表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古棋探訪  作者: 稲葉孝太郎
矢倉の起源
8/8

矢倉囲いは雁木の発展形?

 今回は、矢倉囲いの起源について考えてみたい。矢倉囲いは、いつどのようにできたのか。そんなことは分かりようがないと思われるかもしれない。ところが、古棋書を丹念に眺めてみると、おおよそ1700年頃に雁木の変化形として登場したのではないかと推測できる。

 まず、雁木の復習をしておこう。江戸時代の雁木は、以下のような戦法である。

 

挿絵(By みてみん)


 なぜこれが雁木なのか。Wikipediaの記述によると、6九金から2五歩までの傾斜が雁の飛行形態に類似しているからであるとされている。もっとも、出典は不明である。由来そのものは今回のテーマと直接関係がないので、深く詮索しないでおこう。

 さて、この雁木戦法は、檜垣ひがき是安これやすの創案であると云われる。しかも、飛車落ち戦を念頭に置いたものであるようだ(拙稿「『将棋評判』の評者は何者か?」を参照)。これは納得のいくことで、仮にこのかたちで後手が飛車落ちならば、2筋を咎めにいくのは有効である。また、本譜のように香落ちの場合も、1筋に狙いを定めてヨシであろう。

 というわけで、江戸時代の雁木とは、駒落ち戦のために考案された【戦法】であると捉えることができる。囲いではない。そして、この雁木戦法と矢倉との接点を示してくれるのが、『象戯しょうぎ図彙ずい考鑑こうかん』(1717年)である。

 まず、『象戯図彙考鑑』の第7譜をみてみよう。

 

【先手:原喜右衛門 後手:和泉屋吉右衛門(1699年8月18日)】

挿絵(By みてみん)


 これは、先手が旧式雁木(是安流)、後手が現在「雁木」と呼んでいる囲いである。混乱が生じないように、以下単に「雁木」と呼んだ場合は、是安流のことであると理解していただきたい。

 最終的には先手の和泉屋が勝つわけであるが、それは今回のテーマと関係がない。重要なのは、75手目に次のような金上がりが生じることである。


挿絵(By みてみん)


 一見して、現代においても現れそうなかたちである。というのも、矢倉を7六歩と叩かれて同金と取った場合は、このかたちになるからである。そして、この手を和泉屋が指さなければならなかった理由も明白である。雁木は6九に金を待機させているため、中終盤に浮き駒になる可能性が高い。本譜でも、陣形を引き締めるための7八金であると推測される。

 この浮き駒をなくすという点に、雁木と矢倉とをつなぐ接点がある。同年4月27日に指された棋譜の中には、この接点がはっきりとあらわれている(第11譜)。

 

【上手:多曽都座頭 下手:長嵜傳左衛門(1699年4月27日)】

挿絵(By みてみん)


 ここから3一角と引けば雁木である。が、多曽都座頭はさらなる工夫をみせる。

 以下、4四歩、4六歩、4三金(!)、6九玉、3一角、5八金、6四歩、2六歩、2二玉、2五歩、3二金(!)と進める。


挿絵(By みてみん)


 驚いたことに、藤井流早囲いの組み方に近い。どういうことなのだろうか。

 以下のように解釈することができる。まず、是安流雁木の欠点について考えてみよう。是安自身が説明しているように、この雁木は、囲いというよりも戦法である。なぜなら、駒落ちで薄くなった1筋、2筋に角の睨みを利かせるのが主眼だからだ。このため、左辺の金銀はバラバラで、おたがいに連結していない状態になっていた。これは、是安がうっかりしていたわけではなく、サイドから飛車で攻められる可能性が低いことに起因する。6九の金が離れ駒になっているのも、飛車落ちという前提ならばまったく違和感はない。

