第二章 紅髪の異端審問官(5/7)
ラドカルミア王国から教皇領への道のりは数ある街道の中でも群を抜いて安全である。というのも、その道程は野盗達が獲物を品定めしようとしてもできないほどに通行量が多いのである。
ローティス教はラドカルミア王国のほぼ全ての民の倫理を柱となって支えている。信仰などと大仰に考えなくとも常日頃の生活にその教えは根付いているのだ。いわば国民全員が信者だと言っていい。その中でも自分はローティス教の信者だと公言するような熱心な信徒は必ず教皇領の中心に鎮座するニバノス大聖堂への礼拝を望む。その大伽藍で巨大なステンドグラスから降り注ぐ極彩色の雨を身に受けながら祈りを捧げることは至上の喜びであり、信者達にとって一種の通過儀礼となっているのだ。
そのためラドカルミア王国から教皇領までの街道はきちんと整備されており、行きと帰りの馬車がすれ違えるように道幅も広い。さらにそこを通る信者達を野盗や野生動物から守るために戦闘技術を学んだ修道士である聖堂騎士が巡回している。巡礼に訪れる信者達、彼らの布施はローティス教団にとって大切な財源である。無論、布施を払えないような貧しい者でも志を同じくする同志。礼拝を望む全ての者をローティス教は手厚く保護する。
以上のことから、勇者一行の道のりはいたって平和であった。馬の体力を鑑みて定期的に休憩を入れつつも、流れる景色を呆と眺める代わり映えのしない時間。退屈こそが最大の障害と言えるのかもしれない。話題の数にも限界がある。
そんな平穏な旅路、その三日目の朝のことである。
「なぁ、いいだろ?とりあえず一回だけ!な?」
朝を告げる小鳥達の囀りに懇願が混じった。懇願されている方はむぅと唸って顔を顰めている。
「んー……どしたん?」
その喧騒に黒髪の勇者が寝ぼけ眼を擦りつつ起床した。
街道脇の拓けたスペースに馬車は停められ、一同はその陰で火を焚いて一夜を明かした。教皇領までの街道にはこういった野営のための広場が点々と設けられており、巡礼者が野営場所を探してさまよう心配をすることはない。
「昨日と一緒よ」
ぶっきらぼうに答えたのはセラ。ユウと同じく彼女もこの喧騒で起きたらしく中空を睨む双眸がすこぶる不機嫌な様子を示している。基本的に彼女の寝起きはとても悪いのだ。
「あぁ、昨日の……」
騒動の原因に思い至ったユウは、気持ちよさそうに泳ぐ頭上の雲に向けて大欠伸を一つ。見るともなしに街道のど真ん中で向き合う二人を眺めた。
事の発端は昨日の早朝。いつものようにレイが日課の筋力トレーニングと型の演舞を終えた時に起きた。勤勉な騎士はいついかなる時もその鍛錬を欠かさない。ラドカルミア王国最強と名高い一の騎士団という肩書きはその弛まぬ努力によって維持、研鑽されているのだ。
ユウとセラにとってはもはや見慣れたその鍛錬の風景だが、それを初めて目にする紅髪の少女には大きな衝撃を与えたようだった。
――すげぇ……これが、魔族との戦争で常に最前線に立つラドカルミア王国の精鋭部隊、一の騎士団か……。
武術の心得のほとんどないセラとユウには、レイの型の演舞がすごいということは理解できてもどこがどう、とは説明できない。その動きを実現するためにどれほどの労力が伴うのかも。しかし自身もまた腕に覚えのあるディナにはまた違った見え方をしたようだった。達人でなければ理解できぬ雲上の境地、ディナが受けた衝撃はユウとセラが受けたそれを遥かに上回っていた。
そして次にディナが発した言葉も余人には理解できぬものだった。
――あたしと組手をしてくれ!
