第4話:雨
霧はますます濃くなっていて、朔夜の姿を探すのに一苦労だった。
加えて彼女は足が速いのだ。
ここまで来るのに随分走ったから、下手するとさっき居た場所にまで戻れるかどうかも怪しい。
それでも、ようやく彼女の姿を俺はとらえた。
彼女は俺には気付いていないようで、なんだか妙な動きをしていた。
(?)
「さ……」
走りよって、声を掛けようとしたら、彼女の身体が後ろにのけぞった。
後ろは山の斜面だ。
(まずい)
俺はとっさに腕を伸ばして、彼女の手を掴んだ。
が、それだけではもう引き上げられるようなタイミングではなかった。
俺はとっさに彼女の身体を引き寄せて、受身の体勢を作る。
途端、ぐるぐると世界が回った。
目まぐるしい視界の変化に気を取られて、身体の痛みを感じる暇さえない。
斜面が落ち葉の絨毯で覆われていたお陰だろうか。
途中に大きな岩があったわけでもなく、障害物もなかったため随分と転がる羽目になったが、大した怪我もせずに何とか身体は止まった。
一息つく。さっきまで呼吸をしていたのかどうかも怪しい。
俺はそっと腕を緩めて
「朔夜、怪我ないか」
倒れたまま、彼女に尋ねた。
すると彼女は
「ない。大丈夫。……英輔こそ、怪我してる」
半分泣きかけの顔で、そう言った。
そう言われればなんとなくこめかみの辺りが疼くが、そんな大した怪我ではなさそうだ。
それより
「お前が怪我してなくてよかったよ」
そっちのほうが大事だ。
すると朔夜はまた瞳に涙を溜めた。
「英輔の馬鹿っ……さっきまで怒ってたくせに……」
「……別に怒ってなんかないよ」
「……こんなとこ来るんじゃなかったって思うでしょ?」
「思ってないし、思わない」
俺はゆっくり瞬きをしてから、覚悟を決める。
彼女に、謝らないといけない。
「……ごめんな、さっきは言いすぎた。俺、ほんとは剣なんてどうでもよかったんだよ」
俺がそう言うと、朔夜は驚いたように目を丸くした。
「……え?」
「俺は、お前と、『遊びに』ここに来たんだ。……これでも楽しみにしてたんだぞ」
俺が照れを隠しつつぼそりと呟くと、朔夜はぼたぼたと涙をこぼし始めた。
(あぁ!? ちょ、っと……)
泣かせるつもりじゃなかったのに、と俺は焦る。すると
「わ、たし……」
朔夜はしゃくり上げながらこう言った。
「あのねっ……ほんとはっ、英輔に逢いに来たの……っ」
途端、胸がどうしようもなく疼いた。
「逢いたかったんだけど……英輔、メールもくれないしっ……機会がなかったから……っ……だから……」
俺は左手を伸ばして、彼女の頭に回した。
そしてそのまま、抱き寄せる。
それから素直に、こう言った。
「『逢いたい』って言ってくれれば、すぐに逢いに行ったのに」
すると朔夜は
「…………ほんと?」
と、子供みたいに尋ねてきた。
「ほんと」
俺がそう返すと
「英輔は? ……逢いたかった?」
朔夜はそう訊いてきた。
まず普段なら素直に答えられない問いだっただろうが、今のこの状況なら答えられた。
「……ああ」
それから俺達は晴れそうにない霧の中を、手探りな感じで歩き始めた。
「……お前こそメールよこさないから色々心配してたんだぞ」
俺がそう言うと
「……だって鷹の方の友達がさ、『女性から殿方に文を送るなんてはしたないわ』なんて言うから……でも英輔メールくれないし」
と、朔夜は拗ねた顔をした。
(……どんなお嬢さんだよ)
俺が呆れつつ
「男からメールするほうが恥ずかしいんだよ」
と言うと朔夜は非難するように
「なんでー? 中学のとき毎日50通くらいメール送ってきた男子いるよ!?」
と言った。
(毎日50通だ!?)
