第一章 旅立ちと二人の同行者(3/5)
旅立ちの朝。空は雲一つない晴天。登り始めたばかりの太陽が優しく大地を温めていく。
そんな新たな門出に相応しい陽気の中、過去一度も魔族を通したことのない不落の王宮の門扉が希望の種子をその身から解き放とうとしていた。だがそれは、決して祝福のみに見守られているというわけではなく、旅立つ者を見送る者の表情には切実な悲しみが刻まれていた。
「……ユウ、やっぱり旅なんてやめましょう?私がお父様にお願いするから……」
釣り目がちの瞳を潤ませてユウの腕を掴んだのは豪奢なドレスを身に纏った少女。
リンシア・フォン・ラドカルミア。この可憐な少女があの武王の娘だと言われていったい何人が素直に信じるだろう。
肩口で切り揃えられた金を溶かしたような美しい髪、父親の血を受け継いだ目元は今はまだ鷹ではなく気位の高い猫のよう。
そのリンシアに引き留められた少女、ユウは自分の腕を掴んだ繊手にそっと手の平を重ねた。
今ユウの服装は旅装束に整えられている。ユウの小さな体格に合う防具はなかったので比較的厚手で丈夫な生地で作られた上下に若草色の外套。腰にはナイフよりはマシ程度の長さと強度の細剣の鞘。他に荷物は肩から下げる麻袋のみ。その麻袋の中も旅費と着替えと保存食が入っているだけ。
この世界にユウの私物は召喚された時に来ていた服ぐらいしかないのだ。持っていく物はほとんどない。
「ごめんなぁ。でもやっぱうち勇者やさかい、やれることはやらんと」
「剣もロクに振れないのに?魔法も使えないのに?」
リンシアの言葉がぐさりぐさりとユウに突き刺さる。
「それにいつもぼーっとしてるし、どんくさいし……魔族に会ったらユウなんてすぐに殺されてしまうわ……」
言い返すこともできずにたははと乾いた笑いを漏らすユウ。
リンシアの不安を解消せんと同行者が口を開いた。
「姫、勇者様の身は我らがこの命に代えてもお守りします。ですからどうかご安心ください」
ユウの背後に控えたレイは動きを阻害しない革鎧に身を包んでいる。背中には盾と長剣が収納されており、騎士というよりも冒険者という表現がしっくりくる装備。
武器はともかく重い甲冑は旅には不向き、防御力以上に利便性と身軽さを追求した結果だ。
そしてもう一人の同行者、魔法師のセラは相変わらずの気だるげな様子で状況を見守っている。ただ気だるげなのは表情だけで背筋はピンと張っており、旅装束の上からでも女性的なボディラインがよく分かる。畏まっているわけではなく、その姿勢が彼女にとっての自然体なのだろう。
ユウも合わせて見事に統一感のない三人。家族にしても兄妹姉妹にしてもちぐはぐに見える。
ちらりと騎士の姿を一瞥したリンシアは、
「……お父様に言って勇者じゃなくて私の専属侍女にしてもらいましょう?そのほうがユウには合ってるわ」
リンシアに信用してもらえなかった騎士が項垂れて肩を落とした。
「リンちゃん。心配してくれてありがとう。でも、やっぱうち行くわ」
リンシアの手をとったユウはその自分より小さな手をそっと両手で包み込む。
「勇者としての使命もそうやけど、それ以上にこの世界のことを知りたいねん。うちな、すっごいワクワクしてるんよ!みんなどんな生活しとるんやろとか、どんな生き物がいるやろとか、気になって気になってしゃーないねん!それを知るチャンスを王様がくれたんよ!」
言葉通り、ユウの瞳は期待に輝いていた。そこに不安や躊躇いは一切ない。無謀ともとれる眩いばかりの純粋な好奇心の光。
「それにちょくちょく帰ってきたらええって王様も言ってたし、なんか土産話ができる度に帰ってくるわ。そしたらいっぱいお話しよ?リンちゃんはうちがこの世界に来て初めてできた友達やさかい」
そう言ってにっこりと笑う。その笑顔に水を差すことなど誰ができようか。
その眩さに中てられたリンシアは、いまだ不承不承ではあったが頷いた。
「――分かったわ。私待ってる。だからいつ帰ってきても、何度帰ってきてもいいのよ。怪我には気を付けてね」
ユウの手を包み返す手。そしてユウの肩越しに雛鳥の眼光が護衛の二人を射抜いた。
「――もしユウが死んだら、貴方達の首を刎ねます。いいですね?」
「心得ております」
「御意に」
物騒なやり取りが交わされているにも関わらず、その場に満ちていた空気は温かだった。
ユウと言葉を交わすようになってから、リンシアはよく笑うようになったという。王の娘という身分は同年代の友人を気安く作れるような身分ではない。だが、異世界からやってきた勇者には身分差などまったく意味を為さなかった。
