6話 大天使
「メフィストフェレス様…あの、さっき言っていた別の世界って…」
「…好奇心旺盛になってきたな」
「あっ…!?す、すみません…」
「怒っているわけじゃない。まあ、そうだな…天界だ」
「て、天界…?」
「天界イグニーフォンテーヌ。ここが悪魔の住まう世界なら、そっちは天使の住まう対極の世界だ」
「天使…?白い翼の…こう、頭に輪っかの…?」
「そうだ。魔界と天界は一つの柱と考えていい。ここが柱の下の部分、あちらは上の部分だ。魔界をずっと上に昇っていくとたどり着ける」
天上の見えない赤壁に囲まれた上空を指差して、メフィストフェレス様はそう言った。
「えっ?繋がっているのですか…?」
「厳密に言えば、その間に冥界ディオヴェレッダがある。天界と魔界を繋ぐ門だ。そこを通過できなければ行くことはできない」
「冥界ディオヴェレッダ…」
「そして、その門を自由に行き来できるのは冥界の女王リリスと、奴によって通行を許された大悪魔と大天使だけだ。最も、普通の悪魔や天使では冥界に辿り着くこともできない。ここからなら上空何千万kmも昇らなければいけないからな」
上空何千万…キロ、メートル…?よくわからないが、本当にすごく高いところまで行くのだろう。何しろここからでは赤壁が霞んで見えなくなっている。その先に行くのだろうから。
私がぽかんとして上空を見上げていると、不意に目の前の空間が波打った気がした。
「!!、下がれルナ!!」
「!?」
その瞬間メフィストフェレス様が叫んだ。突然のことでよく聞き取れなかったような気がしたのだが、体は勝手に後ろに下がり、反射的にメフィストフェレス様の後ろに隠れた。
メフィストフェレス様は前に出ると何もないところからユリの形を模した赤黒い槍を召喚して、波打った空間目掛けて鋭く突いた。
──ガキィンッ!!
金属と金属が鋭くぶつかり合う音が響いたかと思えば、メフィストフェレス様の槍は、白銀の剣によって受け止められていて──、
「──相変わらず察しのいい奴め」
いつの間にか目の前には、白銀の剣を携え、足元まで隠れる純白のローブを身に纏った長い金髪の男の人が浮いていた。背中には純白の六翼と、頭の上には光の輪が浮いている。その白く聖なる姿に似つかわしくない、真っ赤な瞳が私を見た。笑みを浮かべている筈なのに、その眼は獲物を狙う蛇のように鋭くて、私は身を竦めた。
「なにやら私の話をしていたな?新しい使い魔の教育でもしていたのか、メフィスト」
「気配を隠そうともしない貴様の話などろくにしていない。何しに来た、ルシフェル」
「天界はひ…平和でな。そういえばお前の新しい使い魔はどうしてるかと心配になって来てみただけだ」
「暇人の相手をしてやる時間などない。さっさと還れ」
ルシフェルと呼ばれたその人はメフィストフェレス様の言葉にやれやれといった感じで苦笑しながら、携えていた剣を引いた。すると剣はそのまま光の粒になって消えてしまった。
白い鳥の羽に光の輪っか…もしかしてこの人は…。
「て、天使…?」
「…そうだ。こいつが今の天界の大天使、ルシフェルだ」
「だ、大天使…!」
「こいつは本当に暇人でな。こうして頻繁に邪魔をしに来る。おまけに意地が悪くてどちらが悪魔か分からんような天使だ。絶対に気を許すなよ、ルナ」
「ハハ、悪魔に悪魔呼ばわりされるとは、酷い言われようだ」
色々言われているけど…気一つ悪くした様子もなく、むしろメフィストフェレス様の反応を楽しんでいるように見える…。悪い人ではなさそうだけれど…何故だろう、赤い眼もそうだけど、底の知れない感じがして、とても怖い。思わずメフィストフェレス様の服を掴んでしまったが、それに気付いて片手を肩に回してくれた。
「そうか、ルナと名付けられたか。血の匂いと罪が蔓延る魔界には慣れたのか?」
