第三章 掲げられたもの(2/6)
装備を整えて、街道を走りしばし。日の入りまでもう時間がない。街道が朱に染まりつつある。
デマリの一帯は自然が多い場所である。街道の両脇には森が、というよりもこの街道は森を貫く形で整備されているのである。整備といっても草木と小石が取り除かれた大地を、通行する者が何度も踏み固めることによってできた道であり、その道幅はあまり広くない。
故に、一頭立ての幌馬車が横転したことによって、その道は完全に閉ざされていた。
その全容が見えた段階で、先頭を行くレイは一旦停止、後方の二人にもそう指示を出す。
長剣と盾を携え、ゆっくりと距離を詰めていく。刀身に夕日が映り込み、鈍く朱に染まっていた。セラとユウもそれに続く。セラは特に装備らしい装備はないが、魔法師に装備は必要ない。ユウはちょっとした手荷物と護身用に持っておけと言われたレイピアの鞘を腰に差している。抜いたところでいかほどの意味があるのかは疑問だが。さくらもちは流石に宿に置いてきた。
(馬がいない……)
横転してレイ達の方に腹を見せる馬車を引いていたはずの馬の姿がなかった。逃げたのだろうか、という推測がレイの頭を過るが、すぐにそうではなさそうだと訂正する。
馬車の前方に大きな血溜まりが広がっていた。馬の物と見て間違いないだろう。赤から黒に変わりつつある命の残滓が森の奥へと線を引いているのが見えた。
小鬼族が持ち去った、というわけではあるまい。彼らの膂力では馬の死骸を運ぶのは難しい。であるならば、小鬼族と共に行動し、最初に馬を押し倒したという何かの仕業だ。
ガタンッと物音がした。音の発生源は馬車の幌の中。何かが荷物を漁っている。
「ユウ、こいつが魔族、小鬼族だ」
騎士の声に気づき、荷物を漁っていたそれが姿を現した。
身長はユウよりも一回り小さい。人型だが、骨格的なものであろう前傾姿勢。ボロボロの衣服とも呼べないような布地を身体に纏い、手には木を削っただけの粗末な棍棒を持っている。ぎょろりと動く大きな目、突き出た鼻、耳、くすんだ灰褐色の肌の身体は痩せぎすで、栄養失調の子供を彷彿とさせる。
レイにとってはもっとも見慣れた魔族。ユウにとっては初めての魔族との邂逅。
この不気味な小人が小鬼族と呼ばれる魔族であった。
「これが魔族……」
ユウが反芻するように呟いた。そこに怯えは感じられなかったが、かつてないほどの衝撃は見てとれた。
その姿は彼女のいた世界に存在した生物とはあまりにかけ離れていた。スライムのような無機物的で人にもよるが可愛げのある容姿ではなく、もっと生々しい生物としての特徴を揃えた異様。この世界の住人ですら、初めてその姿を見た日は夢でうなされることもあるという醜悪な見た目なのだ。
小鬼族は突然現れた人間に警戒して、身構えた。一方でレイは周囲に気を配った。魔族としてはもっとも貧弱な小鬼族が単独で行動することはほぼない。仲間がどこかにいるはずなのだ。
だが小鬼族が襲い掛かってくる様子はない。寧ろ警戒しつつレイ達と距離を取ろうとしている素振りすらある。
「……なるほど、他の仲間はもうねぐらに帰った後か」
レイが一歩前に出ると、小鬼族がビクンと怯えて一歩下がる。
魔族には夜目が効くものが多いが、それでも夜の間は活動を控えるものがほとんどだ。小鬼族も例外ではなく、夜はねぐらで睡眠をとる。おそらく他の小鬼族達は馬車を襲撃後、目ぼしい荷物を奪い、すでにねぐらへと戻ったのだ。この一匹はなかなか目ぼしいものが見つからず探索を続けていたのだろう。階級制度の厳しい魔族のことだ、狩りの報酬をもっとも後回しにされるということは若い個体なのかもしれない。
「ねぐらの場所は血の後を辿れば分かる。だからこいつを生かしておく必要はない」
再びレイが一歩踏み出す。しかし今度は小鬼族は動かなかった。
厳密には、動けなかった、という方が正しい。まだレイと小鬼族の距離は離れており、長剣の届く間合いではない。だが、小鬼族の生物的な本能が激しい警鐘を鳴らしていた。
動けば斬られる。まるで距離など存在しないかのような、喉元に刃を突き付けられている感覚。生まれてから初めて感じる無慈悲な殺しの意思。実際にレイは瞬きの間に距離を詰め、小鬼族が斬られたと思うより速くその首を落すことができる。
厳然たる力量の差は無駄な争いを生まないものだ。ただ気迫のみでその差を理解してしまった小鬼族は抵抗する意思を奪われてしまった。
あるいは、それは魔族の階級最下位であり常に虐げられてきた彼らの本能なのかもしれない。相手が自分より強いと分かれば抵抗しない。ただ粛々と命に従い、殉じるのみ。それが弱い彼らが種として存続するための一番の方法だからだ。