 けれども、平手で雁木を使うとき、6九金型は致命傷になりかねない。そこで、多曽都座頭は、2つの工夫をこらしている。ひとつは、離れ駒を作らないことである。そのためには、6九の金をなにかとくっつけなければならない。7八金とするか6八金とするかの二択であるが、後者は角道が止まるのでできない。よって、7八金が必然となる。

 もうひとつは、5八金の処理である。6九の金を7八へ移動させると、今度は5八の金が浮き駒になってしまう。そこで、この金は6七に移動させる。これで矢倉が完成した。

 なお、この6七金右については、単に駒を連結させる、というだけでなく、上部を厚くするという意味もあったのではないかと推測される。というのも、飛車を回られたときの対策として、1699年の段階で使われていたからである(第12譜)。


【先手:長嵜傳左衛門 後手:多曽都座頭(1699年4月27日)】

挿絵(By みてみん)


 対局者が11番と同じことも注目に値しよう。

 この変遷に鑑みるに、1699年から1700年のあたりで、雁木の上部を厚くする発想が生まれ、さらに離れ駒を減らす目的で7八金が考案されたものと考えられる。

 以上の推理は、翌年5月10日指された第22譜によっても根拠づけられる。


【先手:谷忠兵衛 後手:武田又市(1700年5月10日)】

挿絵(By みてみん)


 相雁木である。ここから、忠兵衛も又市も、それぞれ矢倉へ組み替えていく。

 以下、4三金、6七金、2二玉、6八角(!)、3二金、8八玉、6二銀、7八金。


挿絵(By みてみん)


 後手の又市が7五歩と仕掛けて開戦する。

 この局面だけみれば、現代風の矢倉と遜色ない。とはいえ、まだ囲いが考案されたばかりで、矢倉の特性に関する研究は進んでいなかったらしく、先手の忠兵衛は玉頭攻めを受けてあっさりと潰されている。

 以後、矢倉は順調に普及したらしく、以下の棋譜でも矢倉を確認できる。


【上手:武田又市 下手:与都座頭(第56譜:1705年5月24日)】

挿絵(By みてみん)


【上手:谷忠兵衛 下手:長嵜傳左衛門(第51譜:1711年9月4日)】

挿絵(By みてみん)


 武田又市と与都座頭の対局は、序盤から2筋で角交換をする激しい矢倉である。このような戦いが成立したのも、矢倉がまだ手探りの状態だったからであろう。いずれにせよ、コンセプトはそれまでの雁木と類似している。すなわち、1筋、2筋に角の狙いを定め、王様は6八〜7八〜8八と囲っていくスタイルである。

 これに対して、6年後の谷忠兵衛vs長嵜傳左衛門は、かなり変則的な矢倉の組み方をしている。この駒組は、中央に殺到されたので仕方なく選択したものと思われる。もっとも、この選択は、新しい工夫を垣間見せている。玉頭圧力が強いときは、6八〜7八〜8八と囲うことはできず、6八角〜6九玉〜7九玉〜8八玉と1手多く指さなければならない、ということである。早囲いのルートが玉頭のプレッシャーに弱いことは、普及の初期において気づかれていたであろう。

 さて、以上の考察は、以下の2点にまとめることができる。

 

 1、矢倉囲いは是安流雁木戦法の延長として登場した。是安流雁木は飛車落ちに強い構えとして発案されたため、平手においては囲いの部分を見直す必要があった。この見直しの過程で、7八金と6七金右が追加された。

 2、先に誕生した囲い方は6八角〜6九玉〜7九玉〜8八玉ではなく、6八玉からの早囲いルートであった。しかし、早囲いは玉頭から攻められると弱いので、前者のルートもすぐに考案された。

 

 以上、将棋の純文学である矢倉の考察をもって、古棋探訪はいったん完結とさせていただきたい。現在、矢倉囲いは廃れて、(是安流雁木ではない)雁木が隆盛になっている。この矢倉vs雁木は、『象戯図彙考鑑』においても散見されるテーマであった。この点に温故知新を感じつつ、筆を置くことにしよう。


【完】

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