第四章 結ばれた手と手(1/3)
「どうしてユウに会っちゃダメなの!?帰ってきたのは知っているのよ!」
ダンッと執務室の机が小さな両の手の平で叩かれる。親子共々事あるごとに物にあたるのだから、そのうち壊れるのではないかと傍らに控えている宰相ケイネスは思った。
机を叩いたのは金の髪を持つ釣り目がちな少女。ラドカルミア王国の姫、リンシア。
姫に詰め寄られた鷹の目の偉丈夫はううむと唸る。
「聞き分けてくれ、リンシア。あの勇者はこともあろうにこの王宮に魔物を持ち込んだ。本当に危険がないのかよく調べる必要がある」
「それも聞いたわ!でもたかがスライムでしょう?武王と名高いお父様が、スライムごときにそんなに過敏になる必要があって?」
武王、ラドカルミア王国国王エルガスは今まで経験したどんな戦よりも苦戦した様子で唸る。
強大な魔族を討ち果たすよりも、年頃の娘をどうやってなだめるか考える方がよっぽどかの王にとって難しかった。もっとも、それは武王のみならず年頃の娘を持つ全ての父共通の悩みなのかもしれない。
「私は早くユウとお話がしたいの!私の、ただ一人の友達なのよ……」
強気な剣幕から一転、後半は伏し目がちに懇願する。
父としては娘の気持ちは分かるつもりだ。王族という立場は気安く友人などというものを作れる立場ではない。どれほど親しくなっても身分という差が切り立った崖のように他者と自分を隔てる。距離が近く見えてもそれは崖の上と下なのだ。
しかしそういった身分のしがらみをまったく意に介さない存在が勇者だ。勇者自身が身分というものを良くも悪くも理解しておらず、対外的にも救世という大役を担う勇者は王族に近しい権限を持つ。故に姫とも対等に会話できる数少ない存在だ。だからこそそんな真に対等な友人はリンシアにとってユウただ一人だ。今後ユウ以外にそんな存在ができることもないだろう。リンシアがユウに執着するのもエルガスにはよく分かる。
そうだとしても、父ではなく王として、今勇者を娘に合わせるわけにはいかなかった。
「――頼む。これ以上父を困らせないでくれ。調査が終わればすぐに知らせる」
これほど詰め寄っても父の態度が変わらないと知ったリンシアは、親譲りの鋭い眼光でしばし父親を睨んだ。交錯する視線と視線。合間に余人が入り込めば居心地の悪さに失神しかねない。そしてリンシアは無言のまま踵を返し執務室を後にした。乱暴に扉が閉められると、父の深い溜息が漏れる。
「まったく……どうしてこんなことになった……」
椅子の背もたれによりかかった王が心底疲れたように自らの眉間を揉み解す。勇者が召喚されてからというもの、主君の加齢の速度が五割増しになったようにケイネスは思う。
「勇者ですが、少なくとも今の所は大人しくしています。危険はなさそうですが、事が事ですからリンシア姫と会わせるのは控えたほうが良いでしょう」
「うむ……」
今朝早くのことだ。勇者が護衛二名と共に王都へと帰還した。
まず王を驚かせたのは彼女が魔物を引き連れていたことだ。それは魔物の中でも最弱のものだったが、決して御しうるようなものではないはずのものが勇者に寄り添っていた。
それだけでも驚愕に値するというのに、その勇者が帰還して早々王に要求した内容にエルガス王らは耳を疑うことになる。
魔族領から逃亡した魔族を保護する場所を用意してほしい。
それはとんでもないことだった。王は即座に情報が外に漏れないようにその場にいた者達に一切の口外を禁止し、勇者は王宮の一室にて待機するように命じた。事実上の軟禁だ。護衛の二人も城から外出することを禁じてある。
勇者の要求はともすれば魔族に寝返ったかのような要求だった。人間勢力にとってメリットがあるようには思えないし、第一このラドカルミア王国、いや、人間領の全ての諸国で魔族と取引を交わすことは大罪だ。少なくともその点ではすでに勇者は罪人だった。
それから勇者の今後の処遇について王が宰相と話をしていた時に、王女が執務室に現れ、今に至る。
エルガス王としては、魔族の息がかかっているかもしれない勇者を愛娘と会わせるわけにはいかなった。例え勇者が小娘であろうとも、娘の友人であったとしても。
「まさか、勇者が魔族を利するような要求をしてくるとは……。世界を救う運命とは、我ら人間を救う物ではなかったのか……」
エルガス王は高い王宮の天井を仰いだ。
多くの歳月と費用を用いて行われた、世界を救う運命を持つ者を呼び出す儀式、勇者召喚。その結果呼び出されたのは何の力もなさそうな少女だった。