そしてレイが宣言通りに長剣を振るおうとした刹那、その脇から黒い影が躍り出た。
「待って!ちょっとうちに話をさせて!」
今まさに斬りかからんとしていた騎士の前に立ち塞がった勇者を見て、後方に控えていた魔法師は小さく嘆息した。薄々こうなるのではないかと分かっていたらしい。
それは騎士も同じらしく、さして驚いたふうでもなく目を細めた。
「ユウ、そこをどけ」
それは、今までユウがレイに対して抱いていた印象を全て拭い去るほどに冷たい声色だった。
人が変わった、というより人ではなくなった。彼は魔族に相対するその瞬間から人の形をした一振りの剣になっていた。
意志薄弱な者ならば聞いただけで身が竦むような冷たい声色を受けて、それでもユウは引かなかった。それほど強い意思を持ってそこに立っているのか、それとも声色に秘められた殺意に気づけぬほど鈍感なのか。
「魔族ってのは言葉が分かるんやろ?やったらまずは話をして、なんでこんなことしたんやって聞かんと!」
「人間の言葉を解すわけじゃない。それに、人間を襲うのはこいつらにとっての狩りだ」
未だ硬直している小鬼族から目を離さず、レイは続ける。
「こいつらは生産性を持たない。奪うことでしか生きられない。だから人を襲う。そんなやつとどこに話をする余地がある?」
「やったら!なおさらやんか!うちらが助けてあげたら人を襲うことはないってことやろ!?」
さしもの騎士も、その言葉には呆れを通り越して落胆を隠しきれなかった。
「魔族領が嫌で逃げてきたんやろ?やったら保護してあげたらええやん!食べ物の作り方が分からんのやったら教えてやったらええ!それぐらいケチケチすることないやんか!」
声を荒げて小鬼族をかばうユウを見て、レイは彼女には根本的な理解ができていないのだと分かった。
彼女は魔族が人間をどう思っているのかを理解していない。
だからこそのこの行動なのだろう。レイとセラが見ている前で、ユウは小鬼族に身体を向けた。
突然前に出てきた人間の子供に小鬼族が困惑しているのは誰の目から見ても明らかだった。どうすればいいのか分からず、されど動けば殺されるという状況は変わらないので動けずにいる。
「なぁ、お腹が減ってたんか?やったらうちが分けてあげるさかい、もうこんなことはせんといて欲しいねん」
そう言ってユウは腰に吊っていた麻袋から一欠けらの干し肉を取り出した。最初から彼女はこうするつもりだった。そのつもりで宿屋から食料を持ってきていたのだ。
干し肉を手にし、一歩、二歩と小鬼族に近づいていくユウ。
「ちょっとレイ!」
後ろでセラが声を荒げる。このままでは危険だと思ったのだ。
「……………」
だが騎士は動かない。ユウがあまりにも無謀で無茶な行動をしようとしているにも関わらずだ。
レイは昨日のことを思い出していた。昨日起こったありえない奇跡を。
駆除するしかなかったはずのスライム達はその場から逃げることで難を逃れた。それは結果としてユウのスライム達を助けたいという願いに沿った形である。
それがレイには、ユウがスライム達を操ったように見えた。それが命令という絶対的な行動指示という形であったかどうかはともかく、ユウの意思がなんらかの形で彼らの行動に影響を与えたのは確かだと思っている。
ユウには魔物を操る力があるのかもしれない。だが、もし、それがそれ以上の力なのだとしたら。
魔物ではなく魔族をも手懐けるような力だったとしたら。
あり得ない話ではないはずだ。勇者は世界を救う運命にある者なのだから、彼女がどんな力を持っていたとしても不思議はない。そうであるならば彼女が不自然に魔物や魔族に肩入れするのも頷ける。それらが御しうる存在であると分かっているからこそ歩み寄っていくのではないかと。
でなければこんな薄気味悪い生物に対話を試みるたりなどするだろうか、と。
レイは騎士だった。それゆえに、誰よりも人間と魔族との争いが終結し、罪のない人々の命が奪われることのない世界の到来を願っていた。
だから期待してしまった。だから動かず静観を決めた。
それが間違いだった。
鈍い音が響いた。
遅れて干し肉が地面に落ちる音。
「――ッ!」
ユウが干し肉を持っていた右手を抑えて蹲った。
「ユウッ!!」
セラが叫んだことで小鬼族の緊張が解けた。踵を返して一目散に森の中へと走り込む。レイは追うべきかと一瞬迷ったが、今はその必要も時間もないと思い留まる。
こうなることは簡単に予想できた。だがそれを知っていながら、自分の期待ゆえに放置してしまった。その罪悪感から動けないレイの代わりにセラがユウに駆け寄った。
「手、見せなさい」
