第二章 邂逅、そして(5/6)
デマリの農業を支える豊富な水量を湛えた湖。凪いだ湖面に岸辺に並んだ木々が映り込み、美しい対称風景を描き出す。一帯のひんやりとした空気が肺を満たすと心まで湖面のように凪いでいくような気がする。
だがそれも少し視線を動かし、耳を澄ますと別の顔を見せる。
ぴちゃん、ぴちゃん――
水辺を何かが跳ねる音。時折それなりに大きなモノが水に落ちるドボンという音も聴こえてくる。
「うわぁ……こんだけおると……ちょっと引くなぁ……」
ユウの頬がひくりと若干引き攣る。
穏やかな湖岸の風景はユウ達がやってきた方向の対面のみ、用水路が引かれている方の湖岸にはいくつもの半透明の塊がひしめいていた。
数を数えようとしてユウは止めた。十や二十ではあるまい。よく見るとまだ生まれて間もない個体なのか、少し小振りのものもいる。
「綺麗な湖ね、きっと一帯の魔力も多いんでしょう。それにつられて寄ってきたのか、あるいはここで生まれたのか。いずれにせよ水気もあるしスライムには最適な環境ね」
冷静に分析する魔法師の言葉を聞きながらユウは気合いを入れて腕まくり。
「本当にやる気なのか……?この数だぞ……?」
呆れ半分、心配半分といった割合の表情を浮かべている騎士にユウは不適に笑って見せる。
「やってみなどうなるか分からんしな」
そう言って意味があるのかないのか分からないが、両手をぷらぷらとさせて準備運動。だがふと問題に気づいたユウは、両手の指を合わせて上目遣いにレイを見上げた。
「せやレイ君……ちょっとお願いがあるんやけど……」
申訳なさそうな、あるいは媚びるような声色に特に何か感じ入るでもなく、レイがなんだと答える。
「うちが撫でとる間、他の子が邪魔してこぉへんように盾になって欲しいねん」
今はまだ距離があるためスライムがユウ達に近づいてくる気配はないが、もう少し近づいて餌やりを始めればその魔力に反応して多くのスライムが近寄ってくるだろう。
これだけの数のスライムに一斉に体当たりされれば例えユウじゃなくとも危険を伴う。下手をして顔を塞がれれば窒息しかねない。
「それは別にかまわんが……」
「ほんま?ありがとぉ」
もとよりレイの仕事は勇者の護衛だ。多少勇者が無茶をしようとも盾になるのは当然のことであるし、感謝されるほどのことでもない。
スライムを受け止めるのにたいした苦労はないが、念のためレイは背中の盾を右手に装備した。
「セッちゃんは……」
ついでユウは恐る恐るというふうに美貌の魔法師に視線を送った。
もとよりスライムを駆除するという依頼を、あくまで様子見を約束しただけではあるが受けたのはセラである。そして彼女はスライムを駆除することに肯定的だ。
ユウの行為は少なからず彼女の目的を妨害する。故にやれるだけやってみればいいとは言ってくれたものの、その顔色を窺わずにはいられなかったのだ。
「――数が多いわね。私もユウが頑張っている間は餌やりを手伝ってあげる」
まったく想定しなかった手助けの申し出にユウは一瞬目をぱちくりさせたものの、次の瞬間にはぱぁっと雲間の隙間から覗く太陽のような笑顔を顔いっぱいに浮かべた。
「ありがとぉ!やっぱセッちゃんめっちゃ優しいなぁ!」
ユウがセラに抱き着いて感謝の言葉を伝える。
されるがままのセラは相変わらずの気だるげな表情だが、その瞳の奥に少しばかりの罪悪感という感情が映っていることにユウは気付かなかった。
「ほなやるぞー!」
そしてユウは大量のスライム達への餌やりを開始したのだった。
少し近づいてスライムの方から寄ってきたところをキャッチ、少し距離をとってから地面に座り込んで撫でる。しばらく撫でてスライムが満足したら脇にどかして別の個体を捕まえに行く。
撫でている間に近づいてくる他のスライムはレイが掴んでなるべく遠くに放り投げる。数が多くなれば蹴っ飛ばして距離を離す。
ユウが魔力の注入を開始すると一定範囲内の全てのスライムが彼女に向けて移動を開始するので、レイはなかなかハードな護衛作業を行うことになった。桶一杯分の水と同じ重量の物を持ち上げて放り投げるという動作を何十回も繰り返すのだから、その様子は採石場で切り出した石を運ぶ労働者を彷彿とさせた。途中からレイは護衛作業ではなく新しい筋力トレーニングだと思って作業に従事していたほどである。
ユウが真剣な面持ちで餌やりを行う傍ら、セラも同じようにスライムを撫でる。隣のユウとは違い、つまらなさそうに無表情であったが、撫でているスライムの様子以上に隣の勇者の顔色を頻繁に伺っているようであった。
「――よし、次!」