しかしそれでも彼女には秘められた力があるのだと信じて旅に出したはいいものの、帰ってくればこれだ。これではあまりにも報われなさすぎる。
召喚が為された際、武王はこれで魔族の襲撃に怯えている全ての人間を救えるのだと思った。しかしその期待は最悪の結果で裏切られた。
「勇者召喚は失敗した、ということでしょうか」
ケイネスが沈痛な面持ちで呟いた。
「そうとしか、言えまい」
もとより、あのような少女が召喚された時点でそのことを認めるべきだったのかもしれない。失敗を認めず、旅になど出したのが間違いだったのだ。
エルガス王は、机に両肘をついて頭を抱えた。
これからあの勇者をどうするべきか。魔族と取引を交わした罪人だ。通常なら有無を言わさず処刑である。だがそんなことをすれば娘のリンシアがどれほど心を痛めるか。下手をすれば処刑を決行した父との間に一生埋まらない溝ができるやもしれない。理由はどうあれあのような少女の命を奪うということに心ある人間としての抵抗感もある。公になれば王は血も涙もない冷血漢だと批判する者も現れるだろう。
それでも法に則れば結論は決まっている。だがそれを素直に実行できない。その葛藤がかの武王を苦しめていた。
苦しむ王の思考は、再び執務室の戸がノックされたことによってまた中断された。
「――一の騎士団、レイ・ルーチスです。王と話をさせていただきたく、無礼を承知で参上いたしました」
戸の向こうから聞こえたその言葉にケイネスが目を細めて王を見やる。エルガス王が一つ頷く。
「……入りなさい」
ケイネスの言葉を聞き届けると、勇者の護衛の一人がその戸を開けて王の執務室へと入室した。
その恰好は武器や兜こそ付けていないが、全身を覆う金属鎧。それは騎士としての正装を意味していた。
「よくもぬけぬけと姿を現せたものだな」
ありありと怒りの籠った眼光がレイへと向けられた。鷹の目と呼ばれるその双眸は睨んだだけで小鬼族を失神させたという逸話すらある。常人ならその視線に射抜かれただけで委縮し、まともな思考などできなくなってしまう。
その眼光をレイは正面から受け止めた。
「一の騎士団である貴様が付いていながら、このような事態になろうとは。貴様はいったい何をしていたのだ?」
「……………」
騎士は答えない。この場に立ってなお、自分の考えを整理しているような、そんな葛藤が表情から伺えた。その様子をただただ恐縮しているだけととった王はさらに言葉に怒気を込めて立ち上がる。
「貴様のせいで、勇者は魔に魅入られたッ!魔物を連れ、魔族を保護したいなどと口にする者を、もはや勇者などと呼べようものかッ!!」
椅子から荒々しく立ち上がった王は、宰相が止める間もなく壁に飾ってあった長剣を手に取った。
それは飾りではない。幾度も実戦で振るわれた、何体もの魔族の首を落した本物の剣だ。答えの出せない葛藤に苛まれることによって溜まった鬱憤が、目の前に責任を追及できる人物が現れたことで爆発した。
エルガス王が長剣をレイの首元へと突き付ける。あと一歩王が前進すればその鋭い切っ先が喉を貫くだろう。
床と平行に伸ばされた腕は中空で一切の震えもなく静止している。それを為すためにどれほどの筋力が必要か、実際に剣を振るったことのないものには分からないだろう。
武王エルガス・フォン・ラドカルミア三世。年老いてなお、その剣技は並みの騎士を遥かに凌駕するという。
「王よ、私は……」
鷹の眼光に射抜かれ、剣を突き付けられ、ようやっと決心がついたのか。騎士が口を開いた。
「短い期間ではありますが、あの勇者と旅をして思いました。あの勇者には、ユウには、魔族を滅ぼす力などありません」
「そもそも勇者召喚が失敗していたと?故にただの少女が魔に魅入られたところで、自分に責はないと、そう言う事か」
長剣が半歩分、前へ。脅しなどではない。言葉を違えばその瞬間に王は刃を前に突き出すだろうということは明らかだった。
「いえ。彼女に何かしらの力があるということは確かです。現に彼女は、あの通りスライムを手懐けている」
「さきほど自分自身で勇者に魔族を滅ぼす力はないと言ったのはどの口だ?あまりに腑抜けた事を口走るようでは、ただの斬首ではすまさんぞ」
「勇者の力は、魔族を滅ぼすような力ではないのではないと、思うのです。仮にそのような力だったとしても、彼女自身がそれを魔族に用いることをよしとしないでしょう」