ディナが言うには、自分と同程度かそれ以上の練習相手をずっと探していたそうだ。教皇領ではそもそも戦闘技術を持つ者の絶対数が少ないために条件に合う相手がいないらしい。
しかしレイはそれに渋面を示した。もともとレイの技は対魔族を想定したものであり人間用ではないということもあるが、それ以上に事故のリスクを考えると早々はいと頷けるようなことではなかった。ディナの技量はセルフィリアの屋敷での一件でレイも承知している。その技術の高さを知っているが故、組手と言えど相当なハイレベルなものになることが予想される。なればこそ、もし事故が起きた場合、お互いに大怪我をしかねない。実戦形式の訓練も大事ではあるが、それで戦えなくなっては元も子もないのだ。
そういうこともあってレイは組手を拒否した。しかし馬車の休憩中にもディナはしつこくレイに迫り、そして今も、である。
「頼む!あんただって一人で鍛錬するより二人でやった方がいい鍛錬になるだろ?」
「そうかもしれんが、しかしなぁ……」
「あんたほどのやつと手合わせできる機会なんて早々ねぇんだ。稽古をつけてやると思って、この通り!」
何が彼女をそこまでさせるのか、ディナは両手を合わせてレイに懇願する。ユウ達以外にこの光景を見ている者がいるわけではないが、あまり対外的によろしくないような懇願の仕方になってきたのでレイがどうしたものかと視線をさまよわせる。
「やってあげなさいよ」
動かした視線が凄まじく不機嫌な視線とぶつかった。
「朝からキャンキャン……うるさいのよ」
一般的に、美人であればあるほどその表情に怒りが浮かんだときに恐ろしく見えるという。
「ひぇ……」
間近でその横顔を目にしたユウが一歩分、背後に後退した。実際のところ、セラはそこまで怒ってはいない。ただ寝起き故まだ焦点の定まらない視界を安定させるために細めた眼と、活力が入っていないせいで低くなった声色がドスが効いているようにも聴こえるのだ。なにより、その均整のとれた顔だちは彼女の感情を必要以上に表現する。もしかしたら、それを本人も分かっているからこそ普段は仏頂面を保とうとしているのかもしれない。
その悪鬼の双眸を向けられたレイとディナは二人してひくりと頬を痙攣させたが、ディナの方は助力を得たとばかりにレイに詰め寄る。
「セラもそう言ってることだしさ。それに、女の誘いを断るなんていい男のすることじゃないだろ?」
「いい女は自分から誘ったりはしないと思うがな。まぁいい、分かった。分かったから。一回だけだぞ」
「やりぃ!」
ディナはガッツポーズをすると、軽快なフットワークでレイと距離をとった。お互いすでに基本的なトレーニングは終えており身体は暖まっている。準備運動は必要ない。
ディナに続いて拳を構えたレイに怪訝な表情が向けられた。
「おいおい、あんたの得物はその剣だろ。抜けよ。盾もな」
そう言ってレイの背に収納された長剣と盾を顎でしゃくる。
「……正気か?」
信じられない言葉にレイが聞き返す。それは儀礼用の刃のない模造刀などではないのだ。いや、仮にそうだとしても武器があるかないかで戦力差は大きく変わる。ただでさえレイの方が身体が大きく、その分リーチが長く有利だと言うのにそのうえ剣など持てば、リーチの違いで徒手空拳のディナには圧倒的に不利だ。
「組手とはいえ手加減されるのは嫌いでね。それに、あたしはこれが自然体だがあんたの自然体はそれだ。お互い無手じゃフェアじゃない」
そう言って彼女は不適に笑みを浮かべた。燃えるような紅の髪が昇り始めたばかりの太陽の光を反射して揺らめく。稽古をつけてやると思って、と先ほどディナは言った。だがその獣のような瞳にはありありと勝利する意思が感じ取れた。彼女は素手の格闘技術で武装したレイに勝つつもりでいる。
「……………」
その意思を読み取ったレイは、無言で背中から長剣を抜き、盾を構えた。息を細く、長く吸い早朝の澄んだ大気で体内を満たす。そしてふっと鋭く無駄な分の空気を吐き出すとど同時、騎士の眼差しが変わった。先ほどまでの弛緩した雰囲気が一瞬にして霧散し、糸を張ったような緊張感が街道に満ちた。右手の盾を前方に、腰は低く、長剣は背後に回し盾の陰に隠すように構える。レイの臨戦態勢。剣を抜く以上、もはや遊びや冗談では済まされない。一瞬の油断が、一時の慢心が大事故へと繋がる。その腕にかかる重みは命を奪う凶器の重みなのだ。
「――じゃ、お先にッ」