居飛車の誕生3:初代宗看vs松本紹尊
松本紹尊の開発した3七桂〜4五歩戦法に対して、初代伊藤宗看は、ある作戦を思いついた。それは、「3六歩と突かせない」というアイデアである。しかし、どうやって? 寛永14年3月17日に再会したふたりの棋譜から、このアイデアを掘り下げてみよう。
先手は初代宗看、初手から7六歩、3四歩、6六歩、6二銀、7八銀、5四歩、5六歩、6四歩、7七角、8四歩、6八飛と、四間飛車の出だしになる。
以下、5三銀、4八玉、1四歩、3八玉、1五歩と突かせて、7五歩。
端の代償として、7四歩を押さえ込む。ここを維持できれば、そもそも7三桂と跳ねられない寸法だ。松本は7二金と上がって、当然に咎めに行く。6七銀、6三金、7六銀。
銀上がりが、ぎりぎり間に合った格好。後手は諦めて4二玉と上がり、4八銀、3二玉、4六歩、9四歩、3六歩、4二銀、5七銀、4四歩と、17世紀前半的な駒組みが続く。5八金左、4三銀と飽和したところで、先手の初代宗看は、6五歩と仕掛けた。
同歩、同銀、6四歩、7六銀と引かせてから、8五歩。この8五歩は、飛車先突破の狙いである。というのは、先手の4七金に対して、4五歩と角交換を挑み、2二角成、同玉、4五歩、8六歩と突けるのだ。
7六銀が8筋の防御に利いていないことを利用した、機敏な一手である。しかし、これが成立したのは、初代宗看が7五歩〜7六銀という、7四歩〜7三桂の防止を選択したからであり、最初から飛車先を突破するつもりではなかったことに、注意していただきたい。そのつもりならば、もっと早く8五歩を入れていたはずである。
さて、余裕で飛車先を突破できそうに見えるが、松本はこれに失敗する。実はこれ、後手の陣形が、非常によろしくないのだ。8五角が、ハチャメチャに見えて的確な反撃。
6三金に紐がついていないため、8七歩成とできない。松本は一旦7四歩とするが、同歩が冷静な対応。ここで8七歩成は、7三歩成が激痛となる。4一金が浮いているので、同金は4一角成とされてしまうからだ。松本に、うっかりがあったのだろう。どこかで3二金と締まり、それから8六歩と突けば、安泰であった。
松本も遅ればせながらに3二金とするが、8六歩と取り返され、後手は歩切れ。角を殺す手段がない。仕方なく9三桂としてみる松本に対して、初代宗看は9四角、8六飛、8七歩と受けて、8二飛、6一角成、8四飛と、松本の攻めを遅らせる。
次の一手は、さすが家元と言った感じの妙手。
せっかく作った馬を捨て、角銀交換へと持ち込む。狙いは、同金に5二銀。4三銀成とされては受けがなくなるが、かと言って4二金と引くと、6三銀不成がある。7四飛とできなくなっては、後手苦しい。
松本はどちらも選ばず、9四角の反撃。以下、4三銀成、7六角、7三歩成、5五歩と、成銀取りを見せた。しかし、これは疑問手であろう。6三と、4三角、5三とは、明らかに7三同金、5三成銀よりも悪くなっているからだ。
以下、8七角成、8五歩、7四飛、7五歩、同飛、6四飛、7八飛成とするも、4八銀と固められて後手劣勢。109手にて、初代宗看の勝ちとなる。
ようやく振り飛車の勝ちとなったが、7五歩〜7六銀型の優秀性は、証明されなかったように思われる。というのも、松本がどこかで3二金と入れておけば、8五角の受けが成立せず、そのまま飛車先を突破されていたからである。要するに、今回の松本の負けは、初代宗看の対策が優秀だったからではなく、単に後手の駒組みの問題に帰着する。
これは、筆者の推測ではない。初代宗看は実際、この7五歩〜7六銀を、二度と採用していない。つまり、自分でも良くないと思ったのである。となると、松本の考案した2五歩〜3七桂〜4五歩戦法は、ひとまず「振り飛車対策の決定版」ということに収まり、「振り飛車とは、すなわち不利飛車なり」という結論に落ち着いたのかもしれない。この日から、初代宗看と松本紹尊の研究は、相居飛車へと移行する。正確に言うと、4月8日まで、5局連続で相居飛車もどきとなる(もどきと言うのは単純で、飛車先を突破する技術が確立されていないのであるから、本格的な相居飛車には、なりようがないのだ)。
