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宥和の勇者 ―結ばれた手と手―  作者: noyuki
結ばれた手と手(ハンズアンドハンズ)
17/58

第三章 掲げられたもの(5/6)

「あれは……」


 (くま)の顔面全体に赤い顔料(がんりょう)によって描かれた紋様(もんよう)をセラが見とがめた。それは魔法という技術に属するものだったからだ。


 そのセラの反応だけでレイは全てを(さっ)する。


「なるほど。熊を操って馬車を(おそ)ったわけか」


 対象に直接魔法式を()き込むことで精神に干渉(かんしょう)する魔法。人間側では邪法(じゃほう)とされている(たぐい)の術だ。


 レイは熊の注意を引くために、ゆっくりと移動を開始した。長剣(ロングソード)意図的(いとてき)にちらつかせ、光の反射で熊の視線を誘導(ゆうどう)する。


「セラ、ユウを頼む」


「それは貴方(あなた)がお願い。私が魔法で(たお)すわ」


駄目(だめ)だ」


 魔法師の提案(ていあん)を、熊の視線を誘導しながら騎士が否定する。


洞穴(ほらあな)の奥にこいつを操ってるやつがいる。お前が呪文を(とな)え始めた瞬間に熊の標的(ひょうてき)をお前に変えるぞ」


 魔法の最大の弱点は呪文を唱えるという準備動作が必要であることである。それゆえに戦場で魔法師が単独行動することはない。常に護衛の兵士によって守られているものなのだ。


 その準備動作を省略(しょうりゃく)する技術も存在はするが、往々(おうおう)にしてリスクを(ともな)う上に魔法の精度(せいど)威力(いりょく)が低下する。果たして生半可(なまはんか)な魔法であの巨体を一撃で倒すことができるかどうか。一撃で倒せなければその丸太のような腕でセラの華奢(きゃしゃ)な首など簡単にへし折られてしまうだろう。あの巨体の突進を止めるのはさしものレイでも不可能だ。


「じゃあどうするのよ。まさか魔法なしで熊と戦う気?」


 セラは注意を引かないようにレイよりもゆっくりとユウの方へにじり寄りながら問う。ユウは突然現れた巨大な野生動物に困惑(こんわく)している。それが魔法で操られているなど彼女は知る(よし)もないからだ。


 魔法師の問いに騎士はさも当然のように言った。


「熊程度(ていど)斃せんようでは一の騎士団(ナイツオブザワン)は名乗れないんでな」


 熊が上体を倒し、四足歩行となってレイへと()びかかった。この場にいる人間の中でもっとも脅威(きょうい)な存在はレイであると認識(にんしき)したらしい。それが熊自身の意思(いし)なのかどうかはともかく。


 熊の注意が完全にレイに向いていると確信(かくしん)した瞬間(しゅんかん)にセラも走る。熊の進行方向と交差(こうさ)するように()いつくばるユウの元へ。その後ろ姿を確認したレイは眼前へと迫った爪へと意識を集中した。


 ぶおんと空間ごと()ぎ払うような一撃を上体を()らして紙一重(かみひとえ)()ける。体勢を崩さないように、避ける動作は最小限に。続けて放たれる逆の腕からの二撃目もぎりぎりのところで避ける。下手(へた)に盾で受け止めはしない。盾を(つか)まれて体重をかけられればレイの膂力(りょりょく)を持ってしても押し倒されてしまうからだ。人間としては常人離れした筋力を持つレイも、これほどの大型の獣と筋力勝負するのは分が悪い。


 回避と同時に前へ出て熊の側面(そくめん)へと回り込む。その身軽さは自分よりも大柄(おおがら)な魔族との戦闘を想定している(ゆえ)である。そういった強大な魔族の放つ攻撃は人の身では受け止めることが難しいからだ。それゆえに研鑽(けんさん)された(かわ)し、いなす技術。


 獣の呼吸をすぐ間近で感じながら、レイが逆手(さかて)に持ち()えた長剣を勢いよく振り下ろした。その鋭い切っ先が熊の背中に突き刺さる。


「むッ」


 剣先から伝わる手ごたえにレイはすぐに剣を引き抜いて下がった。寸前(すんぜん)までレイのいた空間を、痛みによって反射的に振るわれた前肢(ぜんし)()ぎ払う。明らかに傷は浅く、致命傷(ちめいしょう)には至らない。


 熊はその身に鎧を(まと)っている。毛皮の下にある皮膚(ひふ)分厚(ぶあつ)皮下脂肪(ひかしぼう)だ。それを(つらぬ)き、身体(からだ)の内部に刃を通すことは並大抵(なみたいてい)の刃物ではできない。レイでなければ切っ先を突き刺すことすらできなかっただろう。


 その強固(きょうこ)な守りと木々を薙ぎ倒す腕力(わんりょく)。それは魔法という超常の力なしでは本来人の太刀打(たちう)ちできるようなものではないのだ。


 些細(ささい)な傷だが、一撃を受けた熊の様子を観察(かんさつ)していたレイが目を細めた。熊は痛みによる反射行動を(おこな)った。最初に跳びかかってきた攻撃にしろ、一挙手(いっきょしゅ)一投足(いっとうそく)を術者に操られているというわけではなさそうだ。


 糸人形(マリオネット)でないならば、それなりにやりようがある。


 再び襲い来る爪と牙の攻撃を後方に小刻(こきざ)みに跳んで回避しつつ、好機(こうき)見計(みはか)らう。そして大振りの一撃を避けた瞬間、ダンッと強く地面を()って再びレイは前に出る。身体を熊に押し付けるかのような肉薄(にくはく)、視線と視線、身体と身体が交差した刹那(せつな)、騎士の右手が(うな)る。すれ違いざまに振り抜かれた右手、そこに(たずさ)えられた盾の(へり)の部分が(すく)い上げるように熊の鼻先を打ち()える。


 グオオオオオッ!


