普通とは何か。
戯言です。
時々思うことがある。普通とは何なのか。何を基準にして普通を名乗るのか……。よくある普通の考え方としてマジョリティとマイノリティの対比がある。マジョリティが普通でマイノリティは普通とは少し違うといった風な考え方である。例えばここに考え方Aと考え方Bを用意する。そしてこの二つの考え方の内、一方を確実に選ばなければならないものとする。これを3人以上の人間で行う。今回は確実に多寡が現れるように5人で行う事にする。さて……その結果、2人がA、3人がBを選んだ。ここで対立が生じる。Aの考え方を正しいとする者。Bを正しいとする者……。果たしてどちらが正しいと言えるのか?私の見地からすると、正解は『どちらも正しくない。』である。この世の全てに正しいも、正しくないも無いのである。話を無理やり戻そう。つまり私が言いたいこと……それは『普通とは無である。』という事である。普通なんてものはそもそもこの世に存在しない。人間によって勝手に作り出された概念である。先ほどの言葉をこう言い換える事も可能だ。『概念とは無である。』概念を無であるとするならば時間すらも、数字すらも無であることになってしまう訳だが、それはそれで良いのである。時間なんてものは物事の移り変わりに形を与える為に産まれた概念であるし、数字なんてものも、物事のあらゆる確率を視覚化する為に作られた道具に過ぎない。そう言えば人は虫を恐れる。動物を恐れる。何故だろうか?それは思想的な概念を持っていないからである。野生動物の世界では善悪もない。食うか食われるかという弱肉強食が存在するのみである。だから人間は自分以外の他の種族を恐れる。彼らに対しては正しいも、正しくないも通用しないからである。本来、人間も彼らと同じはずなのである。人間の考え方に正しいも正しくないも無いし、普通も特異も無いのである。それだのに現代を生きる人間共は形式的な事にばかり凝り固まって本質を見抜く努力をしない。現象にのみ生きている。これは由々しき事なのである。いいや、由々しき事なんて存在しないのである。物事は流るるままに流れ、そして行き着くべき所へ自然と行き着く。その結果人類が滅びようとも、地球が滅びようともそれは些細な事なのである。人類が滅びたら何か変わるのか……。地球が滅びれば何か変わってしまうのか?何も変わることなんてない。それは人が転んで膝を擦りむくのと同じ、人間の作り出した所の時間という概念によって解決される様な些細な出来事に過ぎない。人は『普通』とか『正しい』とか『善悪』とかそんな物事に囚われて自縄自縛になっているだけなのである。人を殺したって良いし、泥棒を働いたって良いのだ。多くの犯罪者は自分の中に存在する欲望というベクトルに沿って運動しただけなのだ。それは正しくもないし、正しくなくもない……起こるべくして起こった出来事なのである。自分が幸せになろうが不幸になろうがそれは運命であり事実である。その結果、自らの命を落とす事になろうともそれは自らのなすべき事をなそうとした先に存在する事象なのだ。もっと人間は自分らしくあるべきなのだ。ストレスなんか無いのだ。生きているだけなのだ。幸せも不幸も死ねば感じないのだ。答えなどないのだ。やりたい事をやれば良いのだ。夢を語るのは馬鹿のすることではないのだ。夢を持ってない人間は世の中を廻すための歯車に相当する人間というだけである。それと同じことになる必要はない。普通などない。正しい事などない。やりたい事をすれば良い。そして死ぬその日まで運動を続けるのみである。
頑張りたまへ。