というわけで、この相居飛車もどきの試行錯誤を、見ていくことにする。第1局は、同日に指されたもので、先手は松本紹尊、初手から7六歩、3四歩、4八銀、6二銀、5六歩、5四歩、5七銀、8四歩、6六歩、5三銀、4六歩、7四歩、3六歩、9四歩、9六歩、8五歩、7七角。
後手は飛車先を伸ばし、先手も飛車を振らずに待機する。双方、かなり欲張った指し方であり、後手の初代宗看は、すぐに7五歩と動いた。同歩、6四銀、7四歩。
斜め棒銀である。対振り飛車ではなく、相居飛車もどきでこれが指されたことは、注目に値しよう。7二金、7八金の交換を入れてから、初代宗看は7五銀と突っ込んだ。
ここで松本は、6五歩と角道を開ける。銀が6四ならば厳しいが、7五では不発。角交換せずに8六歩と突かれてしまう。
筆者は、この8六歩を、非常に重視したい。これまでの対局とは異なって、初代宗看の指し手には、「8五歩と突き越し、6四銀〜7五銀〜8六歩とすれば、飛車先を突破できる」という、一貫した思想が見られる。つまり、これが飛車先突破構想の、発端なのだ。将棋の歴史に、新たな1ページが加えられたと言っても、過言ではない。
さらに、これを発案したのが、松本紹尊ではなく、初代宗看だったということも、特筆に値する。思い出していただきたいのだが、将棋の家元というものは、基本的に振り飛車党であり、飛車先を伸ばすのは、本因坊算砂のように、囲碁界の出身者であった。松本紹尊も、囲碁を嗜んでおり、飛車先歩突きを好むのは、この囲碁界の影響かもしれない。けれども、松本紹尊の飛車先突破は、「隙があれば2四歩と突く」ものであり、「最初から2四を目標に飛車先を伸ばす」ものではなかった。それまで振り飛車一辺倒だった初代宗看が、松本の構想の優秀性を認め、そこから改良したのである。
ただ、残念なことに、飛車先突破の構想自体は名案だったのだが、本譜は2二角成、同銀から、8六歩、同銀、4五歩、7五銀とバックし(3七角を嫌った)、8八歩と打たれて、攻めが頓挫してしまう。結果は初代宗看の勝ちであるが、全体としては、居飛車と言い難い対局内容となった(松本も、2六歩とせず、4八飛から4筋を攻めている)。
第2局は、同月21日。初代宗看、松本紹尊とも、いよいよ飛車先突きの優秀性に気付いたのか、研究会は急速な発展を見せる。先手は初代宗看で、初手から7六歩、3四歩、4八銀、6二銀、5六歩、5四歩、2六歩と、初代宗看が飛車先を突き、4四歩、3六歩、3二銀、4六歩、5三銀、1六歩(5七銀と合わせないのがポイント)、1四歩、2五歩、3三角。
この2五歩は、明白に飛車先突破を狙っている。すなわち、3七銀と上がり、4三銀、6八銀、8四歩(ついにお互いが飛車先を突いた)、6六歩、3二金、6七銀、7四歩、2六銀。
棒銀である。この棒銀は、当時の常識に、反している。というのは、銀は基本的に中央を厚くする道具であり、2筋はそっぽだからである(余談だが、現代においては、この江戸時代初期の考え方が、復活しているように見受けられる=棒銀の衰退)。
とはいえ、次に3五歩からの攻めは見え見えであるから、松本も8五歩と伸ばし、攻めの糸口を探る。7七角、4一玉、3五歩と開戦し、5一角、3四歩。
3五同歩、同銀、2四歩を回避した格好だ。本譜は以下、3四銀、3八飛、3三金(かなり危ない受け)、3五歩、4三銀と、対振り棒銀で銀が取り残されたような形に落ち着く。初代宗看は3六飛として、7三角〜4五歩に備える構えを見せた。
4五歩には、おそらく3七桂、4六歩、5八金であろう。松本は7三角と出るも、その順を選ばない。7八金に9四歩と、様子を見る。以下、3七桂に5五歩から仕掛けるのが、松本の大局観を物語る好手。
狙いを考えていただきたい。ヒントは、先手が棒銀のため、中央が薄い、である。そう、ここから松本は、5五同歩、6四銀、4五歩、5五銀、4四歩、同銀引、6五歩、5二飛と進める。
中央の薄さ+居玉を突き、一気に中飛車に転換。こうなっては2六銀も祟り、以下、松本の快勝となる。中央2枚銀が普通の当時、銀1枚を飛車先に移動させて使う攻めは、かなりの困難を伴ったようだ。本局では、その弱点(中央の防御が手薄)を見事に突かれた格好となっている。