「えっ…あ…、す、すこし…」
「ルナ、真面目に口を利く必要はない。穢れるぞ」
「えっ!」
「天使と話して祝福ありこそすれ、穢れるわけないだろう」
「貴様と話すと、だ」
メフィストフェレス様は全く気を許していない様子で、眉間に皺ができていた。雰囲気も大分トゲトゲしてきている。
「全く、少しくらい良いだろう。ケチな大悪魔だ」
「結構」
「はぁ、わかったわかった。そんなに大事なら中に入れておけ」
「………、ルナ、中に入っていろ」
「え、あ…はい…」
「大丈夫だ、流石にこいつでも城の中にまでは這入ってこれん」
本当かな…なんだかんだで這入ってきそうで怖い…。少し不安になりつつもメフィストフェレス様の言う通り、寝室に戻ってテラスの戸を閉めた。すると二人はなにか話し始めた様子で、初めは取っ組み合いにならないのかはらはらしていたのだけど、その様子もなく真剣にお話をしていたので、見ているのも失礼かと思いベッドに戻って座って待った。
「──記憶の操作は上手くいったのか?」
「…上々だ。生前の処遇が魂にまで染み付いていて、まだ少しビクついてはいるが」
大悪魔と大天使、人の魂を管理する二世界の長が、先程とは打って変わって厳威に話し始める。
「そうか…。そうなると、暫くは人間界に関連する話題は避けたほうが良いだろう」
「貴様が零すのではないかと肝が冷えたがな。──経験則か」
「まあな…。こればかりは誂うだけでは済まない。そこは弁える。使い魔に罪はない」
「…ならいい。それについては感謝してやる」
「おお、悪魔に感謝されただと!くく、針の雨でも降りそうだな」
からからと笑う大天使。それを見て大悪魔は不愉快そうな目を向けるも、ため息一つで許容する。
「──“あの子”は…、使い魔ではなかったが」
「…ガブリエルか」
ふと…懐古か憂いか、目を細めて微かに呟いたその言葉に、大悪魔が漏らしたその名を聞いて大天使は表情を曇らせた。
「…将軍軍師の席は今も空いたままだろう。まだ、未練があるのか」
「フフ…見ての通りだ」
「──そうか」
大天使はテラスの手摺に腰掛け、外に足を投げ出して赤い上空を見上げる。暫しの沈黙に、風の音だけが木霊する。
「記憶とは難儀なものだ。完全に消し去る事は誰にもできない。あの聖魔神竜でさえも」
「…創造神が記録しているから、と言われているな」
「ああ。それならば誰にも手出しできん。…致し方ないな」
「神の領域に触れようと言うのだ、俺達が完璧に操作できるはずもない、か」
「記憶とは即ちこの世を形作る全ての記録、礎…積み木を下から抜くようなものだ」
「崩れる、か…」
「ほんの少し欠けただけでもな。そうなるとその積み木とその上は、創め(はじめ)からなかった事にするしかなくなる」
「なるほどな…。慎重に行かざるを得ないわけだ」
それを聞き届けた大天使はそのままテラスから身を投げ──、バサァッ、と優美な羽音と供に舞い戻る。
「そのまま堕ちろ」
「ふはは、私が居なくて困るのはお前だぞ?」
「清々する」
「憎まれ口を。私以上の大天使など最早生まれまい」
大天使は面白おかしく笑う。先程の憂いが嘘のように。一方の大悪魔は不愉快そうな気配をだだ漏れにしていた。
「まあそういうことだ。努々忘れるな。いい暇つぶしになった」
「さっさと還れ!」
大悪魔はそう言って槍に黒い炎を纏わせると、不快な虫でも追い払うかのように大天使に向かって一文字に薙ぐ。しかし大天使はさもなんでもないようにひらりと交わすと、再び現れた波打つ空間へとくつくつ笑いながら這入って消えた。
「…フン…、暇人め」
大悪魔はまた憎まれ口を叩いて、寝室へと戻っていった。
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