リンシアにとっても、ユウは初めての友達だったのだ。
そして一向はリンシアに見送られながら旅立った。人々で賑わう王都を北へ。
王都はぐるりと石造りの城壁によって囲まれている。未だかつて王都まで魔族の侵攻を許したことはないが、凶暴な野生動物や魔物、はぐれの魔族などに対する備えである。城壁の出入り口は東西南北に一カ所づつ、王都へ出入りするにはそのいずれかを必ず通らなければならない。
一向が選んだのは北に位置する門。この旅の一つの目的である魔族を知るということに関してはやはり魔族領に近づく必要があり、それは北方に広がっているからだ。
詰め所の警備兵に王から支給されている通行許可証を見せて城壁の外へ。行商の馬車も通れるように大きく作られている門扉をくぐれば両脇を林に囲まれた街道が蒼穹の下にまっすぐと伸びている。
「さて、ほなこれからどうしよか」
北に魔族領があるということでとりあえず北門から出たはいいものの、この世界の地理などまったく分からないユウである。ここから先はまったくのノープランだ。
それでは、とレイが提案する。
「このまま街道沿いにまっすぐ進めばデマリという村に着きます。ラドカルミア王国領内の村ではごくごく一般的な村ですので、民たちの暮らしを知るにはちょうどよいでしょう」
レイの説明をふーんと聞いていたユウはふと思い出したように手を叩いた。
「せや、うちはユウ、よろしゅうな」
「存じておりますが……」
戸惑うレイにユウは右手を差し出す。
「二人の挨拶は聞いとったけどうちは名乗ってへんかったからな。こういうの大事やし」
差し出された小さな手を、遠慮がちな大きな手が握り返すと、それが力強くぶんぶんと上下に振られる。どれほどの時間剣を握ればそうなるのか、その大きな手の平は岩肌のように硬かった。
「そっちの姉ちゃんも」
とてとてとセラの方へ歩み寄ったユウが差し出した手をおずおずと握り返す手。そしてまたぶんぶんと。気だるげな瞳が少しだけ見開かれる。
「セラさんやっけ?」
「え、ええ」
ぐいっとユウの大きな瞳がセラの瞳の奥を覗き込む。星空のようなきらきらとした黒瞳に正面から見つめられてセラの視線が右へ左へと泳ぐ。
「セラ姉ってのはちと安直過ぎんな……うん、もっとフレンドリィに……セッちゃん、これからセッちゃんって呼ぶな」
面食らったようにセラは目をぱちくり。
「セ……セッちゃん……ですか……」
歯の隙間に物が詰まったような表情を浮かべるセラの前でユウは仁王立ち、腰に手を当てて歳相応な胸を張る。
「あとこっから敬語禁止な。うちのことはユウって呼び捨てでええよ。様とかそういうの柄じゃないんよ。レイ君もやで!」
突然矛先が向いたレイが一瞬怯むが、すぐにしかし、と言い返す。
「勇者様はこの国の、いやこの世界の希望。それをただの騎士である私が呼び捨てにするなど……」
「これからしばらく一緒に旅すんねんで?それが様とか敬語とか、縮まる仲も縮まらんわ。うちは二人と仲ようしたい。二人がどうしても嫌やって言うなら無理強いはせぇへんけど……」
そう言ってレイとセラを順に見る。
そんな少しばかりずるいユウの物言いにレイがむぅと唸っていると意外にも先に返答を返したのセラだった。
「――いいんじゃない?私も敬語とかまどろっこしいのは嫌いなの。楽にしていいって言うならそうさせてもらうわ」
そういうセラの表情は相変わらずだるそうではあったが、言葉通り少しだけ楽になったように見えた。
「最初に会った時からな、この人嫌々敬語使っとるなぁって思っとってん。セッちゃん目上の人に気ぃ使ったりすんの嫌いやろ?雰囲気で分かるわ」
ユウの指摘に初めてセラの口角が少し上がった。
「ええ。今回の旅の話を承諾したのは協会で上司に気を使いながら魔法の研究をするのに嫌気が差したから。旅に出たらそういうしがらみから少しは自由になれるかなって」
急に饒舌になったセラにレイが亜然として口を開けている。勇者の護衛に選抜されるぐらいであるから、相方も品行方正な人物だろうと思っていたのかもしれない。一方でユウは思った通りと言わんばかりににかっと笑った。
「セッちゃんとは仲良ぉなれそうやわ」
「そうね、ユウ」
そして二人が次は貴方よと言わんばかりにレイに視線を向ける。
観念したようにレイははぁと溜息を吐いた。
「……分かった。俺も敬語は止める。それでいいな、ユウ?」
ユウは今日一番の満面の笑みを浮かべた。
きっとリンシアもこの笑顔に心を許したのだろうなとレイとセラには分かった。
「楽しい旅になりそうやな」