第三章 自然と共に生きる者達(2/8)
教皇領、大森林保護区。そこは文字通り、樹木の枝葉が幾重にも折り重なり人の行く手を阻む密林地帯である。その外縁に辿り着いた勇者達は馬車を降りた。外縁に近づいただけで、植物のムッとした呼気が鼻につく。
森に入る直前には、教皇の支持により保護区を警備している聖堂騎士の警備小屋があった。馬車で行けるのはここまで、後は徒歩で向かわねばならない。御者の男性はユウ達が帰還するまではこの警備小屋で過ごすことになる。
修道服の上から胴体を覆う板金鎧を着こみ、槍で武装した聖堂騎士はディナの姿を見るなり慣れた様子で滞在日数を尋ねると、特に何か言うでもなしに通行を許可してくれた。どうやらディナが保護区へ入るのは一度や二度ではないらしい。
「ここからはあたしが先導する。森の中ではあたしの支持に従うこと。絶対にはぐれるなよ。死ぬぞ」
端的かつ強い語調のディナの言葉に勇者一行は強く頷いた。これほど深い森、ユウが入ったことがないのは当然としてレイもセラも入ったことがない。そこに潜む危険の数々を考えると腕利きの二人といえど自分なら大丈夫とはとても言えなかった。
森というものは恐ろしい。不規則に並ぶ樹木は人間の方向感覚を簡単に失わせ、脚に絡みつく蔓やぬかるんだ地面は体力を奪う。日が暮れれば例え松明の灯りがあったとしても進むことは困難だ。それだけでも十二分に脅威だというのに、その草葉の陰に潜む者達の存在を加味すればさらにその危険度は増す。毒蟲、毒蛇、これほど大規模な森ならば大型の肉食動物も生息しているだろう。あるいは魔物がいることも考えられる。死角から襲い来る彼らに常に警戒を払わねばならない。
落ち葉の体積した腐葉土の地面を踏みしめ、森を進む。先頭はディナ、次にセラ、ユウ――と腕の中にさくらもち――と続き最後尾にレイがつく。いかなる状況でもユウを守れるようにこの隊列を常に維持する。
樹皮、花、果実、濡れた地面、様々な匂いの入り混じった不思議な香りがユウの鼻孔を擽る。全方位から感じられる命の気配。木々に生えている苔をなんともなしに注視しているとそれが不意に動き出す。昆虫の巧妙な擬態。一見何もいないように見える場所にも多くの命が息づいていた。
葉擦れの音に交じって奇妙な旋律が聴こえる。上を見上げると鮮やかな飾り羽に彩られた鳥が命を謳っていた。木々は空から降り注ぐ陽の光を誰よりも多くその身に受けようとその腕を伸ばし、天を覆う。その隙間からちらちらと覗く陽光が黒髪の勇者のあどけない顔貌に斑点を描いた。
道なき道をディナは迷いなく進んで行く。彼女には進むべき方向が分かっているようだった。さながら、住み慣れた生家にいるように。
どれほど歩いただろうか。道中休憩を挟みつつ保護区の中心部へ向けて歩き続けていたディナは、ふと立ち止まった。
「どしたん?」
ユウの額にはじんわりと汗が滲んでいる。それはセラも同じだ。長時間の森歩きに疲労が溜まってきている。よほど身体を鍛えている者でなければそろそろ体力的に辛くなってくる頃合いだ。スライムを抱えていればなおのこと。
そのよほど身体を鍛えている二人の内の一人、最後尾を歩くレイが背中の長剣の柄に手を伸ばした。
「……見られてるな」
レイの鋭敏な感覚が自分達に注がれる無言の視線を捉えた。一人ではない。正確な数は分からないが、複数の何かが息を殺してこちらの様子を窺っている。
茂みの陰、木の裏、樹上にも気配がある。すぐに襲ってくるような殺気は感じない。レイ達が何者かを観察しているのか。
「出迎えだ。ジッとしててくれよ」
ディナはそういうと、無防備に両手を広げて数歩前に出る。
「よぉ!帰ったぜ!客人がいるが、悪いやつじゃねぇってのはあたしが保証する!集落にいれてくれないか!」
ディナが声を張り上げてしばし、視線の主たちが姿を現した。その姿を見た瞬間、レイは条件反射で武器を抜きかけたが、なんとかそれを押しとどめる。セラも同様、呪文を唱えようと動きかけた唇を噛みしめて表情が強張る。ただユウだけは感心するようにおーと間の抜けた声を漏らした。
