異文化理解は前途多難
何もかも私には必要ない。
ぐるりと取り囲まれた偽りの箱庭の中、息を吐く。普通に生きていればお目に掛かれないような豪華な調度品の数々。まさか天蓋付きベッドで睡眠を取ることになろうとは夢にも思わなかった。手触りの良いシーツにふわふわの枕。クローゼットを開ければテレビの中でしか見たことのないような煌びやかなドレス。面格子の付けられた窓から見える庭は日本庭園のわびさびと程遠い。
──帰りたい。
山ほど作られた豪勢な食事なんて必要ない。マナーに気を張り詰めなければならないなんて息が詰まる。薄れゆく記憶の中にあるコンビニ弁当の味が酷く懐かしかった。与えられるずっしりとした装飾品の品々も私にはその価値が分からない。綺麗だなとは思うけれど名だたる女性向けブランドのバッグの方が良い。
「かえりたい、なあ」
ソファーの背に凭れ力なく投げ出した足につられずるずると体が床へ落ちていくのを抗わないまま言葉を漏らす。
「聖女様、」
私の言葉に専属護衛騎士(監視役)である男が諫めるような声音で肩書きを呼んだ。全く、聖女様だなんて笑ってしまう。そんな仰々しい肩書き、私に似つかわしくない。私は、ただ普通に生活していたアルバイターだった。
首をぐっと上げ男の佇む扉の横へ視線をやる。端正なかんばせを持つ男は艶やかな黄檗色の髪にきりりと持ち上がった濃緋の炯眼、すらりと通った鼻筋に形の良い分厚い口唇が彩る美丈夫。簡潔に言うと物凄く顔の整ったイケメン。
「私は、自分のことを聖女だなんて思ったことはありませんよ。普通に名前で呼んでもらえませんか?」
「……シホ様」
「私の方が年下なんですから様付けもいりませんよ?」
「…………シホ」
たっぷりと時間が掛かったがまあ及第点だろう。あとこのやり取りが何回続くのだろうかと思うと頭が痛くなる。職務に忠実なのは褒められることだが、それはあまりにも寂しすぎるじゃないか。この国で味方と呼べる人は一人もおらず四面楚歌。話し掛けても皆、仰々しい態度で一歩も二歩も下がった言葉遣いしかしてくれない。私がこの国で聖女とやらに認定されているのだから仕方のないことかもしれないが元は二十を漸く越えた、ただの小娘である。そんな小娘に向かって皆こうべを垂れるのが末恐ろしかった。
異界より迷い込んだ女性はその類い希なる偉大な力を持ってその国を襲う邪なる気を祓い繁栄を齎す云々という話はこの国にある古の伝承。その伝承のお陰で王宮に迷い込んでしまった私は一命を取り留めることが出来たのだが、その伝承のお陰で某姉妹もおっかなびっくりな身に余るほどの待遇を受けている。
「……シホ。祖国を思う気持ちはお察しますがいい加減諦めませんか」
「嫌です。何度も言っていますが私にそのような力はありませんし私の居場所はこの世界ではありません」
睨み合いの押し問答が続く。この会話も一度や二度のものではなかった。はあ、と呆れたような溜め息を男が吐くのを聞いて、溜め息をつきたいのはこっちの方だとじろりと目を細める。
「一体何が不満だ? お前も感じている通り、その身に余る待遇を受けているだろう。何が物足りない」
出た、この男の本性。先程までの口調と打って変わり高圧的な態度で物言う相手に凭れていたソファーから身を離し単語だけで反論した。
「全部」
「強欲な女だ」
間髪入れず返ってきた言葉にむっと表情を歪める。いるべき場所に戻りたいと思うことの何が悪いのか。私は息苦しい監禁生活から逃れ、ここの人達はこんな小娘に気を使わなくて良いし、やれドレスだのやれ機嫌取りの装飾品だのといったお金も掛からない。まさにウィンウィンな関係。双方共に利害が一致している、これは早急に私を元の世界へ戻す手立てを考えるべきだ。
「おめでたい頭だな」
なんだととぴくりと眉を動かす。おめでたいのはどっちだ、さして顔が整っているわけでもない、グラマラスな体型をしているわけでもない普通の異国の女に皆がこれほど金を注ぎ込もうとする理由が分からなかった。まさか、古の伝承とやらの邪なる気を祓い繁栄を云々の一文を本気で信じているのだろうか。科学(私達)からしてみれば失笑ものである。
邪なる気なんて科学から見てすればただの伝染病、繁栄を齎す云々についてはただの偶然なんじゃない?