満足げにぷるぷる震えているスライムをユウが脇に置く。これで湖に来てから三匹目。
別の個体を捕まえようとユウが立ち上がった瞬間、その小さな身体が横にふらついた。
「――おっと……」
転倒することはなかったが、その額からじんわりと汗が滲んでいた。魔力の放出は文字通り自分の中のエネルギーを外に出している行為に他ならない。手の平から放出するだけでも体力的な負荷は全力疾走している状態に近い。
「ユウ」
その様子を見てセラが声をかけた。ユウとまったく同じ量の魔力の放出を行っている彼女だが、その表情は終始変わらず汗もかいていない。慣れによる魔力の扱いの精密さもあるが、それ以上にユウとは魔力の容量がまったく違うのだ。
自分の名を呼ぶ声色に心配と、もうやめようという意思を感じてユウは無理やり口の端を持ち上げる。
「まだまだ、これからやって!むしろこっからがうちの本気やさかい」
「……そう」
足元をふらつかせながらも新たなスライムを捕獲しにいくユウをセラは止めなかった。
どのみちもう少しで限界が来ることが彼女には手にとるように分かっていたからだ。
「――ッ!」
スライムを撫でるユウの手に宿った光が細かく明滅を始めた。小さく呻いた拍子に揺れた頭から汗の雫がスライムに降りかかって、スライムはぷるぷると身を震わせた。
呼吸も荒くなってくる。ユウの限界が近くなってきたのは誰の目から見ても明らかだった。
満足させたスライムを横に置いて、また新たなスライムを捕まえに行く。
いい加減にやめさせようとしたレイをセラの無言の視線が押しとどめた。
「――うぁ!?」
スライムの体当たりの勢いを受け止めきれず、仰向けに転がったユウの腹にスライムが飛び乗る。その重量でユウが苦し気に呻いた。
「ユウッ!おい、しっかりしろ!」
もう見ていられなくなったレイが手近なスライムを蹴っ飛ばしたあと、ユウに駆け寄ってその腹に乗ったスライムを放り投げた。
そのまま小さなユウの頭の下に腕を通して上体を起こさせる。近くで見るとユウの状態はただの肉体疲労とは様子が違った。
荒い呼吸、額に滲む汗。しかし身体の体温が下がってきており、唇が紫に変色している。
「おいセラッ!どうなってる!?」
騎士はこうなることを予想していただろう魔法師の名を叫んだ。
その魔法師は抱きかかえられたユウの側に屈みこんで、体温や瞳孔を確認するとその物憂げな双眸を地面へと下げた。
「……魔力欠乏症よ。なりたての魔法師がよくなる病気、というか現象。自分の限界ギリギリまで魔力を使い過ぎて健康状態を維持できない状態。魔力は生き物に必要なエネルギーだから、それが枯渇しかければこうなるのは当然よね」
淡々と、魔法師は言った。当然という言葉通り、彼女はこうなることを随分前から予期していたのだ。
「こうなると分かっていて、なぜ止めなかった?」
憤りの籠った騎士の視線をまるで意にも介さず彼女は手を伸ばす。
キメの細かい肌の指先が自分の頬を撫でるのをユウは感じた。汗が出るのにやけに寒い。体温調節がうまくできない。血液に鉛が混ざったかのように身体が重かった。
生きていくために必要な何かが足りない、というよりも、生きるために必要な意思のようなものが身体から失われてしまったような喪失感。
「ユウ、聴こえる?聴こえるなら目を開けなさい」
すぐ近くで自分の名前を呼ぶ声が聴こえて、重い瞼を開く。いつもの無表情が少しだけ辛そうに歪んでいるのが見えた。
「安心して。命に関わるようなものじゃないから。時間が経てば楽になるわ」
その言葉を聞いて、ユウ以上にその身体を支えている騎士が安堵したのが分かった。
それが可笑しくてユウは弱々しく笑う。だが、セラがその笑顔につられて表情を緩めることはなかった。
「ユウ、貴女は文字通り自分の全てを振り絞って、スライムを助けようとしたわ。その優しさは素晴らしいものだと思う。でもね、相手がそれに応えてくれるとは限らない。ほら、見なさい」
セラに促されてユウは視線を動かす。
すると周囲のスライム達がいまだにこちらに向けて近寄ってきているのが見えた。一匹がユウに向けて跳躍したのをレイが叩き落す。地面に叩きつけられたスライムはしばし驚いたように身を震わせながらも、またユウ達に向けてゆっくりとにじり寄る。倒れる寸前まで魔力を与えていたスライムもまだもの足りないのか近づいてきている。距離が詰まればまた体当たりしてくるだろう。
彼らはユウの状態などまるで考慮しない。思考する能力があるかすら疑問なのだから当然である。ただ魔力のある方に近寄って、体当たりする。火を嫌がるなどの最低限の生物的本能はあるが、それでも生物よりも自然現象に近い存在だ。
