居飛車の誕生4:初代宗看vs松本紹尊
さて、前回のテーマ図をご覧いただいたので、解説を始めたいと思う。前回のテーマ図のポイントは、銀が4八+6八に上がっていることであった。この上がり方は、現代将棋においてもまったく違和感がないようにみえる。けれども、実際にはそうではない。テーマ図からは、5三銀、6六歩、2二飛、3七銀、6二玉、5七銀と進む。
【先手:初代伊藤宗看 後手:松本紹尊 1637年4月8日】
この流れになると、違和感を覚えるひとが多いのではないかと思う。6八銀のあとは7七銀と上がって矢倉にするか、6七銀と上がって現代雁木(江戸時代の雁木とは別物)にしたいからである。しかし、ここで思い出していただきたいことがある。当時の将棋は、中央が非常に重視されていた。すると、3七銀+7七銀のかたちは、当時の常識からして到底受け入れられる布陣ではない。中央がスカスカ(に見える)からである。左の銀と右の銀のどちらかは、5七に置いておきたい。それが、宗看の考えであろう。
さて、この「中央に右銀ではなく左銀を置く」という本局の発想が、宗看の新しい研究成果である。どういうことか、詳しく説明していこう。前回までの研究において、宗看たちは2筋の破り方を模索していた。その結論として、「2筋はなかなか破れない」ことが分かった。なぜ破れないのであろうか。その解決案のひとつが、本局における3七銀である。すなわち、「2筋が破れないのは、援軍が足りないからだ」という発想である。
実際、この3七銀は、2六へと移動する。本譜以下、7二玉、5八金右、7四歩、6七金、6四歩、6八玉、5二金左、7八玉、6三金、9六歩、9四歩、6八金直、7三桂、7七桂、8四歩、8六歩、8二玉と陣形整備してから、いざ2六銀。
【先手:初代伊藤宗看 後手:松本紹尊 1637年4月8日】
いわゆる棒銀である。このとき、5七に銀がいるため、当時の感覚としても中央が不安ではないことが重要である。つまり、「3七銀〜2六銀とするための5七銀」であった。対して、紹尊の布陣は、かなりオーソドックスな中央密集型。7二金に宗看が3五歩と開戦して、お手並み拝見となった。
以下、3二飛、3八飛、5一角、1五歩、同歩、3四歩、同銀、2四歩(!)、同歩、2二歩、2五歩、同銀、2二飛、3四飛、2五飛、3一飛成。
【先手:初代伊藤宗看 後手:松本紹尊 1637年4月8日】
先手成功か、と言われると、そうでもないが、とりあえず2筋は破れた。宗看は、「2筋を破る」というテーマのために、かなり無理をしていたのではないかと思われる。というのも、先手は2六銀を実現するために左銀を5七に配置したのだが、その副作用で、8八の角が遊んでしまっているからである。とはいえ、後手も5一角を逃がさねばならず、本譜は宗看勝ちとなった。
この結果に、宗看が満足したのかどうかは分からない。ただ、5七銀+3七銀型の棒銀は、本譜以降は封印されたようである。次に行われた4月10日および16日の研究会では、ふたりとも3七桂型を研究している。この「右銀ではなく右桂で攻める」という発想は、江戸時代中期まで続く重要なアイデアであった。補足的に見ておこう。
初手から、7六歩、3四歩、4八銀、4四歩、5六歩、5四歩、2六歩、3二銀、4六歩、4二飛、5七銀、4三銀、3六歩、6二銀、2五歩、3三角、9六歩、9四歩、6八玉、6四歩、7八玉、6三銀、5八金右、6二玉、6六歩、7二玉、6八銀左、7四歩、6七銀、7三桂、6八金直、8二玉、1六歩、1四歩、4七金、7二金、3七桂。
【先手:松本紹尊 後手:初代伊藤宗看 1637年4月10日】
これが戦法の骨子になる。ポイントは2点ある。
・2五歩と詰めておき、2五桂戦法は最初から狙わない。
・4七金で桂頭を守っておく。
2五桂戦法を最初から放棄しているのは、2五桂戦法よりも2五歩と詰めたほうが得であると認識していたからかもしれない。いずれにせよ、この段階では、2五桂戦法はほぼないものと理解されていたようである。2五桂戦法が初代宗桂の時代にメイン戦法だったことを考えると、宗看たちの居飛車に対する貢献は大きい。
