薄暮
小さい頃の遥斗と私は、従者とその主でありながら対等な関係だったと思う。やんちゃ盛りの私とは対照的に、遥斗は少し気弱で、けれど言うことは言う男の子だった。従者である彼は家庭教師から逃げ出す私をよく叱り、小さな体で必死に腕を掴んで戻るよう訴えていた。従者というより小姑のようだったが、そんな遥斗が好きだった。
遥斗はよく屋敷を抜け出す私の悪癖のことも怒っていた。見張りを欺いてそっと抜け出すたびに、目敏く気づいて『ダメですって!』と私を止める。けれどそれも最初だけだ。頑固な私を止められないと悟るやいなや、最終的には『今回だけですからね。心配なのでお供いたします』と共犯者にもなってくれる。ぷりぷりと年上ぶる遥斗がおかしくて、私は何度も彼をからかっては遊んでいた。
けれどそれは唐突に終わりを告げる。ある日、いつものように屋敷を抜け出したときのこと。照りつける太陽と絶え間ない蝉の声が印象的だった日。その日も私は遥斗をからかいながら追いかけっこをしていた。夢中になっていた。遥斗の必死な顔が面白くて、可愛くて。彼にばかり集中していた私は、周囲をきちんと確認していなかった。
遠くにあった遥斗の顔が間近に迫り、それが青ざめたのは直後のこと。
『だ、め……っ』
何かを振り切るように、遥斗の小さな腕が私を突き飛ばす。事態の異常性に気づいたのはずっと後になってから。寸前までいた場所に車が突っ込んでくる。そして遥斗の非力な腕では私を遠くまで突き飛ばすに至らなかったようだ。
避けきれなかった両脚から鮮血が飛び散り、遥斗の白い頬をキャンバスのように染め上げる。力なく倒れゆく体、痛みとともに遠退く意識。私に駆け寄って見下ろす遥斗の表情は逆光で見えなかった。
次に目覚めたのはそれから2日経ってのことだ。けれどその2日で私の周りはすっかり変わってしまっていた。
幸運なことに怪我は軽症だった。しばらくリハビリが必要にはなったが、今は傷として残ってもいない。直前に遥斗が機転を利かせてくれたおかげだ。だけど私を溺愛する父はそう捉えなかった。
父は、遥斗が私の無断外出を看過したこと、それにより事故に遭わせてしまったことを理由に、私が起きるまでの2日間遥斗を折檻した。
でもそれは私の罪だ。私が勝手に抜け出し、事故に遭った。遥斗は毎度私を止めていた。それを意に介さず、遥斗を巻き込んだのは私。事故だって遥斗が突き飛ばしていなかったらどうなっていたか分からない。遥斗は最善を尽くしてくれた。それなのに私が受けるべき罰を代わりに受けてしまった。
当然、父には何度も説明した。頑固な父は当初私が遥斗を庇っているのだと聞く耳を持たなかったが、数日後にようやく『早合点だった』と遥斗に謝った。しかし2日間で彼が受けた苦痛はそう簡単に取り除けるものではない。
あれから彼はすっかり変わってしまった。空虚な眼差し、人工的な笑顔、感情のこもらない声音。あの日、私は軽症で済んだ代わりに唯一の友をなくした。残されたのは遥斗の顔をしたお人形。友の残骸。幾度その破片を貼り合わせても遥斗は戻らない。従順に後ろをつき回るその人形を私は好きになれず、ついには皮肉を込めて下僕と呼ぶことにした。彼が遥斗として生き返ることを信じて。
だけど、その苦肉の策も彼には通じなかったようだ。私のしたことは何の意味もなさなかった。遥斗は、戻ってこない。彼がそれを望まない。
ぽたぽたと、自分の意思とは関係なしに滴が零れ落ちる。熱く流れゆくそれを拭いもせずぼうっと眺めていたら、不意に柔らかなものが頬に押し当てられた。長らく忘れていた、優しい感触。
「お迎えが遅くなってしまい申し訳ございません、お嬢様。……どうなさいましたか」
ハンカチで丁寧に涙を拭いながら、あの頃よりずっと背の高くなった彼が私を見下ろす。
日はいつの間にか暮れていた。赤は濃紺に塗り替えられ、夜の気配が立ち込める。女子生徒もいつの間にかいなくなっていた。
「はると……」
見上げても、滲んだ視界では彼の顔色など窺えない。柔らかな口調と優しい手つきは遥斗を想起させ、このまま身を委ねてしまいたくなる。
だけど私は知っている。あの日まで愛していた遥斗はもうどこにもいない。
「なんでも、ないの……なんでも」
私の気持ちは何一つ伝わらない。今もきっと、彼は虚ろな眼で私を見つめているのだろう。澄んだ瞳はもう見られない。でも、それは私が蒔いた種だ。
私が彼を変えてしまった。友としての彼なら私の意図を汲んでくれると甘えて、自分の言葉で伝えることを諦めていた。私の横暴な言動は彼の反発心を煽るどころか、こんな現状を受け入れさせてしまった。
私が屋敷を抜け出さなければ。遥斗の忠告を聞いていれば。車に轢かれなければ。もっと早くに目覚めていれば。どれだけ後悔しても時は決して戻らない。
「もう、帰りましょう」
「……お嬢様がそうおっしゃるなら」
夜の帳が下りる。すべてが黒で塗りつぶされる。薄まる影を踏みつけて、私は昇降口へと足を運ぶ。背後で鳴る控えめな足音を聞きながら、またしても目頭が熱くなった。
あの日焦がれた友は死んだ。私が、殺した。もう二度と帰ってこない。