「一見懐いたように見えたとしても、それはそう見えるだけで人間と魔物が心を通わせることはないの。だから動物と魔物というのは区別されてるの。こいつらは人間の敵なのよ。これ以上、魔物に肩入れするのはやめなさい。貴女のために……」
セラが湖に来ることを決めたのも、ユウがスライムを助けるべく行動することを止めなかったのも、全てはこの事を伝えたかったからだった。
セラはユウがスライムに対して少なくない好感を抱いていたのを危惧していた。魔物に心を許せばいつか必ず後悔すると分かっていたからこそ、スライムというもっとも安全な魔物で身をもって知ってもらうことにしたのだ。
その後悔する相手がもっと危険な魔物だった場合、差し伸べた手が食いちぎられるかもしれないのだから。
「……………」
ユウは何も言い返せなかった。自分にもっと魔力があれば、という問題ではないであろうことは容易に想像がついたからだ。そうであったなら彼らはその全てを求めてユウに寄ってくる。ただそれだけだ。そこに信頼や愛情といった感情は存在しない。セラが言いたいのはそういうことなのだ。
ここまでユウが全力を賭して疲れ果てていても、満足していないスライム達は近寄ってくることをやめないのだから。
「もう止めないわね?」
そう言ってセラは立ち上がり、スライムの群れに向けて手を伸ばした。
「ファル/エファ/ウラ/エファ/ウエル――」
呪文。体内の魔力を特定の形にするための命令符丁。それによってただの生命力に過ぎないエネルギーは万象へと至る。
「〈炎刃よ、顕現せよ〉!」
彼女の右手が払われると同時、湖岸の冷えた大気を灼熱の火炎が切り裂いた。
紅い斬撃にも見える炎が鞭のようにしなり、セラの指先からスライムの群れ、湖面までの大地を打ち据える。一瞬にして燃え上がった炎はしかし燃え広がることはなく、高熱でもってその軌跡を切り裂いた。大地に黒い焦げ目がつき、ジュッと音を立ててそこにあったモノを蒸発させた。
少しばかりの焦げ臭さ、だがそれは生き物の焼けるような匂いではない。スライムの体組織はそのほぼ全てがただの水分。蒸発はするが焦げることはない。
炎の鞭の一振りで、四、五体のスライムが文字通り消滅した。
「ああ……」
一瞬にしてこの世から消滅してしまったスライムにユウが手を伸ばす。
仕方のないことだと分かっていても、どうしても抑えきれない感情が身体を動かしたのだ。感情を理性で抑え込むにはまだユウは幼すぎた。
人の生活のためには仕方ない。だが、それでも、共存という道は本当にありえないのか。共に生きるという選択肢は本当に存在しないのか、そう考えてしまう。
例え魔物だとしても、意思を持たないのだとしても、一個の命ではないのか、と。
「もっと広範囲に薙ぎ払うように撃たないとね。危ないからユウを連れて下がってくれる?」
後ろは振り向かずに魔法師は言った。その表情はユウ達からは見えなかったが、いつもの物憂げな眼差しをしているのだろうということは明らかだった。
ユウと同じ数スライムに魔力を供給しており、さらに今魔法を一発撃ったにも関わらずその声色に疲労は一切ない。それどころか、今程度の魔法ならばあと十数発撃ったところで彼女が疲労することはないだろう。
圧倒的な魔力の容量、それをコントロールする卓越した魔法技術。レイの一の騎士団のような明確な肩書きこそないが、彼女もレイと同じく人々の命運を左右する勇者の護衛を任された超一流。戦術魔法師という範囲の中ならば五指の中に入る実力者だった。
「ユウ、どうだ。立てそうか?」
優し気な声色で尋ねられ、ユウは屈強な騎士の肉体に体重を預けながら立ち上がった。
まだ身体は重い。だが倒れた直後ほどの虚脱感はない。湖についた時、セラはこの一帯が魔力の多い、スライムにとって最適な環境だと言った。奇しくもそれは、魔力が枯渇した人間が身体を休めるのにもっとも適した場所でもあるということだった。
「……ごめんな。二人に、心配かけてもうた……」
まだ少したどたどしく、ユウは二人に謝った。
「セッちゃん……」
その名を呼ばれた時、魔法師の背中が少しだけ緊張するように強張ったのが分かった。
「セッちゃんは、やっぱ優しいなぁ……。ごめんなぁ、うちのために、憎まれ役みたいなことさせてもうて……」
ことここに至って、ユウはセラの考えを理解した。
ユウに魔物というものと人間は相容れないのだと教えるため、あえてこの無謀な行動を放置した。こうでもしないとユウが聞き分けないと分かっていたからだ。
全てはユウの今後を案じてのこと。これが優しさでなくてなんと言おう。
