第三章 掲げられたもの(4/6)
棍棒がユウの顔面を打ち据えることはなかった。
もはや見慣れた薄桃色が寸前で小鬼族を突き飛ばしたのだ。その痛みを伴わない体当たりが見た目以上の重量と衝撃を内包していることをユウはよく知っている。
砂埃を上げて小鬼族が地面にごろごろと転がった。まるで初めてユウとそれが邂逅したあの時のように。
「さくらもち……」
小鬼族を突き飛ばしたそのスライムの名をユウが呟く。昨日宿で留守番をさせて以降、目に入ってはいたが気にしている余裕もなく意識の外へと追いやってしまっていた。
しかしたとえユウが構ってくれなくとも、このスライムはずっとユウの側にいた。今朝ユウが宿を抜け出した時も、当然のように彼女の後を付いてきていたのだ。
困惑したのは小鬼族だった。突き飛ばされた一匹は派手に吹っ飛びはしたものの大きな怪我はない。だが、地面に座り込んだ状態のまま、突然現れた小さな魔物に目を白黒させている。
それは彼らにとってもあり得ない光景だった。
魔族達にとってさえ何を考えているか、どういう行動原理をしているか分かっていないスライムが明らかに人間に味方するような素振りを見せている。
このスライムはいったいなんなんだ?
この人間はいったいなんなんだ?
二つの疑問が小鬼族達の動きを止めた。彼らの言語が頭上を飛び交い、騒然とする場の中心にいて、ユウは遠くの方から草木を掻き分け走ってくる足音を聴いた。
「ユウーーーーッ!!」
次いで響いた声に小鬼族達は喋るのをやめて一斉に声のした方向に振り向いた。
ユウと同じように血の跡を辿り、勇者の護衛がやってきたのだ。
洞穴前の広場へと進み出たレイはそこにユウがいることに一瞬安堵しつつも、すぐに怒りに眉根を寄せた。地面に這いつくばった状態のユウを見て、何があったのかある程度察したのだ。
レイから遅れること数秒、セラもそこへと辿り着く。少し息の上がった様子の彼女も小鬼族へと怒りを隠そうとしなかった。呼吸が乱れていなければすぐにでも呪文を口にしかねない。
「――説教は後だ。今はこいつらの首を落す」
恐ろしく無機質で冷たいその声色が小鬼族達の背筋を凍らせた。その一言だけで付近一帯の温度が数度下がったかのような錯覚を受ける。
背中からスラリと抜き放たれた長剣が曇天の元で鈍い輝きを放った。その輝きに今までどれほどの数の魔族が飲み込まれたのだろうか。
「や、めて……!レイ君……!まだ、ちゃんと話せてないからッ……」
掠れ、途切れがちの声。叫ぶというにはあまりに弱々しく。血こそ見える範囲では流れていないが、額には脂汗が浮かび、時折引き攣ったように頬が痙攣している。
加えて地面に這いつくばったその体勢、ユウが負傷していることは明らかだった。そしてその原因が小鬼族だろうということも。
騎士が噛みしめた奥歯がギリッと音を立てた。
「――どうして、どうしてそんなになってまでこいつらをかばう!?こいつらは魔族だぞ!俺達人間の敵だ!それは昨日と今日で身をもって知ったはずだッ!」
最初の一回ぐらいなら、魔族のことをよく知っていないということで済ませることもできたかもしれない。だが今は違う。言葉の通じる相手ではないと分かっていたはずだ。いや、たとえ言葉が通じたとしても話し合いに応じるような連中ではない。
一度武器を振るわれた相手にどうしてこうも無防備に近寄っていける?こんな醜悪な化物に話し合いで和解しようなどどうして考えられる?
「なぜだ……ユウッ!」
騎士の問いかけに、勇者は答えた。
「――だって……喧嘩すんのは、アカンことやろ……?」
そう言って少女は笑った。いつもの緩んだ頬ととろんとした眦で。今までレイとセラが見てきたものとまったく同じ笑顔。こんな状況にあってさえ。
その笑顔にレイは戦慄した。この少女の愛嬌のある笑顔に強烈な違和感を感じる。あまりの異質さに吐き気すら覚えた。
同時に、そうか、そういうことだったのかと納得もした。
度重なるユウの不可解で自分の命を省みない言動。その理由が分かった。
隣のセラが小さく呟いたのがレイの耳に入る。彼女はそれを口にせずにはいられなかったに違いない。優しい彼女だからこそ、そう毒づかなければいられなかったに違いない。
「――何が勇者召喚、何が世界を救う運命よ。救いが必要なのは、この子じゃないの……!」
セラは村につく以前からユウの異常性を感じていた。それをレイは考え過ぎだと一蹴した。だがそうではなかった。
ユウの行動はもはや慈愛などという精神からかけ離れている。もはや狂気的とさえ言っていい。優しさだけでは恐怖心は消えたりしない。根本的な何かが欠けている。
この笑顔を見て、その瞳に映った尋常ならざる光を見て、やっとレイにも分かった。
この少女は、ユウは、心に大きな怪我を負っている。とても深い傷だ。おそらくこの世界に来る前のもの、もはや血は全て流れ出てしまって痛みは消えてしまっている。
この世界に来て、親も友達もいない、常識すら通用しないような場所に連れてこられて、齢十四の少女がただの一度も涙を流していないのがその証拠だ。
「……ユウ。これは喧嘩じゃない。だからいいんだ」
数多。何十、何百もの魔族を葬ってきた騎士が歩を進めた。護るべき、勇者へ向けて。
