勝ってしまうのだから流石といったところか。少なくともこの騒ぎで狼人族の男衆がレイのことを見る目は変わったように思う。友好と尊敬、そこに少しの対抗心。
「ちぇー、なんであたしは駄目なんだよ」
と、いつの間にか審判役になっていたディナが口を尖らせる。
「……俺を、殺す気か……」
まだ息も絶え絶えにレイが絞り出す。あんな状況でディナまで参入すればさしものレイもやられかねない。何より相手が男だから気兼ねなく殴れたが、相手がディナならそうもいかない。いろいろと考慮しなくてはならない分、男を相手にするよりも何倍も疲れる。
「適当なところで参ったとでも言えばいいのに」
ようやく気息を整えて立ち上がったレイに、セラはそう声をかけた。レイはもう一度深く息を吸い、長く細く吐き出す。それで乱れはすっかり霧散した。
「男にとって、加減されるのは一番の屈辱だ。それをされても構わないほどの実力差があるならともかく、な」
組手をして分かったが、狼人族は強い。練魔行を用いればその戦闘能力は戦場で最大の脅威である戦鬼族に迫るとレイは感じた。魔族階級ならばほぼ同格かもしれない。一対一という形式であったからこそレイは勝ち越せたが、相手の方が多ければさしものレイも厳しかった。
「面倒ね、男って」
心底面倒そうに、物憂げな瞳の美女は呟く。だがレイの疲労は決して無駄ではない。この一件でレイに好感を抱いた狼人族は少なくないだろうからだ。
「それで、今日はどうするん?」
さくらもちを抱え上げてユウは問う。昨日宴で“勇者特区”への移住の件は周知されたが、まだ具体的に何人が移住するかなどは聞いていない。
「とりあえず皆にも考える時間がいる。それに、移住するやつらをバレないように“勇者特区”へ連れていくための馬車の用意もいるな。それは教皇がなんとかしてくれるだろうが、そのためにもあたし達は一旦教皇のいる大聖堂区まで行くか」
まだ少し不満げな様子のディナが今後の展望を話す。
「バレちゃアカンの?」
「一応な。親父みたいにここに残るって連中もいる。そういうやつらはなるべくそっとしておきたい。バレない限りはここで暮らしてればいいさ」
目下彼らにとって最大の危惧は、外に出ることを望む若者が捕まり、この集落の存在が人間にバレることだ。教皇が手を回したとしても、大っぴらに狼人族は敵ではないと言えない内はいずれ討伐隊が組まれる。そうなれば狼人族達はこの場所を離れざるをえなくなる。
本音を言えばこの集落の全員が“勇者特区”に移住してくれるのが一番都合がいい。ラドカルミア王国内にある“勇者特区”ならば、何かあったとしても最悪魔族領に逃げ延びるという選択肢もとれるからだ。人間領のただ中である教皇領大森林保護区では逃げ場がない。であれば、相変わらず隠し通すしかない。ラドカルミアが魔族を匿っていると糾弾する声があれば、ローティス教がそれとなく手を回そう。かつて教皇がアムディール枢機卿に言ったように、自ずから瓦解するまでは手を出すべきではないと。それで時間は稼げよう。
「で、いつ出るよ?」
「お腹減った」
「じゃあお昼食べてからかしらね」
と、一同が今日の予定を確認した。ちょうどその時だった。
アオォォォォン――
どこからか聴こえた遠吠え。それが聴こえた瞬間、ディナと周囲の狼人族達が一斉に表情を険しくして作業の手を止めた。
「女共は子供を連れて奥へ引っ込めェッ!男共は集まれェッ!」
緊迫した声色で指示を飛ばしながら、族長のテヴォが声色と同じ表情でユウ達のいた集落の中心、広場へと出てきた。昨夜の宴もここで行われた。だが今やこの空間には昨日の陽気さとは真逆の張りつめた緊張感が満ち満ちている。ただならぬ様子にユウ達にもその緊張が伝播、レイが説明を求めてディナの険しい横顔を窺う。
「……今の遠吠えは、緊急事態を報せるものだ。村に大型の獣が入り込んだか、あるいは――」
戦える狼人族の男衆十名ほど、それ加えて族長のテヴォ、そしてディナ、ユウ、レイ、セラの人間四人。戦えぬ女子供はすぐさま遠吠えが聴こえた方向と真逆に逃げた。避難は極めて迅速。森で暮らす以上、危険はいつだって隣り合わせだ。緊急時に速やかに動けぬようでは生きていけない。