 敏感(びんかん)な鼻に痛打(つうだ)を受けて熊が(ひる)んだ。そこには毛皮も厚い脂肪もない。痛みに鼻をかばうように両手で(おお)って熊が(うずくま)った。人間のような所作(しょさ)平時(へいじ)なら微笑(ほほえ)ましく見えたかもしれない。だが次に熊が顔を上げたとき、その瞳にはありありとした怒りが浮かんでいた。


 熊から少し距離をとったレイはまた盾を前に構えた前傾姿勢(ぜんけいしせい)をとった。しかし長剣を(にぎ)った左手は引き(しぼ)るように後ろへと引く刺突(しとつ)の構え。それはさながら引き絞られた弓のよう。


 今までの熊の反応によってレイは熊がどのように操られているのかを探っていた。その結果、熊はほとんど熊自身の意思によって動いていることが分かった。おそらく操られているのは敵愾心(てきがいしん)のみ。誰を襲うか、その矛先(ほこさき)だけが操られている。


 であるならば、熊の意識がしっかりと存在するのなら精神的な動揺(どうよう)(さそ)うことで熊の動きをある程度誘導(ゆうどう)することができる。


 レイの狙い通り、痛みに怒り狂った熊はただただまっすぐにレイに突っ込んできた。大口を開け、その牙でレイを八つ()きすることだけを考えている。もはや術者を斃そうともレイを引き裂くまでその怒りは収まりはしまい。


 大地を(きし)ませるその突進をレイは正面から(むか)()つ。ぎりぎりと筋肉が軋み、長剣を持つ腕に力が溜まる。筋肉が盛り上がり、触れた瞬間に肉が内側から破裂(はれつ)するのではないかと思ってしまうほどの力の集中。狙うは必殺、この一撃に全霊(ぜんれい)を込める。そして熊が剣の射程内へと足を踏み入れた瞬間――


「オオオオオ――ッ!!」


 騎士が()えた。


 (たくわ)えられた力が一気に(はじ)け、鋼の強弓(ごうきゅう)が放たれる。その切っ先は寸分(すんぶん)(たが)わず熊の口の中へと吸い込まれた。


 (やいば)軟口蓋(なんこうがい)を貫き、さらに奥へ。椎間板(ついかんばん)を断ち割り中の神経を切り裂き、内側から首の皮下脂肪へと刺さる。そこに加わる、熊自身の突進の力。その巨体を前へと動かす途方もない膂力がそのまま長剣を肉に押し付け、とうとうその先端が皮膚を破った。


 内側から首を貫かれた熊は目を見開いて、(うめ)きとも言えないような空気を(のど)から()らした。何が起こったか分からず、腕を振るうがもはや前に進むことは叶わず、その爪は(むな)しく虚空(こくう)()でるにとどまった。


 脱力(だつりょく)した巨大な肉塊(にくかい)からレイが長剣を引き抜いた。剣の(ほり)に付着した血と脂肪を一振りで振り払う。


 熊をたった一人で討ち取ったというのにその騎士にそれを(ほこ)る様子はない。なぜなら、それは彼にとって当たり前のことだったから。生身の人間としてはありえざる戦闘能力。故に彼らはそう呼ばれるのだ。


 一の騎士団。対魔族の切り札と。


 ユウの小さな身体をかばうように抱きしめていたセラは、(あらた)めてその舌を巻いた。


 その強さは決して才能だけで得られるものではあるまい。毎日毎日()きもせずに型の演舞(えんぶ)と筋力トレーニングに(はげ)み、数多(あまた)の死線を乗り越えたことでようやっと得られたものなのだろう。実際に目の当たりにしたことで人々が騎士に対して憧憬(どうけい)尊敬(そんけい)(ねん)(いだ)くのがよく分かる。


「――もし言葉が分かるなら、出てこい。もう逃げられないことぐらい分かるだろう」


 言葉が分かるなら、そう言ったレイだが相手が理解できるだろうと思っての呼びかけだった。魔法を(あつか)えるものはそのほぼ全てが高い知能を持つ。魔法というものが知識によって研鑽される技術であるからだ。故に魔法を操る魔族にはたいていの場合人間の言葉が通じる。相対(あいたい)する関係であるからこそ、敵の言語を理解することは情報戦を有利にする。


 レイの呼びかけに応じるように、洞穴から聞こえてくる足音。姿を現したのは一匹の小鬼族(ゴブリン)だった。


 だが、その姿は一見(いっけん)先ほどまでいた小鬼族達よりも弱々しく見えた。肌には(しわ)が刻まれ樹皮(じゅひ)のようにかさついており、(つまづ)いただけで折れてしまいそうなほどその手足は貧弱(ひんじゃく)で枯れ枝のようだ。加えてその貧弱な身体を支えるように地に突き立てられている杖。初めて小鬼族を見る者でもそれが歳をとった個体であると一目で分かる容姿(ようし)だ。


 ただ、魔族に対して多少の知識があるものならばその特異性(とくいせい)に気づくことができるだろう。


 通常の小鬼族はこんな外見になるまで生きることはないのである。彼らはとても短命の種族だ。寿命はせいぜい六、七年ほど。もっとも、ほとんど場合その寿命を(まっと)うする前に戦いの中で()き果てる。


 ただし例外がある。この個体はおそらくそれなのだと分かったセラが(つぶや)いた。


年老いた母(オールド・ゴブリン)……こいつが熊を魔法で操ってたのね」

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