第三章 掲げられたもの(3/6)
閉じた瞼に光を感じ、彼女は目を覚ました。
鳥の囀りも聴こえない曇り空。紗幕越しの日の光がデマリ村を照らし、そこで暮らす人々にまた新しい一日の始まりを告げる。
ベッドから上半身を起こしたセラは、しばし額に手を当てて動きを止めた。眉間には不機嫌そうな皺が寄っている。寝起きが極めて悪いのだ。
しばらくその体勢でじっとしていたセラだが、やっと起きる決心がついたのか、瞳を開く。
そしてなんとなしに隣のベッドに視線をやり、硬直。
――そこにいるはずの人影がない。
寝ぼけていた頭に急速に血が廻っていく。今まで彼女より早くユウが目覚めていたことなどなかった。考えうる最悪の事態が頭を過る。
ダルさの残る身体に鞭打ち、ベッドから跳び降りる。ユウの寝ていたベッドに手をかざすが、熱が籠っていない。用を足しに行っているわけではない。そこから起きてしばらく時間が経過している。予感は確信に変わった。
勢いよく戸を開くと廊下に騎士の姿があった。
「おっと!なんだ、どうした?」
日課である朝の鍛錬に行くところなのだろう、すっかり朝の支度も終えている様子のレイが突然開いた扉に目を白黒させている。
なぜ気付けなかった。
自責の念に押しつぶされそうになりながらも、喉から絞り出すようにセラは叫んだ。
「――ユウがいないッ!!」
朝靄に濡れた森の中を彼女は歩いていた。湿った土の香りと草木の吐息、深く息を吸い込むとひんやりとした空気が慣れない森歩きで火照った身体を冷やしてくれる。
少し立ち止まって空を見上げる。灰を撒いたような空はそれでも確かに光を届けてくれる。そろそろ二人が起きる頃だろうか。
夜が明ける前に宿を抜け出したユウは、再び横転した馬車までやってきた。ユウが一人で向かうことに村の出入り口を警備していた自警団は少なからず疑問を抱いたようだが、レイの指示だと言うと問題なく通してくれた。
デマリの人々にとっては騎士と行動を共にしているこの異装の少女は得体の知れない存在だった。
見たことのない髪、瞳の色。言葉の不思議な訛り。しかも昨日はスライムを連れ歩いていたという。そして何よりも、一の騎士団と魔法師を連れ歩いているという護衛の厳重さ。村人達が何かしら特別な地位にある人物なのではないかと邪推するのも無理からぬことだろう。仮にどこかの貴族の令嬢だった場合、門を通してくれなかったとあとで難癖をつけられて首を刎ねられたらたまったものではない。
薄明かりの中、馬車までやってきたユウは馬の血の跡を辿った。レイが言っていた血の跡を辿ればねぐらの場所が分かるという言葉を覚えていたのだ。
もっとも、馬を持ち去ったのは小鬼族ではないだろうというレイの考えまでは読み取れていない。馬を襲った何かの存在などまったく考慮していない。
最初は太く、濃いライン。それが距離を経るごとに細くなっていく。次第にそれも消えかかってくるが、馬という大きな動物の死骸を引き摺った跡は早々消えるものではない。
街道からそれほど離れることなく、ユウは目的の場所まで辿り着いた。
森の中、不意に拓けた場所。そこにぽっかりと口を開けた洞穴があった。馬を引き摺った跡がその奥の暗闇へと続いている。
洞穴の前に広がる拓けた空間には布の切れ端や木くず、破れた革袋などが散らばっている。ここが小鬼族のねぐらだというのは間違いない。
ユウが洞穴に近づくと、踏みしめた落ち葉が音を鳴らした。その音を聞きつけ、洞穴に入らなくともユウが探していた者達が暗闇の奥から姿を現す。
「――こんな朝早くにごめんなぁ」
ユウが語り掛けるが、それに返答はない。
洞穴から出てきた小鬼族は四体。いずれも武器らしい武器は棍棒のみ。微妙な体格差や個体差はあるが、ユウにはその中のどれが昨日あった小鬼族なのかは見分けがつかなかった。
小鬼族の一体が何やら隣の小鬼族と言葉を交わす。高く、かすれた声。今まで聞いたことのない不思議な言語で、ユウにはさっぱり理解できない。
ただ小鬼族達が困惑しているのは見てとれた。人間が報復にくるのは分かる。だが、こんなひ弱そうな子供が来るのは不可解だ、と。