「待て、それはストーカーだ」
俺が言うと
「え? そうなの?」
朔夜はきょとんとした。
(自覚なかったのかよ)
俺は少々彼女の価値観を心配しつつも少しその男のことが気になった。
「そいつ、どうなったんだよ」
「たまたま高志に言ったらその日のうちに止まったよ。その後転校してねー」
なるほど。あのお父さんなら色んな手で攻めたのだろう。
(……お父さん、ナイス)
こういうときは頼りになる人だと感心した。
そうこうしていると、ぽつり、と頬に水滴が当たった。
「……雨か?」
空を見上げると、朝から機嫌の悪そうだった空がついに癇癪を起こしていた。
「雨!?」
すると急に朔夜が慌てだした。
「どうした?」
俺が尋ねると
「緋衣、雨駄目なんだよ! 全身濡れたら死んじゃうって言ってたもん!」
朔夜は切羽詰った顔で訴えた。
「危なかったら刀の中に戻るんじゃないのか?」
「刀がある程度近くにないと戻れないんだってば!!」
朔夜はそう言って右手に持っていた刀を示した。
「早く戻らないと!!」
そう言って駆け出そうとした朔夜を俺は慌てて止めた。
「おい、無鉄砲に走るな!! また落ちるぞ!!」
そう言いつつも、俺も鼠女のことが心配だった。
しかしふと気がついた。
「あのオカマ男が一緒ならまだなんとかなるんじゃないのか?」
俺がそう尋ねると、朔夜は微妙な顔をした。
……まあ、分からないこともない。
あの2人は相性最悪だ。協力関係を築けるのかどうかは少々どころかかなり怪しい。
「と、とりあえずあんまり焦るな、行くぞ」
俺は朔夜の手を引っ張って歩き出した。
私は適当な岩の上に腰をすえて、腕を組んで座っていた。
とりあえず、最悪の気分だった。
(どうして私があの無駄に鈍いガキの後押しをしなきゃいけないのよ! あーもう、嫌になるわ)
加えて。
「ちょっと緋衣、アナタも手伝いなさいよ〜。こんな柔な男に土木作業任せきりにさせる気?」
……どうしてこんな奴と2人きりになってしまったのか。
「うるさいわね! 前から思ってたけどアンタ年功序列ってのが分かってないのよ! いい加減年上を立てなさい、アホ!」
私がそう言うと
「今時年功序列なんて古ッ! それにたかだか200年の差でしょー? そんなのカウントに入らないわー」
と、火砕は反論してきた。
……つくづく口の減らない男だと思う。
そんなわけで、私はいつもむきになって反論する。
喧嘩は終わらない。
……そういえば以前、誰かに言われたことがある。
『喧嘩するほど仲がいい』とか。
しかしこいつと仲良くなることなんてまずありえない。
男と女が仲良くなる先は、本当は1本道なのだ。
私はその道を、とうの昔に諦めた。
だから、男となんて仲良くならない。
……だから、たまに。
『もしこいつが女だったら、あるいは永遠の好敵手になれたかもしれない』
なんて、思うときがあるのだ。
(……って、何考えてんだろ)
私はそんな馬鹿な考えを振り払うように首を振る。
そうこうしていると、嫌な臭いが鼻をついた。
湿った、土の臭いだ。
敏感にそれを察知したはいいが、身体が恐怖で動かなくなっていた。
目の触れるところに、帰る場所がないのだ。
(まずい……)
背筋に悪寒を感じたのと、手に小さな水滴が当たったのはほぼ同時だった。
まるで肌を溶かす酸。水滴は針のように肌を刺した。
「し、死ぬーー!!」
私は慌てて辺りを見回して雨を凌げる場所を探したが、皮肉にもこの辺りは土の壁が続いているだけだった。
すると火砕が
「緋衣、鼠の姿になんなさい! 省エネのほう!」
と、言ってきた。
「は!?」
「だから! ここに入ればちょっとぐらいは凌げるでしょうが!! 小屋までワタシが戻るわ!」
そう言ってあいつは自分の懐の辺りを手で示した。
(…………嘘)
「絶対イヤーーーー!!」
私がぶんぶんと首を振ると
「んなこと言ってる場合じゃないでしょ!! 色変わってきてるわよ、アナタ!!」
あいつはそう指摘した。
見ると、水滴をかぶった箇所から白い髪が紅く変化し始めていた。
火鼠は通常、炎の中に入ると紅くなる。
だが、私の場合違うのだ。
この身を焦がせるのは煉獄の炎のみ。
――即ち、死する時にだけ、紅くなる。
このままいくと確実に死ぬだろう。
「早くなさい!!」
火砕が切羽詰った声で催促する。
それに促されて私は無意識のうちに変化の力を使おうとしていた。
が。
(――これじゃ、変わらない。変わってない)
寸でのところで、ちっぽけなプライドがどうしても邪魔をした。
「やっぱイヤ!!」
私が叫ぶと、火砕は痺れを切らしたようにこちらの肩を掴もうとした。私は反射的にその手を振り払う。
「アンタの懐に入るくらいなら死んだほうがマシよ!!」
私がそう叫んだ瞬間。
雨音を掻き消すような、乾いた音が辺りに響いた。
「……っ」
……頬が、痛い。
あいつにぶたれたという事実に、私は驚きを隠せなかった。
前を向くと、そこには妙に必死な、男の顔があった。
「君が死んだら憐が泣くぞ」
赤い眼は静かに怒っていた。
こいつのこんな顔は、見たことがない。
どうやら本気で怒らせてしまったらしい。
……嘘よ。
死んだほうがマシなんて、そんなこと思ってない。
そんな勇気があるのなら、もうとっくの昔に死んでるわ。
300年前のあの時に。
……嫌い。嫌いよ。
本気で言ったわけじゃない。
それぐらい分かって欲しい。
これだから男は女の気持ちなんて分かってない。
だから嫌い。
男は嫌い。
…………違う。
違う。違う。
ほんとは分かってるの。
私が本当に嫌いなのは――……
気が付けば視界がぼやけていた。
目頭が熱い。
まさかこのタイミングで泣くなんて、我ながら有り得ない。
すると火砕は少々困惑しているようだった。
なんとなく間抜けだ。あれだけ気迫に満ちた顔をしていたのに、私が涙を見せただけでこれだ。
しかしそれを見て、心なしか私の気分は落ち着いた。
私は一瞬で姿を変えて、これ見よがしに思い切り奴の胸に体当たりしてやった。
「ぅ」
火砕の微かな呻き声を聞きつつ、私は奴のポンチョの間にするりと身を隠した。
「さっさと小屋まで戻りなさい、馬鹿」
私がそう言うと
「それが人に物を頼む態度かってのよ」
そう悪態づきつつも、火砕は跳躍を始めたようだった。