この反省からか、同日に指された第3局では、ふたりとも異なる趣向を見せた。先手は松本紹尊で、初手から7六歩、3四歩、4八銀、6二銀、5六歩、5四歩、5七銀、8四歩、6六歩、7四歩、7八銀、6四歩、6七銀、8五歩、8五歩、7七角。
少しだけ、将来的なことを話しておきたい。この手順、現代ならば6七銀を保留し、8五歩に7七銀と上がるところである。しかし、松本紹尊はこれを取らない。なぜか。ここからは筆者の推測になるが、7九角の活用を知らないからである。これは松本だけでなく、当時の初代宗看も、知らなかったのではないかと思われる。というのも、7七銀+7九角型を考案したのは、おそらく檜垣是安だからである。それまでは、7七に駒を配置せず、6五歩と突くかあるいは突かれるかして、角交換に持ち込むのが常道であった。ちなみに、7七銀+7九角型を、雁木という(現在、雁木と呼ばれているものは、明治時代あたりに別の囲いと取り違えられたものであろう)。
閑話休題。本譜は以下、9四歩、9六歩、7三銀と進む。
これは、棒銀ではない。初代宗看は、前回で棒銀に懲りたらしい。以下、3六歩に4二銀として、7八金、4四歩、2六歩、4三銀、2五歩、3三角、1六歩、1四歩、6九玉、3二金、3八飛、6二飛。
現代的に見ると、先手松本の方が、後手初代宗看よりも、自然な駒組みである。8四銀を保留して右四間が初代宗看の新趣向なのだろうが、それならば7三銀と上がらず、5三銀あるいは6三銀として、7三桂の余地を残した方がよい。
先手は斜め棒銀なので、ここから3五歩、同歩、4六銀と開戦する。後手もすぐに6五歩と突き、同歩、同飛、6六歩、6三飛、3五銀、6四銀、4六歩(現代ならば、3四歩と押さえて、2八飛〜2四歩か)、7三桂、5八金、5二金。
両者、現代雁木(繰り返しになるが、江戸時代の雁木は別物)に組んで、以下、2八飛、3七歩、3九歩と、やや消極的な手が続く。2四歩のタイミングを逸したのが大問題で、5五歩、同歩、6五歩と、後手が先攻、72手で松本の大敗となってしまう。結局、2四歩は一度も入らない結果となった。なぜ松本が2筋の攻撃に消極的だったのか、疑問の残る一局である。途中までは明らかに、松本が先攻できる形ではなかったろうか。
仮説としては、「2筋を破っても、そこまで大ダメージではない」と考えていたのかもしれない。これを証拠付けるのが、4月3日に指された第4局である。先手は初代宗看で、初手から7六歩、3四歩、4八銀、6二銀、5六歩、5四歩、2六歩、4四歩、5七銀、5三銀、4六歩、3二銀、4八金、1四歩、1六歩、4三銀、2五歩、3三角、4七金、8四歩、7八銀、7四歩、6六歩、と似たような展開が続き、3二金、6七銀、8五歩。
ここで驚愕の手が飛び出す。
なんと、8筋を受けずに9六歩。8六歩には9七角を用意している(5三銀が浮き)。後手の松本は9四歩と突くが、初代宗看はそれでも7七角と上がらず、7八金とする。
これを松本は見逃さない。8六歩と突いて、同歩、同飛と突っ込む。
9七角には8九飛成で、王手というわけだ。初代宗看も、うっかりではないだろう。そうではなく、「8筋の歩を切らせても、大したことはない」と考えていたはずである。要するに、この時代には、飛車先の歩を切るメリットが、見えていなかったのだ(そのメリットに気付いたのは、大橋宗英らしい)。飛車先を攻めるという発想は、初代宗看と松本紹尊の間で醸成されたにもかかわらず、その厳しさが認識されていなかった。これを教えてくれるのが、本局である。
以下、3六歩、8二飛、8七歩、6四歩、3七桂、4一玉、4五歩と、2五歩〜3七桂〜4五歩戦法が炸裂し、初代宗看の勝ち。本局では、先手の飛車が2筋から動かず、そのまま勝ち切ったことも、注目に値する。
さて、ここから第5局に入るのだが、続きは次回にしたい。テーマ図のみ上げておく。
【4八銀+6八銀型】
このテーマ図が、これまでの流れとどう関連するのか、それを読み取るのは容易ではないが、少し考えてみていただきたい(但し、現代将棋の感覚からすると、かなり突飛な構想なので、あまり頭を悩まさないでください)。続く。