セラ自身も屈みこんでユウの右手をとる。
「痛ったぁ……」
ユウの反応を見つつ軽く指を曲げたり伸ばしたりして触診する。
「――骨は大丈夫そうね。でもしばらく動かさないほうがいいわ」
幸い大きな怪我ではなかった。だが、小鬼族の粗悪な棍棒で殴られた右手は人差し指の爪が割れ、見た目に痛々しく色づいていた。
「あはは……ちょっと失敗してもうたなぁ……」
痛みに眉根を寄せながらも、ユウはそんなことを言って笑う。
その笑顔を見て、騎士は思った。異世界から召喚された勇者、やはり彼女は自分達とは根本的な何かが違うのだと。
特殊な能力もなしに、ただただ博愛精神でのみ小鬼族に近づいたというのならば、それはあまりにも異常だ。最初に野盗に遭遇した夜に魔法師が言っていた言葉が正しかったのだと今ならはっきり分かる。
――この子、自分に対して酷く無頓着なのよ。たぶん命すらも。だから怖くない。だから自分を必要としてくれる人がいるところが自分のいたい場所なんて言えるのよ――
自分の命に対してあまりに無頓着。彼女の行動は恐怖心が欠落しているとしか思えない。
「なんかこう、魔法でパパッと治したりでけへんの?」
ユウが相変わらずの緩んだ顔のまま、そんなことを言う。それに対してセラの表情と反応は険しかった。
「もし貴女が、怪我をしても魔法で治せるだろうと思ってこんな無茶をしているのなら、今のうちに言っておくわ」
いつも物憂げな表情を浮かべているセラ。だが今、彼女の表情は誰が見ても明らかなほど怒っていた。
「魔法で傷は治せない。人体に干渉する魔法は禁忌だからよ。それは生物としての形を歪める行為。怪我をしてもすぐに再生するような存在がまともな生き物って言える?行えば生き物としての形が崩れて化物に成り下がる。魔族だってそんな魔法使わないわ」
言葉の端々に滲む怒気に、ユウは困ったように無事な左手で鼻の頭を掻いた。
「あー……もしかしてセッちゃん、怒ってる……?」
「なんでそう思うの?」
「……うちが、危ないことしたから……?」
「分かってるなら――!」
無意識に振り上げた手を、セラは力なく下した。一つ溜息をつき、諭すように語り掛ける。
「今回は爪が割れるぐらいで済んだ。だけど、相手が持っていたのが刃物だったら?指がなくなってたかもしれないのよ。だから、二度とこんな真似しないで」
そしてセラはユウの左手をとって立ち上がらせた。骨に異常はなさそうとはいえ、村に帰って治療する必要がある。
騎士に向けて魔法師が一瞥をくれる。それは無言でなぜ止めなかったと責めているようだった。だがセラにも、止める役をレイに一任したという責がある。だからこそ彼女がそれを声に出すことはなかった。
誰もが言葉を発しない。重苦しい沈黙を破ったのは苦しげな呻き声だった。
横転した馬車の陰、声のする方にレイが駆けよるとそこに男が一人倒れていた。
「馬車の護衛か!」
駆け寄ってレイが男の様子を見る。何度も殴られたのであろう、腫れあがった顔面。大きな出血を見られないが、左足首が妙な方向に曲がっている。おそらく馬車が横転した時に負った怪我だろう。そのせいで小鬼族から逃げられなかったのだ。
意識のない男をレイが担ぎ上げる。
「とにかく、戻ろう。もう日が暮れる。小鬼族共は、明日自警団と協力して討伐する」
その言葉にユウが無言で抗議の視線を送る。今しがたセラに注意された手前、声には出さないが彼女がいまだに小鬼族を殺すことに反対しているのは明らかだった。
レイは逃げるように視線を逸らした。これ以上ユウの我がままに付き合うことはできない。
討伐しなければさらなる被害者が出る。そうなる前にやつらは始末しなくてはならない。例えユウに嫌われたとしても、これがこの世界の人間と魔族の在り方だ。
帰路の間、誰も言葉を発しなかった。村に着いてからも、レイは自警団と明日についての作戦会議で夜遅くまで帰らず、セラとユウは指の治療が終わってからは手短に夕食を済ませ、早々に宿の部屋に引っ込んでしまった。
明日になれば小鬼族は討伐される。そのことを思いつつ、自室の窓からユウが見上げた夜空は、星々の光を隠すように黒々とした雲が揺蕩っていた。もしかしたら明日は天気が崩れるかもしれない。
そして眠りについた彼女は、指の疼きによって目を覚ました。雨は降っていないが、まだ外は暗い。遠くの空がほんの少しだけ白み始めて夜の帳を押し上げようとしているのを見るに、夜明けまではあと少し。だが人々が活動を始めるには早い時間。
割れた爪が包帯の下でズキズキと痛む。今起きたのは偶然ではないと思った。
だからユウは、隣のベッドで寝ているセラを起こさないようにそっと宿を抜け出した。