その体躯は人間とほぼ変わらない大きさと形だった。二足歩行、両手両足のバランスもほぼ人間と同じ。小鬼族のように骨格的に前傾姿勢ということもない。狼人族と言うぐらいであるから基本的な輪郭は人と酷似している。その全身が黒い剛毛に覆われていることを除けば。
艶やかな黒い毛に覆われた身体には余分な脂肪は一切見受けられない。野性の中で鍛え上げれた肉体美を惜しげもなく晒し、衣服は腰布のみ。人間的な基準を当てはめればこの場にいる者達は全て雄なのだろう。腰布から垂れる毛の束が重力に逆らってゆらゆらと揺れている。尻尾があるようだ。
身体と同じく毛に覆われた顔は鼻梁から盛り上がり、その鼻先と口は前方に突き出ていた。そこに側頭部から生える三角形の耳を合わせるとまさしくそれは狼を彷彿させる造形だった。狼人族とはよく言ったものだとレイは感心した。しかし一方で、こいつらが本当に人間に対して友好的な種族なのかと疑わざるをえなかった。それほどまでにその姿はおぞましく凶悪な見た目だったのだ。
レイの視線が素早く動き、状況を把握する。現れた狼人族は四体。全て前方。背後に気配はない。もし一斉に襲い掛かられた場合、すぐさまセラと場所を入れ替え……などといったことをレイが無意識に思考している最中、その狼人族の一体が鋭利な牙の生えた口を開いた。
「ディナぁ!久しぶりじゃねぇか!ええ!族長が寂しがってらァ!」
その口の形状では少々喋りづらいのか、舌ったらずの濁声。しかしてその狼の双眸に映るのは紛れもなく再開の喜び。そのあけすけな態度にレイとセラは思わず亜然として空いた口が塞がらなくなった。
「最近は忙しかったんだ。異端審問官も楽じゃねぇの!」
そう言ってディナは何の警戒心もなく狼人族の胸に飛び込んだ。迎える狼人族もまた同じ、その黒い体毛で人間の少女を包み込む。他の狼人族もその周りに集まってディナの帰還を喜んでいるようだった。
「あっ!コラケツ触んなッ!!」
抱擁はディナが狼人族の顎下に頭突きを喰らわせたことで終わる。一瞬ふらついた狼人族はぶるぶると頭を震わせつつ、
「ったく、相変わらず触り甲斐のねぇケツだな!もっと肉つけろ!それじゃあ人間の雄にもモテねぇぞ!」
「うるせぇな!余計なお世話だよ!」
そう言ってガハハと二人して笑う。頭突きをかましたディナもそれを受けた狼人族も、まるで気を害した様子がない。一種の挨拶のようなものらしい。
「それで、そいつらは?教団の関係者にゃあ見えねぇが」
狼人族はその突き出た鼻をくんくんと動かし、
「しかも、そこのガキは、もうだいぶ薄まってるが妙な匂いがしやがる。生まれは近隣じゃねぇな。それになんでぃ、スライムなんか抱えやがって」
「はぁー、えらいよう利く鼻やなぁ」
感心しっぱなしのその少女のことをどう説明したものかとディナは少し思案し、
「――教皇以外に魔族と仲良くしたがる変わり者、かな。あとの二人は御守りだ。いちおうお偉いさんだから乱暴な扱いはしないでくれよ」
ディナの言葉に狼人族達はその獣の双眸でユウを眺める。単純な表情の変化ではまだユウには彼らがどんな感情を自分に抱いているのか推し量ることはできなかった。
そして一体がまたガハハと声を上げて笑う。
「面白いガキだな!俺らを前にして恐れも緊張もないときたか!肝が据わってやがる!」
心の変化による発汗量の変化。人間の身体は雄弁にその内心を語る。狼人族の嗅覚があればその声を聴くことは容易い。
「来いよ!集落に案内するぜ。なんのためにここに来たのかは知らんが、ディナが連れてきたんだ。悪い話じゃないんだろう。まずは族長に会ってくれ」
「お、ほな、よろしゅう頼むわ!」
ディナはよほど彼らに信用されているらしい。そしてユウは促されるまま、何の警戒心もなく彼らの後を付いていく。慌てて護衛の二人がその背中を追った。
魔族に連れられてもうしばし森の中を歩くと、不意に視界が開けた。
「――驚いた。人間領の中にこんな場所があっただなんて……」