第二章 紅髪の異端審問官(3/7)
また新たな旅が始まろうとしていた。
出発地点はラドカルミア王国の王宮、数ヶ月前もここが出発点だった。空もあの時と同じ雲一つない晴天。どこまでも続く蒼い天井は、今や旅立つ者の秘めた可能性を示しているかのよう。
見送る者もまた同じ。しかしあの時とは違って、その顔に浮かんだ感情は悲しみというよりは不満である。
「もっとゆっくりしていけばいいのに……」
そう言って頬を膨らませているのはリンシア。久しぶりに再会した友人がすぐさま旅に出ることになって不満たらたらといった様子だ。
リンシアの母たるセルフィリアの屋敷に一泊して次の日、ユウ達はセルフィリアに多くの感謝を述べつつ、王宮へと帰還した。〈深窓の才妃〉との語らいはユウ達にとって非常に意義のあるものだった。いつかまた、あの聡明な母の力を借りる時もくるだろう。その時までしばしの別れだ。
王宮へと帰還したのは今回の旅について国王に伝えておくためである。向かう場所が場所なので王が反対することはないだろうが、何の報告もなしにユウ達が国外に出るわけにはいかない。ついでに馬車の手配と旅費をねだるという目的もある。ユウ達の話を聞いたエルガス王はもはや新たな癖となりつつある大きな溜息をついたが、ちゃんと馬車と旅費を用意してくれた。もっとも、その溜息は突然の出費に対してではなく、勇者に向けられてのものでもなかったが。
――この鷹の目にも、見えていなかったものがあるのだな。
武王はそう言って呆れ顔で溜息をついたのだ。
ともかくエルガス王の承諾と支援を得るなり迅速に支度が整えられ、その日の内に準備は終了。翌日には出発と相成った。これほど短い時間でバタバタと準備したものであるから、その間、ユウがリンシアに構ってやる時間などないわけで、リンシアが不満を感じるのも無理からぬことだろう。
「戻ってきたら真っ先に会いにくるから……」
不満げな友人を宥める勇者を、今回の旅のきっかけとなった少女が急かす。
「準備ができたならさっさと行こうぜ。早ければ早いほどいい」
言うや否や当人もさっさと馬車に乗り込む。今回の旅に用いられる馬車は二頭立ての四輪荷馬車で御者も付いている。流石に中で寝るにはちと窮屈だが、座った姿勢なら四人が乗っても十分ゆとりがある。
四人、つまりユウと護衛のセラとレイ、そしてディナ。御者も合わせれば五人――とさくらもちでの片道一週間ほどの馬車旅だ。ただ目的地でどれほど滞在することになるかはまだ分からない。
ガタゴトと車輪を鳴らしつつ、二頭の馬が力強く馬車を引く。頬を膨らませながらも手を振る王女に見送られ、一行は王宮を発った。
年下の友人の姿が見えなくなるまで馬車から半身を乗り出して手を振っていたユウだが、やがて荷台の中に引っ込んでふぅと一息。帰ってきたら何かしら埋め合わせをしてあげようと心に決める。
そのタイミングを見計らっていた護衛の騎士が沈黙を埋めるべく口を開いた。
「しかし、まさかローティス教の教皇自らが魔族を匿っていたとは、な」
改めてそう口にしていみるが、未だに現実味が伴わないといった様子。人間と魔族の対立を最前列で見てきたレイには、異世界からやってきた少女以外に魔族に対して友好的な人間がいるということは信じがたいことだった。しかもその人物は大陸中の人々が倫理の要としているローティス教の教皇などと言われればなおさらのこと。
「そんなにおかしなことか?」
座席に深く腰掛け脚を組むディナ。不自然なほどに余分な肉のない、筋肉質な肢体。少々はしたない恰好だが、彼女のさばさばとした雰囲気がそれを自然体としている。
「それは、そうだろう。教皇ともなれば、人間の自然の営みを守るために魔族は滅ぼさなければならない、ぐらいは言いそうなものだ」