「昨日はゴメンな。剣向けられてたら、そりゃ怖いよなぁ。でも今日は丸腰やさかい」
そう言ってユウは両手を上げて見せる。
その様子を見やった小鬼族達は、武器を構えつつゆっくりと動き始めた。
全員ユウから視線を外さず、ジリジリと慎重に。前後左右、完全にユウを包囲する形へ。
小鬼族達はこの不可解な人間の子供は何かしらの罠なのではないかと警戒していた。
彼らに包囲されつつも、ユウはまったく動じた様子がなかった。小柄とはいえ異形の化物に囲まれているにも関わらず、だ。この場に第三者がいたならばこの娘は恐怖を感じないのかと目を疑ったことだろう。
実際、ユウは恐怖を感じてはいなかった。それは今に限ったことではない。
野盗に襲われた時もそう、もちろん初めて小鬼族の姿を見た時も。この世界に召喚されて、まだ一度も彼女は恐怖という感情を抱いていない――。
「ほら、今日も持ってきてん。お腹空いてるんやろ?皆の分にはちと足りんかもしれんけど、そやったらまた持ってくるから」
そう言って、また干し肉を差し出す。
差し出された小鬼族はそれをまじまじと見やった。
「魔族領からここまでよぉ逃げてきたなぁ。でももう大丈夫。うちが守ってあげる。うちこれでも勇者やさかい、王様に頼んでどっか静かに暮らせるところを用意してもらうわ。リンちゃんのパパやし、それぐらいの我がまま聞いてくれるやろ」
言葉が通じるかどうか、というのはあまり大きな問題ではない。重要なのは、争うつもりがないということが伝わるかどうか。
小鬼族はそれが食べ物だと分かると生唾を飲み込んだ。奇しくもユウが干し肉を差し出したのは昨日出会った個体と同じ小鬼族だった。彼はまだ若く、獲物の配当がもっとも最後であり量も少ない。故にいつも空腹だった。
昨日はそれが食べ物だと認識するような余裕すらなかった。だが今は違う。相手は無力な人間の子供一人。反撃してきてもこんな子供に何ができる?
物陰に昨日の騎士が隠れていないとも限らないが、少なくとも今はあの恐ろしい気迫は感じない。ならば、この人間の狙いがなんだとしてもこの肉を手にとって問題はないのではないか。
おずおずと伸ばされる枯れ枝のような指先。
ユウはそれを微笑んで受け入れた。その刹那。
――気が付くと冷たい地面に横たわっていた。倒れ込んだ拍子に入り込んだのか、口の中に土が入り込んで不快な異物感に吐き気がした。
同時に、後頭部がカァッと熱くなる。それで自分が後頭部を殴られたのだと分かった。少しすると自分の鼓動に合わせて殴られた場所がズキズキと強く痛みだす。
暗転した視界に光が戻ってくると、自分を取り囲む小鬼族達の姿が見えた。ユウが渡した干し肉を取り合って喧嘩をしているように見える。
(ああ……失敗したんか……)
少し靄がかかった意識の中で、ユウは自分が交渉に失敗したことを知った。
血は出ているだろうか。ほとんど無意識に、ユウは自分の頭部を触ろうと腕に力を込めた。だがそれは、小鬼族達には起き上がろうとしているように思えたらしい。喧嘩をやめてユウに向き直る。
ユウは顔だけ起こして、依然警戒する小鬼族達に弱々しい笑みを見せた。
「そんな、怖がらんでも、ええやんか……うちは、仲よぉしたいだけやねん……」
彼女の言葉は届かない。その姿は、彼らには命乞いをしているように見えたかもしれない。
また、棍棒が振り上げられた。例え無力な人間の子供だとしても、それが命乞いをしていようとも、彼らにそれを振り下ろさない道理はなかった。
それが魔族だ。人間の敵だ。彼らに慈悲は存在しない。人間が彼らに対してそれを持たないように。
今度は正面から振るわれようとする棍棒。その軌跡を目で追いつつ、ユウは死ぬかもしれないなと思った。
その瞬間、彼女の脳裏に過去の記憶が蘇る。走馬燈というものが実在するのかと驚く間もなく、彼女の意識は本来彼女が生まれた世界へと回帰した。
幼い時分から、どうして皆仲良くできないのか疑問だった。
どうして誰かを虐めないといけないのか、それが悪いことだと分かっているのに、なぜそういうことをするのか理解できなかった。