「――それが分かるなら、そんなになるまで無茶しないで。護る方の身にもなってよね、勇者様」
少しばかり冗談めかした言葉に、ユウはただ無言。しばし、重苦しい沈黙が満ちる。
「……さて、それじゃ悪いけど、ここにいるスライムは全て駆除するわ」
ユウとレイがゆっくりと距離をとるのを確認して、セラは再び呪文の詠唱を開始する。
まだ数は多いが、それほど時間はかかるまい。
――だがその詠唱は、予想だにしていなかった存在によって中断された。
「セッちゃん……!ごめん!待ってッ!」
ユウが叫んだ。セラもそれに気づいて、さすがに魔法を放つことを躊躇した。
そこにいたのは、淡い桃色のスライムだった。
間違いない。ユウ達が街道で出会って、初めて餌付けをしたスライムだった。
ユウに懐いたような仕草を見せ、言う事を理解しているようなそぶりすらして見せたあの個体。村の入り口で別れたその個体が湖までやってきたというのか。
まだ魔力欠乏症で息も絶え絶えなユウが、制止するレイを振り切ってその薄桃色に駆け寄った。
「間違いない……あの子や……」
近寄ったユウに、そのスライムが体当たりする様子はなかった。ユウの足元までゆっくり近づいて、その身体を摺り寄せる。
明らかに他のスライムとは挙動が違う。その魔物はユウのことを覚えていた。
「ごめんセッちゃん……」
ユウはそのスライムをかばうように抱きしめる。
「セッちゃんの言うことはよぉ分かる。でも、でもこの子だけは……お願い……」
勝手なことを言っているのは十分承知だった。だがこれだけはどうしても譲れなかった。
一緒にいたのはほんの短い時間だったとしても、ユウとこのスライムには確かな縁があった。それが一方的な愛情であったとしても、それでも縁が出来た以上他の個体と同一視はできない。
相容れないのだとしても、それでも……。
――ドクン
その感覚がなんなのか、その場にいる誰も知りえなかった。
ただユウを中心に何か視えない波のようなものが世界に広がっていったような、そんな気がした。
その中心にいたユウは、波が鼓動のように世界という身体の隅々まで浸透するのを感じた。
「――あっ」
あっけにとられていたユウの腕の間から薄桃色がぴょんと抜け出した。
「今、何か……」
不思議な感覚に困惑するセラの目の前で、さらに奇妙なことが起きようとしていた。
ぷるる――ぷるる――
薄桃色のスライムが小刻みにそして一定のタイミングで身体を震わせる。すると、周囲のスライムも同じように身体を振動させ始めたのだ。
振動の波がさざ波のように広がっていく。やがてこの湖一帯、目に見える全ての範囲のスライムが同じように身体を震わせる。
「お、おい……セラ、これはなんだ……?」
「知らないわよ……!」
明らかな異常事態。何が何やら分からないレイの問いにセラが苛立ったように答えた。少なくともセラはスライムのこのような集団での習性は聞いたことがない。
そもそもこの共鳴はいったい何を意味しているのか。情報の伝達か、はたまた他の何かか。それすらも判別できない。
共鳴はほんの僅かな時間しか発生しなかった。やがて振動がゆっくりと収まっていく。
「何が……うわっ!?」
ユウが呟いたのきっかけに、全てのスライム達がぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
周囲一帯に響き渡る奇妙な水音の大合唱。そして湖を埋め尽くしていた大量の魔物達は三々五々に移動を開始した。
脇を飛び跳ねて大移動する魔物達、呆然として固まる人間達には見向きもしない。
やがて水音が遠く離れていき、湖は本来あるべき静謐な空間を取り戻していた。用水路に流れ込む水の音が残された者達の耳をくすぐる。
「あ、あはは……なんやごっつすごいことなったなぁ……」
あまりの出来事に身体の疲労を忘れてしまったらしいユウが乾いた笑いを漏らした。
もう湖にスライムの姿はない。いや、厳密には一匹だけは残っている。あの薄桃色のスライムだけは。
スライムがユウを見つめていた。当然目などないのでただユウがそう感じているだけではあるのだが、なぜかそんな確信があった。
「……他の子達を説得してくれたんか?」
スライムは答えない。答える術を持たない。ただゆっくりと近寄って黒髪の勇者にぴとりと寄り添うのみ。
そんなスライムを優しく撫で、まだ不健康な色合いの唇でユウは笑った。
「これで、もう駆除する必要はあらへんな」
まだ横になっていないと辛いだろうというのに、そんなことを言ってにししと笑う勇者に対して、魔法師はただ肩を竦めて見せる以上の返答を持たなかった。