そのことがレイにはよく分かっていた。共に旅をしたセラも同じ考えを持っているだろう。
「――私は、思うのです。勇者召喚が、世界を救う運命を持つ者を召喚する界律魔法であるならば、そしてそれが成功していたというのならば……勇者の持つ力というものは、破壊や争いを有利にするようなものである必要はないのではないかと」
魔族を打倒しうる力を、勇者は持っているはずだ。いや、持っていてほしい。そうレイは願っていた。だが、今となってはもうそうは思わない。
勇者がユウという少女である以上、そんな力にはなんの意味もないからだ。
だが、それでも彼女が世界を救う運命を持つというのならば。
「一の騎士団として、いや人間として、あり得ざることを口走ろうとしている自覚はあります。ですが、私は、この目で見てしまったのです」
顔を上げ、喉元に迫る刃の先、その奥にある鷹の目を正面から迎えうつ。
これ以上を口にすれば、本当に命を断たれるやもしれない。だがそれでも、直接それを見た自分が言わねば。共にそれを見たセラともよく話し合って、彼女の想いも背負って今レイはここにいる。
二人で、あの少女を救うと決めたのだ。そのために、自分が王を説得するのだ。
たとえそれが、今までの自分の価値観を書き換えねばならぬ道だとしても。
「魔族が……自ら武器を捨てるところを」
ただの命乞いだとしても。それでも魔族が人間に対して降伏を示した。そのうえ、母や子がそれぞれをかばうようなそぶりを見せた。
まるで人間のように。
それは紛れもなく、ユウが命を賭けて彼らに訴えかけたからこそ垣間見えた情景だった。彼女がいなければ、魔族にもそんな感情があるのだとレイが知ることはなかっただろう。
「私は……勇者の為す平和とは、魔族の根絶ではないのではないか、少なくとも、一部の魔族とは和解できるのではないかと、思い始めています。故に、勇者の願いを聞き届けていただきたい。それが和解へと第一歩となるのです」
目を逸らさずに、騎士はそれを口にした。
鷹の目が細められる。視線はさらに、鋭く。
「――墜ちたな。レイ・ルーチス。貴様はもはや騎士に値せん」
レイは覚悟を決めた。
「私は武器を持たぬ者を斬る剣を持ちません。それが私の信じた騎士道です。それが騎士ではないと王が仰るのならば、私の信じる騎士道と、王の信じる騎士道が違うというだけです」
よもや、今まで数多の魔族を討ち果たした自分が、魔族をかばって死ぬことになろうとは。運命とはかくも数奇なものかとレイは瞳を閉じた。
本心を言えば、あの小鬼族達の末路などレイにとってはあまり重要ではない。レイにとって重要なのは、あの黒髪の勇者を護ることだ。一の騎士団である以上に、レイの今の役目は勇者の護衛なのだ。小鬼族達を護ることが間接的にユウを護ることになる。故にこの道を選んだ。
後悔はない。一度護ると決めた者を護るため全霊を尽くした。例えそれが、王の信じる騎士道に反するものだとしても。
レイの騎士道は最後まで貫かれたのだ。
しかし、死を覚悟したレイの耳に聴こえたのは、自身の喉から吹き出す鮮血の鼓動ではなく深く深い、武王の溜息だった。
「……ケイネス。勇者召喚を行ってから、私は何度溜息を吐いた?」
「数え切れぬほどです。王よ」
金属の甲高い音を立てて長剣が執務室の床に転がった。その音にレイが目を開けると、この部屋に入室した時のように、椅子に座って頭を抱えるエルガス王の姿があった。
「思えば、勇者を召喚すれば全てが上手くいくと思っていたことが間違いだったのやもしれぬ。あるいは、召喚された勇者があのような小娘であった時点で失敗したと見切りをつけるべきだった。旅になど出させず、リンシアの専属侍女にでもしておけばよかった。そうすれば、ここまで頭を悩ますこともなかった」
トントン、と。王が指で机を叩く。それがかの王の癖だと傍らの側近だけが知っている。
「ケイネス。勇者の願いを可能な範囲で叶えてやれ。対外的に問題がないように、な。仔細は任せる」
「よろしいので?」
「よろしいもなにもあるか」
ふんっと王が鼻を鳴らす。
「このまま勇者の願いを突っぱねればあの小娘が何をしでかすか分からん。魔族を連れて他国にでも行かれれば外交問題に発展しかねん。かといって首を刎ねれば、儂がリンシアに首を刎ねられる」
そして付け加えるように勇者の軟禁を解いた後、それをリンシアに伝えるようにも言った。