泣いている子がいれば手を差し伸べてあげた。喧嘩をしている子がいれば仲裁に入った。虐められている子がいれば、虐めている子にどうしてそんなことをするのかと詰め寄った。
それが当然だと思った。
本当に分からなかったのだ。争うことは良くないことだと皆口を揃えるのに、どうしてその良くないことをするのか。
誰かが不幸になっているのを見て、どうして笑えるのか、彼女には理解できなかったのだ。
小学校の低学年頃までは、彼女はただ変わった子、というレッテルが貼られるだけで済んだ。
だがそれ以上になると、彼女の親切心を心底鬱陶しく思う者達が増えていった。イジメというものが激化する年代に入ったということもある。
もちろん、彼女の親切心に救われた者は少なからずいる。だがそれ以上に彼女の存在を疎ましく思う者が増えた。
――みんなやってることだから。
その言葉がなぜ免罪符足りえるのか、理解できなかった。
彼女自身が虐められることも増えた。手を差し伸べた子が彼女を虐める側に回ることもあった。
悲しくはなかった。怒りも沸かなかった。ただただなぜという疑問符が頭の中に浮かんでいた。
たびたび投げかけられる死ねという言葉。だがそれに対してはさしたる痛痒も感じなかった。なぜならそれは仲の良い人達の間でも頻繁に使われている言葉だったから。
その言葉を投げかけられる度に、その言葉を誰かが使っているのを耳にする度に、彼女の中で何かが変化していったのかもしれない。
中学生になっても彼女の性格は変わらなかった。彼女の行いを善くないと否定できる者は、誰一人としていなかったのだから。
されど、彼女の行いに対する反発は小学生の頃とは比較にならないほどだった。
苛烈になる誹謗中傷、自分は間違ったことをしているのかと考えたことも一度や二度ではなかった。だけど何度考えても自分が間違ったことをしているとは思えなかった。
ならば、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか。理解できない。分からない。
分からないから彼女は他人をよく見るようになった。他者が何を考えているのか、何を思ってそんな行動をしているのか、よく考えるようになった。
それはある意味、彼女の防衛本能だったのかもしれない。
なぜ自分が敵意を向けられるのか、分からないなりにその敵意に理由をつけて納得しないと耐えられなかったのだ。こういう理由があるから自分に向けられている敵意は仕方のないものなのだと無理やり納得しないと心が壊れてしまいそうだったのだ。
そのおかげか夏休みを挟んでからは彼女に投げかけられる罵声はずいぶん減った。
それでも彼女が仲裁をやめたわけではない。見て見ぬふりは虐めているのと同じだと教師が教えてくれていたから。
彼女は素直で、愚直で、そしてどこまでも正しかった。
その素直さが、その愚直さが。招いた出来事だった。
――お前が死んだらいじめをやめる。
それは、冗談とも言えないような提案だった。言った方はまともな返答が帰ってくるとは思っていまい。
だけど彼女は、思ってしまったのだ。それは割の良い交換条件なのではないかと。
自分の命にいったいいかほどの価値があるだろう?あれほど何度も何度も死ねと言われたこの命にどれほどの重さが残っているだろう?
それは何よりも重いはずのものだった。けれど、あの罵声を受ける度に、誰かが冗談交じりに呟く度に、彼女の中の天秤は徐々に傾きを緩やかにしていった。
そしてその日、天秤は逆に傾いてしまった。
それからどうなったのか、彼女はよく覚えていない。覚えているのは強く吹き付ける風ぐらいなものだ。
ただ確かなのは、彼女の命を高く天秤が掲げた瞬間、何かがそれを皿の上から掻っ攫ったということだ。だから彼女はここにいる。
彼女の命は新しい天秤の上に乗せられた。されどその比重が変わるわけではなく。未だその皿は高く掲げられている。
その皿が沈まない以上、彼女が恐怖を感じることはないだろう。
彼女が自分の命を大切なのものだと思うことはないだろう。
それが、ユウという少女だった。