「――妙な匂いがしやがるなぁ」
その鋭敏な鼻をひくつかせてテヴォが呟いた。彼らの嗅覚は人間のそれを大きく上回る。それによって危険を事前に察知し、回避して彼らは生きてきた。高い戦闘能力を持つ狼人族だが、基本的には戦闘は避ける。しかし集落まで攻め込まれれば話は別だ。生活の拠点はそう簡単には変えられない。
臨戦態勢の族長達の様子を見てとって、レイは一旦屋内へと引っ込んだ。愛用の長剣と盾をむんずと掴んで外に出ると、族長に駆け寄る一人の狼人族の姿を見咎める。おそらく先の遠吠えの主。集落の警備を担う者だ。彼から何事か説明を受けたテヴォはその黄色の瞳をスッと細めた。
「……ディナ、お前の知り合いらしいぞ」
「ああ?」
怪訝な表情をした若い異端審問官だが、族長の見据える方に目をやるとすぐに納得と、怒りの表情がその顔面に浮かんだ。
「――なるほど、確かにそうだ。だがここにあんな連中遣わすのは教皇じゃねぇ。あのデブかぁ!」
村の入り口に侵入者達の姿があった。白地に緑の刺繍が施された修道服に胸部を護る板金鎧、手には一本の長槍。その姿はまさしくローティス教の聖堂騎士を示している。数はおよそ十。教皇ないし彼と志を同じくする者がこの集落を訪れる時はそんな物々しい装備の兵士を伴ったりしない。
彼らは集落を亜然として見回していた。人間領、それも教皇が不可侵と定め護ってきた大森林保護区の中にこのような魔族の集落があったとは。
彼らの隊長と思しき先頭の男がこちらを険しい目つきで睨むおぞましい黒毛の魔族達を見つけ、喉の奥からひっと悲鳴を漏らした。恐怖から道中で見つけたお守りを握る腕に力が籠る。そして震える逆の手で腰のナイフを引き抜いてお守りに突きつけた。この場にあっては神の加護などよりよほど信頼できるそのお守りを。
「匂いで、分からなかったのか……!」
ディナがその光景にギリッと奥歯を噛んで目を見開いた。今にも跳びかからんばかりの怒りをその双眸に湛え、握りしめた拳が白くなる。
「逆だディナ」
テヴォが娘を諫めるように一歩前に出た。
「あの子はお前とそこの嬢ちゃん達しか人間を知らねぇ。自分から近寄っていったんだろうさ。昨日人間は怖くないって知っちまったからな」
聖堂騎士が拘束しているお守り。昨日仲良くなった異種族の友達を見咎めた勇者が叫んだ。
「シェサッ!!」
名前を呼ばれて俯いていた小さな狼人族はハッと顔を上げた。見たところ大きな怪我はないが、多少手荒に扱われたのか毛皮の一部に土がこびりついている。両腕を後ろに回されてキツく掴まれて動けない。自分の名前を呼んだ新しい友達や、見知った大人達の顔を見てその宝石のような黄色い瞳に抱えきれなくなった水分がボロボロと零れ出す。
疑問と、痛みと、恐怖。なぜこの人達はこんなことをするのか分からない。自分は友達の友達だったら集落まで案内しよう思って声をかけただけなのに。どうして。なぜ。そしてそれらの疑問以上に今はただ、怖い。
「いたぞ!紅髪の異端審問官だ!」
ディナの姿を発見した一人が声を上げる。
「狼人族と一緒にいるぞ!」
「教皇が魔族を匿っていたんだ!」
一人を皮切りに他の者達も次々に声を上げる。彼らもまた怯えているのだ。声を出して少しでも恐怖を紛らわそうとしている。その一環として、ディナを指差して叫ぶ。
「乱心せし教皇の犬めッ!貴様とここに住む魔族のことはすぐさま公になるだろう!魔族を匿った異端者め!神の名の下に貴様には罰が下されるであろうッ!」
怒りのまま、異端審問官は前に出るがそれをテヴォが手で遮る。彼がいなければすでに跳びかかっていただろう。
「――で、そうやって現教皇を引きずり降ろして、次は誰がその座につくんだ?神聖なる大森林保護区にずけずけと踏み込んだてめぇらの頭は誰だ?まぁ、こんなこと命令するやつぁ一人しか心当たりがいねぇがな!」
目を付けられていたのだ。それに気付かず勇者を引き連れて大森林保護区へ入ってしまった。それが彼女の犯したミス。下手に手を出せば失墜は免れない大森林保護区というブラックボックスに勇者という魅力的な餌を投げ入れてしまった。あの狡賢い枢機卿に、確かにここには何かあると確信させてしまう機会を与えてしまった。
あたしのせいだ――




