第一章 深窓の才妃(3/8)
言伝が勇者に届いてから二日後、太陽がもう少しで真上に昇ろうかという頃。
「ユーーーーウッ!」
王宮の門扉をくぐったばかりのユウ達に駆け寄る小さな人影があった。
「リンちゃん!」
久しぶり、といっても最後に会ってからせいぜい一月程度しか経過していない。しかし、初めて友人というものを得た彼女にとってその一月は一年にもそれ以上にも匹敵する時間なのかもしれなかった。
肩口で切り揃えられた金糸の髪、気位の高そうな釣り目がちの双眸。一方で豪奢なドレスの裾を翻し、喜色を満面に湛えながら走るその姿は歳相応。
リンシア・フォン・ラドカルミア。この国の王、エルガス・フォン・ラドカルミアの一人娘である。
衣装が乱れるのも構わずに、王女は勇者に抱き着いた。後を追いかけてきていた身辺警護の近衛兵が、普段の王女とはかけ離れたその愛情表現に目を丸くしている。
ひとしきり抱き着いた後、リンシアは不満げに口を尖らせた。
「ユウったら全然会いに来てくれないんだもの。私、寂しかったわ」
「あはは……ごめんなぁ。ちょっといろいろ忙しかってん」
“勇者特区”の運営についてのあれこれは宰相ケイネスが概ね管理しているが、ユウの仕事はそれに口を挟むことだ。直接現場を見て、それが適切かどうかを判断し、罪人や小鬼族達に過度な負担がかからないように意見する。その意見を現場の監督官や護衛の二人が吟味し、反映できるところは反映していく。他に小鬼族達の言葉に耳を傾けるのもユウの仕事だ。小鬼族達は罪人や警備の兵士とずいぶんコミュケーションをとるようになってきてはいるが、やはり直接和解のきっかけとなったユウには特別心を開いている。
「ところで、リンちゃんのママがうちと話をしたいって言うとるって聞いたんやけど……」
リンシアがこくりと頷く。
「そうなの。本当はユウが召喚されてすぐにお話したかったみたいだけど、ほら、お父様がすぐ旅に出しちゃったから。あの後、お母様とお父様、ちょっと喧嘩したのよ。どうして私に一言も言わずに勇者を旅に出したの!って」
まだ見ぬ王妃が鷹の目の武王と言い争っている様を想像してユウは苦笑する。あの威厳ある王も家族には頭が上がらなかったりするのだろうか。
「今から向かえばちょうどお昼頃ね。馬車を用意してあるの。さっそく行きましょ!お母様の住んでるお屋敷にはね、大きな薔薇園があるの。早くユウに見せてあげたいわ!」
そう言ってユウの手を引いて駆け出す。そこにはもはや一国の王女としての気品は残っていない。ただ友と交流することが嬉しくて仕方ない一人の少女がそこにいる。
「朝から馬車で王都まで帰ってきてんけど、もっかい馬車かぁ……」
少しばかりうんざりした様子で手を引かれるまま駆けだしたユウの後を護衛二人とさくらもちが追う。護衛というよりもはや子守だ。
リンシアに導かれるまま、一同は二頭立ての箱型馬車に乗り込んだ。馬の手綱はリンシアの近衛が握る。王家所有の煌びやかな装飾が施されたもので、通常であれば護衛の兵士が馬に乗って前後左右を固める。だが、今回に至っては不要との判断で特に護衛らしい護衛はない。王都内を横断するだけだからというのもあるが、乗り込んでいる人物が人物である。並みの襲撃者では一の騎士団の長剣と魔法師の魔法をかいくぐって王女と勇者に刃を届かせることは不可能だ。
馬車が動き出してしばし、
「お尻痛い……」
ユウがもぞもぞと下半身を動かしている。王家所有の馬車ということもあって、座席には厚手の布地がクッションとして敷かれているが、それでも馬車の車輪が石畳のささくれを踏むたびにそれなりの振動がくる。朝から座りっぱなしというのもあって、慣れない者には少しばかり辛いかもしれない。
「そのスライムの上に座ったら?」
隣に座るリンシアの何気ない一言に、ユウの膝の上に乗っかっているさくらもちがぷるぷると震えた。
「いや、それはそれでバランス崩して危なそうというか、さくらもちが可哀想やって……」
「このスライム、さくらもちって言う名前なの?変な名前」
そう言ってリンシアはさくらもちを指でつんつんと突く。名前は知らずともそのスライム自体はすでに何度も王宮で見かけているので、リンシアはこの魔物に対して嫌悪や恐怖を抱いてはいない。
「なぁなぁ、リンちゃんのママってどんな人?」
尻の痛みを紛らわすという意味も兼ねて、ユウがリンシアに問う。
「うーん……お母様は、とっても優しいわ。いつも私のやりたいことをやりなさい、と言ってくれるの。でも、私が何かを途中で投げ出そうとすると怒るの。自分で決めたことなんだから最後までやりなさいって」
そしてリンシアは話ながら思い出したように、
「あと、私はよく知らないけど、お母様はすごい魔法師なの!危ないからって全然魔法は見せてくれないんだけど……」
「そうなん?」
続くユウの問いかけは座席の向かいに座る魔法師に向けられたもの。
流れゆく王都の町並みにぼーっと視線を向けていたセラは、体勢はそのままに流し目を向けた。王族を前にしているにしては不遜が過ぎる態度だが、リンシアが特に気にする様子もなく、せいぜい隣の騎士が険しい視線を送ってくるだけなので改めるつもりはなさそうだ。
「魔法師協会じゃ有名な話よ。その魔法知識はこの国随一とか。直接行使はしていないけど、勇者召喚にも大いに寄与したそうよ」
