黄昏
図書委員の仕事を終えたころには廊下が赤く染まっていた。自分のものとは思えない細長い影を見下ろしていると、逢魔が時だなんて先人はうまく言ったものだと思わせられる。科学に満ちた現代においてもこの時間が不気味であることに変わりはない。
日が沈むにつれて赤が深まっていく。夕焼けは嫌いだ。血のような赤はあの日彼から光を奪った。澄んだ空と輝く太陽はあの赤をより鮮やかに見せただろう。
今日の彼は定位置で待ってはいなかった。いつもなら終了時間を見越して2人分の荷物を持って佇んでいる。しかし今日は図書室に人が来ず、司書から早めの上がりを許された。彼に連絡を入れてその場で待つのもいいが、たまには私が迎えに行くのも悪くない。あの貼りつけた笑顔を驚愕に変えてやるのはきっと面白い。
運動部の掛け声を耳に入れながら人のいない廊下を歩く。目当ての教室が近づいてくる。貴重な一人の時間がカウントダウンを告げる。知らず、足取りがゆっくりになっていく。私はまだ一人でいたいのだろうか。永遠のような夕焼けが影法師を色濃く染める。赤い、影。
「だから、皇さんに従う必要なんてないの!」
「……っ!?」
教室まであと少しというところで、突如耳に入った声に足を止めた。声の主に覚えはないが、『皇さん』とは私のことで間違いないだろう。この学校でそんな苗字をしているのは私だけだ。
噂話の類いなら慣れている。表立ってされることはないが、私は何もせずとも家のことで目立ってしまう。良い話も悪い話も同じくらい聞いてきた。それが今回は後者だっただけ、今さら気に病むことではない。
しかし、噂話をしているところへ本人が現れるのは双方気まずい。ここは面倒だが一度出直すことに――。
「遥斗くんには遥斗くんの人生があるの。いくら従者とお嬢様だからってあんな扱い許されないよ!」
「許されないも何も、僕はお嬢様のものです」
――遥斗。
その名を聞いた瞬間、電流が走ったような衝撃を感じた。引き返そうとした足が自然と止まる。きゅっ、と小さく上履きが擦れたが聞こえてはいないだろう。
どっどっ、と鼓動が速まる。どうにか落ち着けようと手を当てるが、治まらないどころか冷や汗まで流れ出ている。こんな些細なことで。たかが下僕のことで。
やっぱり、憎い男だ。噂なんてどうでもよかったのに、今はこんなにも気になって仕方ない。
情けなくも私は踵を返すことなく、その場に立ち尽くしていた。盗み聞きなんていけない。でも聞きたい。聞かなくてはならない。これは私と彼とのことだ。
戸のすぐ外に人がいることにも気づかず、教室内の会話は続いていく。
「皇さんのものだなんて、自分でそんな言い方しないでよ! 遥斗くんはれっきとした人間なんだよ……っ」
この女子生徒がどんなつもりで話をしているのかは知らないが、その意見には大いに賛同する。そう、その通り。彼は人間だ。れっきとした人間。人間、だった。
「それなのに皇さんは遥斗くんをいつも下僕下僕って馬鹿にして……いくらお嬢様でも許されないよ! 遥斗くんは従者であって皇さんの下僕じゃない!」
痛いほどの正論。彼は下僕じゃない、従者だ。今さら言われるまでもない。彼には人としての権利がある。拒否権だってある。
でも、彼は一向に反抗しない。何度蔑んでも、冷やかしても、いつも曖昧に微笑むだけ。だからそんな彼の本音が聞きたくて、もう一度聞くために、私は。
「縛られる必要なんてないよ、遥斗くん。嫌なら嫌って言った方が――」
「嫌だなんて、僕は一度として感じたことがありません」
それまでずっと黙っていた彼が、遮るようにして言葉を紡いだ。
……嫌だと感じたことがない、ですって?
彼から拒否の言葉を聞くために、私はわがままなお嬢様になって、嫌なことをたくさんさせて、下僕だと不名誉な呼び名をつけて、最低な嫌味や悪口も吐いた。
それが、嫌じゃない? もしそうなら、私は……。
「遥斗くん……?」
「お嬢様の望みは僕の望み。お嬢様が僕を下僕だと呼ぶなら、それが僕のあるべき姿です。お嬢様にならたとえ死を命じられようとも喜んでお受けします」
何を、言っているの。
彼ははき違えている。私は一度だって彼を下僕に望んだことなどない。私の望みはそんなものじゃない。
「凪沙様は僕のすべてです。凪沙様のお傍にいるためなら、僕は何だってする」
そんな忠誠心はいらない。私はあなたを物言わぬ人形にしたいわけじゃない。
むしろ逆だ、嫌だと言ってほしい。自分は下僕ではないと、こんなことはしたくないのだと私にぶつけてほしい。そうすれば、私は今までの無礼を詫びて対等な人間として扱うのに。それなのに。
「ですから、他人であるあなたにそこまで言われる筋合いはございません。気を使っているのなら、僕にそれは必要ないとだけ申し上げます」
どうしてそう受け入れるの、抵抗しないの。
冷めた物言いに心の底まで冷えていく。
私が欲しいのは今の彼のような操り人形じゃない。遥斗という一人の人間、あの日までの大切な友だ。私のやることなすことを無批判に是とするのではない、一緒に考えて、時には諌めてくれる存在。
一条遥斗。私の唯一の親友……だった人。