レイの隣に座っているディナは、視線を隣の騎士ではなく前に座る勇者の頭越しに過ぎていくラドカルミアの町並みに注ぎつつ、
「ま、多くのローティス教の信徒はそう思っているだろうな。けどそれはローティスの教えを正しく理解しちゃいない」
異端を取り締まることを職務とする少女は瞳を閉じる。
「感謝せよ人の仔等、汝等は自然の齎す恵みの上で生きている。されど自重することなかれ、汝等もまた自然である――」
ローティス教の代表的な教えの一節を口ずさむ。
「ローティス教は争いを禁じているわけじゃない。ただし自然の摂理、生存競争としての闘争であるならって話だ。それ以外の私利私欲を満たすための争いには否定的だ」
「魔族との争いは生存競争だろう。戦わなければこちらが殺される」
「そうだな。だから魔族との戦争で忙しいラドカルミアをローティス教が糾弾したことなんてないだろ?」
そうでなくてはラドカルミア王国がローティス教を国教になどするはずがない。
「たださ、闘争ってのは如何なるものであれ自然を歪める」
と、ディナが瞳を開いて視線を再び流れゆく王都の町並みへ。
「魔族が侵攻してきた時の最終防衛線としてこの王都は高い城壁に覆われ、その安全な城壁の中で人々は身を寄せ合って暮らしている。建物が密集し、道幅は狭い。こんな窮屈な場所なのにも関わらず安全を求めて王都に移住を望む者は多い」
ディナの語るそれはラドカルミアが抱えている大きな問題の一つだ。王都の人口過密。それに伴って住宅街にはどんどん家屋が建てられ、道幅を圧迫。大通りを少し逸れればその道幅は小型の馬車がすれ違うのがやっと。さらに奥へと入っていけば道はさらに細くなり、上を見上げれば空が建物によって鋭角に切り取られるようになる。路地などもはやちょっとした迷宮となっており慣れない者では迷うこと必至だ。
「魔族と争っているから、安全のためには仕方ない。だったらよ、そもそも魔族と争わないのが一番だって思わねぇか?そうなれば人間はもっと自然に、のびのびと生きていける。無闇に争わず、様々な生き物が調和し、共存する世界、それこそが教皇が、ローティス教が真に目指すべき世界なんだよ」
「それはそうだが……相手が襲ってくる」
「つまり相手が襲ってこなきゃ、こっちから戦いを仕掛けるべきじゃない。教皇が匿ってるのは、そういう魔族なんだよ」
そこまでディナが話したところで、ユウの隣で二人の話に耳を傾けていたセラが口を開く。
「狼人族って言ってたかしら。正直、そんな魔族聞いたことないわね」
「あまり数が多くない種族だからな。魔族領では魔神族の支配から隠れるように辺境で細々と生きてるらしい。その一部が安住の地を求めて人間領深くまで逃げてきたのを教皇が保護したわけだ」
ディナが組んでいた脚を戻して、表情を深刻なものへと変える。その視線は自身の右腕に注がれていた。何かのお守りだろうか、そこには植物の繊維と黒い動物の毛が編み込まれた組紐が結ばれている。
「……でも、あいつらの存在を隠して保護するのもなかなか難儀でな。限界がきつつある。教皇領の大森林保護区はあいつらには狭すぎるんだ」
教皇領、大森林保護区。それが一同が現在向かっている場所だった。
ラドカルミア王国に隣接するどの国家にも属さないローティス教の総本山、ローティス教が自治を行うその領域を教皇領と呼ぶ。そこにはローティス教の精神的指導者である教皇がいる他、信者ならば生涯に一度は訪れたいと望むニバノス大聖堂が存在する。そして自然との調和を説くその教義から、何人も侵すべからずと保護されている野生動物の楽園、大森林保護区もそこにある。
そこに教皇が魔族を匿っていると聞いた時、なるほど理に適っているとレイとセラは思った。遠目からでは奥地など覗きようのない立ち入り禁止の森林地帯。そこほど魔族を匿うのに適した場所は人間領の中には他に存在しまい。