小鬼族が身構えた。最初こそレイの気迫に委縮した彼らだったが、多勢に無勢、向かってくる人間は一人に対してこちらは四体だ。背後のもう一人は武器を持っていない。考慮する必要はない。相手が一人なら一斉にかかればなんとかなる。
彼らは常に複数で行動する。魔族の種族階級最下位に位置する彼らだからこそ、自分達の脆弱さをよく理解しているからだ。それを数で補うということを本能が知っている。その上彼らは多産で個体毎の生存本能以上に種としての生存に重きを置く思考形態をしている。一人が犠牲になろうとも、より大勢が助かればいい。そのためならば仲間でさえたやすく切り捨てる。一体がやられている間に他のものが敵を仕留めればいい。
もっともレイとの距離が近かった一体がレイに向けて、棍棒を振り上げ猛然と襲い掛かった。
「これは喧嘩じゃない。生きるために戦うことは悪いことじゃないんだ。そうやって俺達は命を繋いできたんだ。戦わなければ、殺されるんだ」
銀閃が、奔った。
この場にいる誰一人でさえ、その剣筋を見切れた者はいなかった。斬られた小鬼族でさえ、何が起こったのか理解できなかったろう。
そして理解する間もなく、彼の意識はその胴体と分かたれた首と共に闇の奥深くへと落ちていった。苦しむ暇などない。
レイは盾を前に構えてやや重心を落した前傾姿勢、長剣を持った左手はぴくりとも動かずに中空に制止している。まるでずっと前からその体勢、その位置で動かず固定されていたかのような印象を受けるが、長剣の腹の彫に溜まった赤い水滴がつぅっと剣先へと流れて、今しがたの出来事がそれによって為されたのだと証明している。
鈍らな刃でも斬ることはできる。だが通常、それは切断以上にその重量でもって強引に叩っ斬るものであって、騎乗時の速度や高低差を利用する。しかし当然ながらレイは馬など乗っていない。純粋な肉体が生み出す膂力のみでそれを為した。腕の筋肉だけではあるまい。大振りな刃を振るってもまったく揺らぐことのない体幹も常人を遥かに凌ぐ。人間の肉体がもつ潜在能力を出しきっているかのように思えるその身体能力を得るためにどれほどの歳月を費やしたのか、想像することさえできない。
一の騎士団。その盾の紋章は、彼が魔法を用いない人間の戦力としては最大最強であることを示している。
「……ああ……ああッ!」
大地に前のめり倒れ込んだ首のない小鬼族を見て、笑みから一転、ユウの表情が悲痛に歪む。口から言葉にならない叫びが漏れる。
「どうして……どうしてっ!」
頭の怪我も忘れて呆然と首を横に振る。
「人を傷つけることはアカンことやのに、そうやと分かってんのに!なんでみんな、仲良くできへんのや……!うちには……うちには分からへんよッ!!」
湖でセラが魔法でスライムを焼いた時は、こうはならなかった。それはスライムが魔物であり生物と言えるのかすら分からないような外見だったからだ。
だが小鬼族は違う。頭があり胴、手足がある。基本的な身体特徴は人間と酷似している。だからこそ醜悪に見える。その上、言語を使って仲間とコミュニケーションをとり、間違いなく物を考える思考能力と感情を持っている。
それが彼女の琴線に触れた。
「ユウ、こいつらは、人じゃない」
騎士がそう断じたが、錯乱した勇者には届かない。どうしてどうしてと呟き続ける。尋常な精神状態ではない。
小鬼族達は動くに動けなかった。本来は一匹が突撃したのを皮切りに同時に雪崩れ込む算段だったのだが、あまりに戦闘力の差が違い過ぎた。これでは突撃したところで最初の一匹の二の舞になるだけだ。仲間が命を失ってさえ隙の一つも彼らは見出すことができなかった。
その時、洞穴の奥から何か声が聴こえたかと思うと次いで地鳴りのような唸り声が反響し、響いた。
その声を聞いて小鬼族達が我に還った。言葉に込められた意味を理解し、我先にと逃亡を開始する。その声は彼らの言葉で逃げろと言っていたのだ。
何かが洞穴の中から出てこようとしていた。小鬼族ではない。もっと大きな生き物。
ユウ達は馬の死体を引き摺った血の跡を辿ってここまで来た。つまり馬の身体を引き摺って運べるような何かがそこにはいるということだ。馬の死体はかなりの重さである。少なくとも人間程度の膂力では舗装もされていない森の中を引き摺って進むのは難しい。つまりそれ以上の力を持つ何か。
曇天の元にその巨体が姿を現した。
全身を覆う赤茶けた体毛。厳つく盛り上がった両肩から大地に降ろされた前肢はユウの胴体並みに太い。そこから生えた爪もまた太く、頑丈で鋭い。皮鎧程度ならば紙のように引き裂いてしまうだろう。
ずんぐりとした体躯が四足歩行から二足となって立ち上がった。その高さは人間としては長身のレイの身長よりも頭一つ分高い。不自然なほどの敵意の籠った黒瞳がレイ達を睥睨していた。
グアアアアアッ!
それが地響きさえ伴いそうな咆哮を放った。まるでこの森の主は自分であると誇示するように。
実際に、この森の生態系の頂点にそれは君臨していた。人間もおいそれと手は出せず、森に入る時はそれと遭遇しないように細心の注意を払う。遥かな昔から、そうしてきた。そうやって距離をとりつつも長い歳月を共に暮らしてきた隣人だ。
もっとも身近で、もっとも大きな脅威と言っていい。少なくともデマリ一帯では魔族や魔物以上に恐ろしいとされている存在。
一頭の巨大な熊がそこにいた。