本譜は以下、3二飛、4五歩、同歩、同桂、5一角、5三桂成、5二金、同成桂、同銀左で、金桂交換を許容している。金桂交換でよい、という判断がどこから来ているのか分からないが、以降は先手が好調。6五歩、3三角、4四歩、4二飛、6四歩、同銀、4五金、6五歩、3四金、6六桂、7九玉、5五歩、2四歩と2筋を破っている。
【先手:松本紹尊 後手:初代伊藤宗看 1637年4月10日】
しかし、終盤の折衝が悪かったらしく、結果は後手勝ちとなった。
最後に、寛永十四年に行われた研究会のうち、日付が分かっているもののなかで、最後の棋譜を紹介して終わりにしたいと思う。これは、4月16日に行われたもので、居飛車側を紹尊が担当している。彼の工夫は、棋譜を見てもらえば、すぐ分かるであろう。初手から、7六歩、3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、3二銀、4六歩、4三銀、4七銀、4二飛、2五歩、3三角、3六歩、5四歩、1六歩、1四歩、5六歩、6二銀、4八金、5三銀、5七金、6四歩、3七桂。
【先手:松本紹尊 後手:初代伊藤宗看 1637年4月16日】
紹尊の工夫は、前回の4七金+3七桂型に変えて、4七銀+3七桂型を採用したことである。右銀の活用としては、こちらのほうが自然であろう。但し、角換わり腰掛け銀で4七金型をよく見るように、守備力で言えば金のほうが勝っているかもしれない。
以下、7四歩、6八玉、6二玉、6六歩、2二角、2四歩、同歩、同飛、3二金、2九飛、2三歩、4五歩、同歩、同桂。
【先手:松本紹尊 後手:初代伊藤宗看 1637年4月16日】
先手が飛車先を切って、主導権を握っている。ただ、本譜でもそうなのだが、飛車先を切ったあとの方針がはっきりせず、玉頭戦になって紹尊の負けである。寛永研究会、特に寛永十四年に行われた研究会の趣旨は、飛車先破りの可能性の模索であって、破ったあとにどう指し回すかは、まだまだ未発達だったように見受けられる。なお、この4七銀+3七桂型は、寛永19年6月1日の対局でも採用されている。
以上、1637年3月4日から4月16日に掛けての、伊藤宗看と松本紹尊との研究会を概観した。その内容は、以下のようにまとめられる。
〔1〕両者の棋譜は、あらかじめテーマを定めて指されたものであり、勝負将棋では全くない。そのテーマとは、居飛車の確立、すなわち、飛車を2筋から移動させないで敵陣を攻撃できるか否かであった。
〔2〕まず、宗看以前の有力戦法であった、飛車先不詰め2五桂戦法が否定された。どのような理由で否定されたのか(例えば決定的な対策が登場したのか否か)は不明であるが、少なくとも、「2筋は詰めたほうが良い」という発見があったのではないかと思われる。以後、飛車先を詰めるという居飛車側の方針が確立された。将棋史においては、この寛永14年の研究会をもって、居飛車の誕生としてよい。
〔3〕詰めた2筋をどのように破るかが、研究会の課題であった。宗看と紹尊は、それぞれ独創的なアイデアを繰り出している。そのアイデアは2つに大別される。ひとつは、銀を用いて2筋を破る手法であり、もうひとつは、桂を用いて2筋を破る手法である。現代的な感覚からすると、前者のほうが自然であるが、宗看と紹尊は、4七金+3七桂型ないし4七銀+3七桂型のほうを好んでいたように思われる。
居飛車のほうが振り飛車よりもあとにできた、という事実は、筆者にとって大きな驚きであった。また、結論〔3〕は、18世紀初頭の振り飛車対策に2六飛+3七桂戦法が多用されていることと、関係があるのではないかと思う。すなわち、17世紀から18世紀初頭まで、銀は守りに使うものであり、桂馬のほうが攻めの主役だったのではないだろうか。そして、桂頭の保護と中央の厚みとを両立させる作戦が、4七金+3七桂型ないし4七銀+3七桂型の構えだったのではないかと推測する。
2六飛+3七桂戦法に関しては、以下の短編小説で取り上げた。
将棋指しは奥山越えの夢を見るか?(暗号出題編)
http://ncode.syosetu.com/n0192de/16/