指示を受けて、ケイネスは慇懃に一礼したあと立ち尽くすレイの横を通り過ぎて執務室を後にする。通り過ぎたその横顔には苦笑が浮かんでいた。こうなることを、宰相は予想していたのかもしれない。
執務室に二人きりとなったレイは、困惑した。
「よいの、ですか……?」
「二度同じ事を聞くな 」
そう突っぱねたエルガス王だが、レイが腑に落ちない様子なので仕方なく言葉を続けた。
「……儂も若い頃は騎士王などと呼ばれた身、故に貴様の目を見て分かった。貴様が己が騎士道を貫かんがために命を賭けてここにいるのだとな。騎士に値せんと言った言葉は取り消してやる」
それに――と、かつての騎士王は皮肉げに片頬を上げた。
「儂も武器を持たぬ者を斬る剣は持たぬのでな」
笑っていいものかどうなのかレイが決めかねて複雑な表情を浮かべたのを見て王は肩を竦めた。
「ともかく、だ。貴様は言ったな。魔族が自ら武器を捨てるところを見たと。それを勇者が為させたというのならば、魔族をことごとく討ち果たす以外の方法で平和を勝ち取る方法もあり得るのやもしれぬ」
あの時、ユウが声を上げなければ、年老いた母も人間と言葉を交わそうなどとは思わなかったろう。同様に、ユウがいなければレイは全ての小鬼族を一瞬にして斃していた。命乞いをする暇さえ与えずに。
ユウがいなくてはこのような事態は絶対に起こりえなかった。
「――風がな、吹いていたのだ」
唐突に脈絡のないことを王が呟いた。
「勇者召喚の時、どこから来たのかもしれぬ強い風が吹いていた。あの勇者は風なのかもしれぬ。我らの澱み停滞した価値観を吹き飛ばす風だ。もしかしたら、我らの意識が変わればそれだけで世界は変わるのやもしれぬ。もっとも、そう簡単に魔族と宥和などせんがな」
武王と名高いエルガス王とて、好き好んで戦争を行っているわけではない。
襲われるから護る戦いをし、襲われそうだから先手をとるために攻める戦いをする。人間が領土欲しさに魔族領に侵攻することはほぼない。魔族領のある北方は寒さが厳しく土地はあっても田畑を作ることは難しいからだ。全ては人間が生きるため、魔族が人間を襲うことをやめれば、人間も必要以上に魔族と戦うこともなくなる。争いのない関係などあまりにも現実離れが過ぎるが、少なくとも人間の国家同士程度の関係性にはなりうる。それもまた、現状では夢物語以上の何物でもないが。
「第一、数匹の小鬼族に居場所を与えた程度で何になる?やつらは魔族階級で最下位の下っ端だ。そいつらに優しくしたのを見て他の魔族が態度を変えるわけもない」
エルガス王の言葉は正しい。そのうえその小鬼族達は魔族領からの逃亡者、他の魔族からすれば裏切者に等しい。そんな彼らに人質的価値など皆無だ。寧ろ優先的に攻撃されかねない。
当然レイもそう思っている。だがレイには、否、レイとセラはユウの考えに賛同した最大の理由があった。
それは理由ともいえないようなただの期待かもしれないのだが、一度見た光景だからこそ可能性はゼロではないと二人は思ったのだ。
「王よ」
レイはあの時の光景を思い出していた。
大量のスライムが、ユウに懐いたスライムが現れたことによって逃げていく様を。
今この瞬間もユウの足元にいるだろうあの薄桃色のスライムをきっかけに、たくさんのスライムが救われたのだ。
あの街道での偶然の出会いとユウの愛情が為した奇跡。
「些細なきっかけが、いずれ大きな波を起こすこともあります。私はこの短い旅の間でそれを知りました。できうる範囲でいい、勇者を信じ、力を貸してみませんか。そうすれば、あの小さな勇者が世界を変えるほど大きな波を起こすやもしれません。我らはそうあって欲しいと勇者を召喚したはずです」
スライムを逃がした時にユウから発せられた見えざる波。
あれがまた起きるのではないか。そんな予感。それが一体何を意味するものなのかすら分からない。しかしそれがセラの言うように優しいものであらば、きっと何かしら良いことが起こるに違いない。
そんなあまりにも不確かで、曖昧で、どうしようもなく楽観的な考え。にも関わらずレイがここまでできたのは、レイもまた、あの波を身に受けたときに漠然と感じた感覚があったからだ。
あまりにも荒唐無稽過ぎて、このことは誰にも話していない。しかし、おそらくセラも同じ感覚を感じたはずだ。だからこそ彼女もともにユウに賭ける決心をしたはずだ。
見えざる波紋が世界全土へと広がって、浸透し、あの瞬間に世界が変わったのだという確信に似た感覚を。