明昼
「お弁当をお持ちいたしました。お昼をご一緒しましょう、お嬢様」
「あ……そうね、屋上に行きましょう」
「はい、お嬢様」
ありがとう、と零れそうになった言葉を押し殺し、いつものようにぶっきらぼうに返す。動揺を、悟られてはならない。
努めて平静を保ったままそっと窺えば、彼はなんでもないことのように微笑んで半歩後ろを歩いていた。やはりあの大嫌いな、虚ろな目で。
私、皇凪沙には一人の下僕がいる。皇家に代々仕える一条家の息子、遥斗だ。同い年の彼は正式には私の従者に当たり、下僕などと呼ばれる存在ではない。彼をそう呼んでいるのは私だけ。そう見えているのも、きっと。
「日が照っていますね。日陰に移りましょうか」
「いい。今日は光を浴びたい気分なの」
「かしこまりました」
屋上に着くなり、空を見上げながら彼は提案した。彼は日を嫌っている。私はそれをよく知りながらはねつけたのに、嫌な顔一つせずレジャーシートを敷き始めた。てきぱきと、意思のない人形のように。
慣れた手つきで準備する彼を、私は手伝おうともせずにただ眺める。『お嬢様』だからなのではない、ただの嫌がらせだ。
型通りの笑顔を浮かべて仕事をこなす彼は、従者としては非常に優秀だ。よく気が利くし、主の言うことは決して拒まない。至れり尽くせり、従者として申し分ない働きぶりだ。彼は常に最大級の奉仕を私にしてくれる。そこに難癖をつけるのは普通であれば考えられない。おまけに彼は私以外に対しても控えめで紳士的な人気者だ。嫌うなんてきっと、どうかしてる。
でも誰が何と言おうと私は彼が苦手だ。憎くて、時折苦々しい気持ちになる。彼を下僕と貶めるのは、その嫌悪感の表れでもある。
「お待たせいたしました。本日のお昼は私がお作りしたオムライスでございます。お嬢様は昔から庶民的なものがお好きでしたね」
「お前が? いつものシェフは?」
「私が無理を申しました。お嫌でしたら私のものと交換いたしますが」
「別に、いいわ」
レジャーシートに腰を下ろし、彼が用意したお弁当に手をつける。きちんと保温がされたオムライスは玉子がとろとろで、見た目からしてすでに美味しそうだ。日に当たってぷるぷると輝いているそれは、味も特上であることを私は知っている。下僕のくせに料理まで得意なんて生意気だと言いたいところだが、彼は昔から手先が器用だった。私と違って天才肌で、交友関係だって広い。……そう、私と違って。
「いただきます」
「はい、美味しく召し上がってくださいませ」
にこにこと両目を細める下僕に返事はしない。
こんな彼と2人悲しく屋上へ避難するだけあって私に友人はいない。少ないのではない、いない。ゼロだ。以前は多少なりともいたが、中学に上がってからは避けられるようになった。男女問わず、昨日まで仲良かった友人が急によそよそしくなるのだ。原因があるとしたら私だろうけれど、彼らに嫌われるような言動をしたつもりはない。けれどそれは何度も繰り返され、ついに半年前、今までで一番仲良くできた友人からメールで一方的に絶交を宣言された。理由さえ告げられず、彼女はその後転校していった。
さすがにショックが大きく、日々泣いていた私を下僕はそれはそれは手厚く慰めてくれた。だけど何の感情も灯っていない目をした下僕に、言葉ばかりのエールを送られて傷が塞がるはずもない。私にないものすべてを持っている彼に私の気持ちは理解できない。表面上の言葉は虚しいだけだ。今の彼では私が本当に求めているものなど読み取れやしないだろう。
半年前の出来事だ。たった半年。まだ、それだけしか経っていない。以前であればここにはもう1人いたのに、今は2人しかおらず、それが当たり前となりつつある。あれ以降、私は友情を築くことを諦めた。良くも悪くも、絶えず私の傍にいてくれるのはこの下僕だけだ。
もっとも、その彼のせいで初夏の爽やかな空気すら私には重く感じられるのだけれど。
「そのオムライス、お口に合いませんか」
「え?」
黙々と食べ物を口に運んでいると、とびっきり平坦な声が真正面から届いた。お弁当箱から顔を上げれば、珍しく無表情の彼が口を真一文字にして私を見つめていた。
「表情が、沈んでいらっしゃったので」
「……ご飯は美味しいわよ」
「では何か心配事が?」
「お前には関係ないわ」
いいえ、むしろ大いに関係する。私はこの下僕のことで悩んでいるのだ。だけどそんなことは言ってやらない。
びしびしと鋭い視線を顔中に感じながら残りのご飯をかき込む。人前では絶対にできないことだが、今この場にいるのはうっとうしい下僕だけだ。彼は今さらこんなことに目くじらを立てない。……立ててくれない。
ごちそうさま、とお弁当箱を閉めて返すと、彼はいまだまっすぐに私を見据えていた。それから、「お粗末さまでした」と小さく返事をする。その口元は一見綺麗な笑みを作っているが、よく整えられた艶やかな黒髪から覗く眼はどんよりと昏い。顔の上下半分でまったく違う人間にすら思える。でもそれも、彼ならばいつものこと。
「次は移動教室よね。さっさと戻るわよ」
「はい、お嬢様」
唯々諾々と私に従うお人形。私の下僕。
その空虚な笑みに私が気づいていないとでも思っているのか、気づかれても構わないと考えているのか。あの日から私は彼が何を思い、何を考えているのかまったく分からなくなった。ただ理解しているのは、あの日まで人間だった彼が今や人形へと成り下がったということ。それだけだ。
あれから10年近く経った今でも、私は彼を――遥斗を取り戻せないでいる。