「ほぇー、そんなすごい人なんか」
ユウが感心した様子で呟く。実際、王族という身分にありながらも卓越したその魔法の腕、知識は他国にも知れ渡っており、“鷹の目の武王”と並び“深窓の才妃”といえばラドカルミア王国を象徴する偉人である。
そこでふとユウは何か思いついたようにぺちりとさくらもちを叩いた。
「そんなすごい人なら、うちの勇者の力について何か知っとんちゃうかな」
その可能性を考慮していなかったのか、セラは眠たげだった瞳を見開いた。
「……確かに。だから今になってユウを呼び出したのかも……」
「なんでもいいが、頼むから王妃殿下の前で無礼な態度はやめてくれよ……」
剣技のみならず礼儀作法にも精通している一の騎士団の騎士が苦言を呈するが、勇者と魔法師にはどこ吹く風である。
そうこうしている内に馬車は王妃の療養している屋敷に到着しようとしていた。
馬車を降り、まず目に入るのは屋敷の敷地とそれ以外を隔てる鉄格子、そしてその向こうに広がる薔薇園である。赤のみならず桃色や白の濃淡が訪れる者の目を楽しませる。手入れが行き届いているのは当然のこととして、淡い色合いの薔薇が多く咲いているためけばけばしさはまったくない。その薔薇園の奥に佇む屋敷の主の趣向なのだろう。
品種改良とラドカルミアの比較的温かな気候により、ここでは真冬以外は常に薔薇が咲き誇っている。この美しい庭園を見に、ここを訪れる者も多い。
出迎えに出てきたベテランといった風の年配の侍女に案内され、薔薇園の中へ。上品で甘い薔薇の芳香に全方位を囲まれつつも進むと、ほどなくして屋敷の門扉に辿りつく。規模はあまり大きくなく、王族の住まう家屋にしてはこじんまりとした佇まい。だが決して地味というわけではなく、注意してみればその細部に緻密な意匠が施され建築した者の技術の高さが窺える。ラドカルミアの王が過度な装飾を嫌うのは広く知られているが、その妃の住まうこの屋敷は装飾しないのではなく、目立たぬところで自然に美しさを引き出している。薔薇園の淡い色合いも屋敷との調和を意図して調整されたものだろう。
「なんか……大人な感じやなぁ……」
そんな計算された美しさも齢十四の勇者にはなんか大人な感じの一言以上でも以下でもない。まだこの小さな勇者には薔薇よりも野に咲く名もなき花の方が似合っている。
侍女に案内されるがまま、屋敷の中へ。並ぶ調度品の数々もどことなく淡い色合いが多い。その色合いのせいか、まるで絵画に描かれた幻想の世界に入り込んだかのような、どこか足元が安定せずに身体がふわふわと浮かび上がるような不思議な感覚をユウは感じた。
だがそれも一瞬、すぐにそんな感覚は露と消える。
「――警備が少ないわけだわ」
「どうした?」
独り言つセラにレイが問う。しかしセラは何も言わずに首を横に振った。
そして一同が二階の応接室へと通されると、その屋敷の女主人が出迎えた。
「ようこそ。よく来てくれましたね」
相対する者の敵意を霧散させるような優しい声色。ソファにゆったりと腰掛けた深窓の貴婦人が柔らかな微笑みを向けていた。
夫であるエルガス王は四十の始めだが、妻の彼女はまだ三十になったばかり。娘を授かった時分にはまだ二十歳にも届いていなかった。それでも王族としては遅い婚姻である。娘と同じ金を溶かしたような髪が窓辺から差し込む柔らかな陽の光を反射して煌めく。しかしその肌は日焼けを知らぬ白磁。目元がキツめの娘とは真逆に眼尻は下がりがちで、怒るところなど到底想像できないような、柔和な雰囲気を全体に纏っている。
「お母様!」
リンシアが駆け寄った。だがユウと再会した時のように抱き着いたりはしない。母の身体を気遣って娘が側にそっと寄り添うと、その頭を母が優しく撫でる。二人が並ぶと揃いの金髪碧眼もあって、血が繋がっているということがよく分かる。目元以外の顔の造形はよく似ているのだ。
「私がセルフィリア・フォン・ラドカルミア。リンシアの母です」
そういって目礼した王妃に慌ててレイは頭を垂れた。隣のセラもそれに続く。
「お目にかかれて光栄です。私は一の騎士団所属の騎士、レイ・ルーチスです」
「魔法師協会所属の戦術魔法師、セラ・リグンです」
跪く二人に王妃はゆっくりと頷いて見せる。そして視線は勇者の方へ。事前に聞いていたのか、足元のスライムに驚くこともない。
「貴女が、勇者ユウね」
「え、あ、はい!」
名前を呼ばれ、なんとなくユウは畏まった。夫のエルガス王の前に立った時にはこんなふうにならなかったというのに、だ。
決してユウがエルガス王を軽んじているわけではない。当時も今も、相変わらずユウは身分というものに無頓着だ。だが、目の前の貴婦人の碧眼に見つめられるとどうにも心の奥底まで見透かされているようで、その声は耳から身体の中心まで余すところなく浸透していくように感じられる。この人に隠し事はできない。そう直感的に分かる。その上どんな悩みでも打ち明けたくなってしまうような、海のように包容力さえ感じる。
ありていに言ってしまえば、年上の大人に対する敬意。自然と湧き上がってきたその感情にユウは従っていた。
「ずっと前からお話したかったんだけど、最近は忙しそうだったから頃合いを待っていたの。すでにいろいろと話は聞いているけれど、貴女に直接話を聞かないと分からないことも多いと思って。今日は沢山お話しましょうね」