「この世界からじゃない、異世界から来た人間は貴重だ。この世界とは違う文化、知識、言語、そして血。貴重な情報源をやすやすと逃すはずがないだろう」
ひっ! 飼い殺される!
思わず両腕で己の肩を抱きかかえソファーの上で小さく縮こまる。この世界にはない異世界の文化や情報は確かに咽喉から手が出るくらい欲しいものだろう。ここの世界より科学レベルは上だ。蛇口を捻れば水が出るしボタン一つで火が灯る、電気もつく。電波が通じているから遠く離れた場所にいる人と顔を見ながら話も出来る。電車も新幹線もある。
井戸から水を汲み上げ、火を灯すときはマッチを使い蓄電システムなんてものはない。遠く離れた場所にいる人との連絡手段もない。移動手段は専ら徒歩か馬車。現代社会で生きてきた私にこのレベルの文明に耐えられるはずがない。不便極まりなさすぎて逆に笑えてくる。都会人にサバイバルは無理だということだ。待てよ、それでいくと私は王宮を追い出されたら全く生活出来ないじゃないか。多分三日で死ぬ。
さあと青ざめた私に男が咽喉を鳴らして笑う。何故この男はこんなに楽しそうなんだ、あくどい笑みに口元が引きつった。目線の先にいる男は黙って佇んでいればクールな雰囲気を醸し出すイケメン、少し会話すれば礼儀正しい好青年、本性を晒け出せば高圧的な態度のイケメン。キャラ設定に欲張りすぎだろう、一つに絞ってくれ。
「たっ確かに私にはこの世界にはない文明を数多く知っています! でも“知っている”だけであってそれが何の物質で出来ているのか、どういった仕組みで動くのかはさっぱり分からないです!」
必死に声を張り上げる。これは事実だ。蛇口を捻れば水が出るのは当たり前すぎていて今更その仕組みを細かく知ろうと思う人はまあいないだろう。ぼんやりと水道管が繋がっているのは想像出来るが蛇口の中の構造、水圧の設定、水道管の配置、大元の水道施設……枚挙に暇がない。それにこの世界に元の世界と同じ物質があるのか。人工物である合成樹脂系は怪しい。
知識があってもそれを再現出来なければ意味は為さないのに。
「お前の知識に利用価値があるかどうか、それを決めるのはお前ではない」
王宮だと続いた言葉にくらりと眩暈がした。
こんな見知らぬ世界で、有益な情報を搾り取るだけ搾り取られるというのか。異世界から来た人間は貴重、それは分かる気がするし理にも適っている。私の世界だって突然宇宙人が無防備で彷徨っていたらとっ捕まえて人体実験しているだろう。
(……嫌な想像しちゃった)
自分で想像しておいて顔を顰める。この世界の科学レベルが私の世界より発展していなくて良かった。同レベルであれば私は今頃簡素なベッドのみが置かれた無機質な病室の中、脳に電極をブッ刺されひっくり返った蛙のように四肢を震わせていたに違いない。いや、寧ろ科学レベルが劣っているからこそ人体実験は容赦ないのでは?
その昔、魔女かどうかを判別する為火刑を行っていたのを思い出した。魔女でないなら火傷しない、だったか。熱湯の中に手を突っ込ませ正しい者は火傷せず、罪ある者は大火傷を負うとされる神明裁判と同じだ。
──私、死ぬんじゃないかな。
今でこそ聖女様と讃えられ祀られているが、それも私がこの世界に来てまだ三日しか経っていないからだ。この世界に長居すれば長居するほど、伝承にある偉大な力やら邪なる気を祓うやら齎される繁栄云々の記載矛盾が生じてくる。異世界からやって来たはずの聖女様なのに何故力が行使されないんだ、この世界に巣食う魔の気が祓われないんだ、繁栄が齎されるのではなかったのかってね。
そりゃあ私が何の力も持たない(当たり前だが)からなのだが、ここの人達は本気で私に摩訶不思議な力があると信じている。
真相が知られたとき、私をどう扱うのか。想像したくなかった。
「かっ、帰る……!」
帰ろう。そうだ、私に何の力もないと知られる前に帰れば良い! 長居は無用、長居すればするだけ私の身に危険が迫る。
青白い形相で身を守るように小さくうち震える私に帰さないと台詞だけ聞けば胸もときめくであろう言葉を言われた。全くもって嬉しくない。
「言っただろう、やすやすと逃すはずがないと」
それは正しく、死刑宣告だった。