第一章 深窓の才妃(2/8)
「――ということやねんけど、ばあちゃん、うちと手を繋いだ時、どうなったん?」
質問に年老いた母は首を傾げた。
「分カラヌ」
「どんな些細なことでもええんやけど……」
年老いた母は頤を上げて目を瞑る。記憶を思い起こし、しばらくして何か思い当たることがあったようで目を開く。
「……アレ以降、人間ノ感情ガ分カルヨウニナッタ……ヨウナ、気ガ、スル」
彼女にしては珍しい曖昧な物言いに今度はユウが首を傾げる。
年老いた母はどう説明していいのか分かりかねるようにもごもごと口を動かした。
「コノ人間ハ喜ンデイルノカ、ソレトモ、悲シンデイルノカ。怒ッテイルノカ、何ヲシテ欲シイノカ……分カル、ハ少シ違ウカ。想像デキルヨウニナッタ……想像シヨウト思ウヨウニナッタ……」
「それまではそうは思わんかったんか?」
相手が何を思っているか。それを考えることはコミュニケーションをとる上で不可欠な事柄だ。不可欠で、いつだって上手くできないこととも言える。コミュニケーションが下手な者は相手の心理を理解できていない。あるいは理解しようとせず、自分の価値観のみで相手の考えを断定してしまっているのだ。
自分は自分、他人は他人。どうしたって同一にはなれないのだから、少しでも近づくために言葉を交わし、考える。それこそがコミュニケーション。その極めて難解な問題に立ち向かうのが知性である。
「娘、オ前ハ虫ノ心ガ分カルカ?」
「は?いや、分からんというか……」
分からない、というよりはおそらく精神の構造からして違う。あまりにも異質過ぎて想像することさえ難しい。異質過ぎるが故に、どうしても人間の価値観を当てはめて仮定せざるをえない。言葉も通じないのだから答え合わせもできない。
「私ハ、人間ノ考エナドマルデ理解デキナカッタ。アマリニモ違イ過ギタ。言葉ガ分カルダケ、マッタク違ウ生キ物、ソウ、思ッテイタ」
つまり、今はそうではないということ。
「今ハ、笑ッテイル人間ガ、喜ンデイルト、分カル。対話デ想イヲ伝エル事モ出来ルノダト、分カル」
理解できない存在から、理解できるかも知れない存在へと。それは紛れもなく友好の第一歩。融和の可能性の芽生え。
言葉が通じるのならば全ての者と意思疎通ができるというわけではない。価値観や思考形態の違い、どうしたって越えられない壁は存在する。
その壁が、取り払われていた。
「……俺にも分かるように説明してくれないか」
いまいち理解できなかった様子の騎士が説明を求めるが、年老いた母はそれきり口を閉ざしてしまった。これ以上の説明は彼女自身にも難しいらしい。レイはセラに視線を移す。
「私だってよく分からないわよ。ただ、その心境の変化、みたいなのはこのおばあさん以外の小鬼族にも起こっているのね?」
年老いた母は頷く。彼女の子らの小鬼族にも同じような感覚があり、だからこそ人間と共に労働することができているのだという。
魔法師は顎先に手を当てて考え込む。
「新しく連れてこられた小鬼族も大人しかった。つまり、ユウの力というのは個体ではなく、種族全体に作用しているということ……?それならばスライムが大人しいことにも説明がつく……。そうなるとその規模は明らかに界律魔法クラス……でも肝心の効果がさっぱり分からない……罪人と小鬼族が喧嘩することもないわけじゃないし……」
ぶつぶつと、彼女は呟きながら思考する。どうにもすぐに答えは出そうにない。
次いでレイの視線は勇者へ。
「なんにせよ、仲よぉなれるようなったいうことやなぁ」
気の抜けるような緩んだ笑み。ユウに答えを期待することが間違っていたと、レイは肩を竦めて考えることをやめた。直接影響を受けたわけでも、魔法にも詳しくないレイが考えたところで答えは出まい。そういうことの専門家に任せるに限る。
ユウの持つ勇者の力とは、どのようなものなのか。
と、一同に駆け寄る人影があった。
「あ、皆さまこちらでしたか。少しよろしいでしょうか」
革鎧に身を包み、武装は片手剣と丸盾。ラドカルミア王国の兵士の標準装備であり、この“勇者特区”の警備兵である。看守、とも言うか。
警備兵は一旦立ち止まり、敬礼。話を続ける。
「勇者様御一行に王都のリンシア姫より言伝がございます!」
「リンちゃんが?」
ユウがはてと首を傾げる。
リンちゃんことリンシア姫はこの“勇者特区”が存在するラドカルミア王国の王女である。ユウと歳が近く、友人でもある。
「はっ、リンシア姫のお母上……王妃セルフィリア殿下がぜひ勇者様と話をしたいとのこと。なのでリンシア姫と共に会いに行ってほしい、とのことです」
「王妃……リンちゃんのママか」
そこでふとユウは思い出したように、
「そういえば王宮にいたころ、王様には会ってるけどお妃様には会ってないな」
「王宮とは別に、王都の外れのお屋敷に住んでおられるのよ。あまりお身体が丈夫ではない方なの」
セラの説明にユウはなるほどなぁ、と納得する。
「話って、なんやろ」
「さぁ……具体的な内容まではお聞きしておりません。あ、それとリンシア姫から追加の言伝が」
人の好さそうな警備兵の男が優しく微笑みながら、言う。
「寂しいのでなるべく早く来てほしい、とのことです」
その一言でユウが破顔した。ユウより二歳年下の姫は勇者を唯一無二の親友としている。
「そういえばしばらく戻ってなかったな」
“勇者特区”を設立した初期は王宮にいる宰相といろいろと相談するために“勇者特区”と王都を行ったり来たりしていたユウ達だが、“勇者特区”の運営がある程度自立し始めてからはその場に留まって現場指揮を行っていた。思えばそれきり宰相とは伝令を用いてやりとりすることが多くなり、王都には戻っていない。
「ほな、ちょっくら戻るか!」
勇者の決定に護衛二人が頷いた。
「ばあちゃん、うちらがいいひん間、ここの事頼むわ。あの新しい子らも馴染んでくれるとええけど」
年老いた母が頷く。
勇者がいなくなったとしても、もはや彼女らが人間に反旗を翻すことはないだろう。人間の感情を理解できるようになった彼女らが、何の理由もなく人間に危害を加えることはもうありえない。
こうしてユウ達は、久方ぶりに“勇者特区”を後にし、王都へと帰還したのである。




