『将棋評判』の評者は何者か?
前回、『将棋評判』の評について、三代宗桂と檜垣是安の合評ではない、という前提を置いた。今回は、その件を補足したい。
まず、なぜこのふたりの合評ではないと推測するのか、その根拠を提示する。第一の根拠は、『将棋評判』およびその原本となった『将棋鏡』の出版年である。『将棋鏡』のそれは1663年。対して、三代宗桂は1661年に、48歳で没している。つまり、『将棋鏡』の編纂に三代宗桂が関与した可能性は低いと見てよい。
なるほど、次のように考える人がいるかもしれない。三代宗桂と檜垣是安は、『将棋鏡』とは別に合評を行っており、それが『将棋鏡』には収録されず、『将棋評判』で初めて収録されたのだ、と。その可能性はゼロではないが、非常に低いと言わざるをえない。まず、三代宗桂と檜垣是安が、棋書の出版や編纂とは無関係に、なぜ合評を行わなければならないのか。これに対しては、「プライベートな合評だった」という反論もありうるが、私的な合評ならば、1703年の『将棋評判』にどういう経緯でそれが掲載されたのかを、明らかにしなければならない。40年もの間、その合評はどのように生き残っただろうか。また、1663年以前に私的な合評が行われ、それが記録されたならば、それが『将棋鏡』に掲載されなかった理由も分からない。
第二の根拠は、評の内容が、合評に見えないということである。三代宗桂と檜垣是安の言である旨が明記されている箇所を引用してみよう。
『将棋評判』20番17手目
敵の飛車免明けて退事如何と云へば宗桂曰く、是安と律儀に指せば勝事堅し。之に因って六四角と指したる也。
『将棋評判』20番80手目
五九の金を引事、諸人多く四九に歩を打事可ならん哉と云う、然れども是安の「手前に歩打事は大事」と申されし事是にて見へたり。
『将棋評判』27番全体評
之是安流なり。此手をがんきといふ。飛車落にはがんぎよしと是安申されし也。
(※現在で言う雁木と江戸時代の雁木は異なる。)
『将棋評判』34番86手目
是安曰、手前に歩を打は一大事也駒なくてすべきやうなくは格別なり。幸金のつなぎといふ将棋は勝なり故に銀うつなり。
『将棋評判』38番54手目
是安曰く、「飛を引くはゆとりのなき候」とて、上手の嫌う事也。
『将棋評判』38番119手目
四六の桂を行かずに打つは宗桂の勝に成べき物をと或人の説なり。
以上の引用から、以下のことが分かる。
1 三代宗桂と是安が同時に評している箇所はない。
2 第三者がインタビューしたような形になっているものがある(20番17手目、20番80手目)。
3 他人事のように書かれている箇所がある(38番119手目)。
4 本人の面前で言ったとは思えないコメントがある(20番17手目)。
これらのいずれもが、合評の可能性を否定している。特に4番目の理由について、『将棋評判』20番17手目のコメントを意訳すると、「自分が是安と普通に指せば楽勝だから、敢えて悪手を指した」となる。しかし、これを合評の場で言ったとは、到底信じられない。是安本人のいない場所で第三者に尋ねられ、強気の発言をしてしまったものと思われる。
以上の理由から、三代宗桂・是安合評説は、否定してよいだろう。
では、『将棋評判』に掲載された評は、何だったのか? 出版者が、本の売れ行きを気にして、適当な評をでっち上げたのだろうか? 筆者は、その可能性も低いと考える。次に、この編者偽評説について考えてみよう。
編者偽評説に関しては、積極的にこれを否定する根拠がある。評の内容が、18世紀初頭の将棋観に染まらない古風なものだからだ。
これは、左金の処置に現れている。
『将棋評判』10番30手目
故人の説に七八の金と有駒組は終に勝事なし。此将棋も七八の金にて負となる。金は王の方へ寄せてよし。此手多嫌ふ。
『将棋評判』11番22手目
七八金大いに嫌う。譬え七八金にて勝たんよりも、是を五八金と指して負ける方本筋也。兎角王の疎らなるを嫌へばなり。
『将棋評判』29番全体評
六三金はなれて悪しき事、前にも記す。宗看でさへ此将棋金のはなれたる故に負となる。必ず指べからず。五八金左ゆへ勝となる。是も七八と金の常の通りにては勝敗分らず。此好悪能々味ふべし。
『将棋評判』41番31手目
三二の金離たるにより負なり。此金六三に置かば如何あらん。七三の歩も七四と有度者なり。
『将棋評判』43番24手目
七八金大いに悪し。九八飛ののことく香落方へ強く責めて破りても跡あけて退く故に急に弱味あり。
このような、「金は必ず王様側へ寄せ、反対側へ動かしてはならない」という将棋観は、18世紀初頭において、既に消滅していた。1707年に出版された『将棋綱目』から、定跡図を引っ張っておく。
お分かりの通り、この図では、後手の金が3二に移動している。これが定跡とされているのだから、「故人の説に七八の金と有駒組は終に勝事なし」という定説は、この時代には既に覆されていたことが分かる。仮に『将棋評判』の編者が、あとで評をでっち上げたのだとしたら、ここまで強く金離れを否定しなかったであろう。
したがって、「三代宗桂・是安の合評ではないにせよ、評自体は、17世紀に書かれたと見てよい」ことになる。そして、『将棋鏡』に掲載された棋譜には、万遍なく評が付されているのだから、もっと具体的に「『将棋鏡』の出版後、『将棋綱目』の出版よりかなり前」と絞ることができる。さらに、三代宗桂・是安の言を直に聞くことができたか、あるいはその言を伝聞で入手できた人物が、これを書いたと考えるのが妥当である。よって評者は、三代宗桂が亡くなる1661年より前には、ある程度の年齢に達していたものと考えられる。
以上の前提を踏まえて、以下の仮説を立てる。
『将棋評判』の評は、『将棋鏡』が出版された1663年以後、それほど離れていない時代に作られたものであり、評者は、出版された『将棋鏡』に自評および、聞き及んだ三代宗桂・是安らの回答を付しておいた。そして1703年に、この本が再版の底本とされ、出版者はコメントを削らないことに決めた。出版者自身は、このコメントが誰の手になるのか分からなかったので、売り上げなどを考慮して、三代宗桂・是安の合評であると断じた。
これが、事の真相なのではないかと思う。本の持ち主の書き込みが、再版時にそのまま収録されるという現象は、異国でも見られる。有名なものとしては、フェルマーの書き込みを加えたディオファントス『算術』が挙げられよう。ただ異なるのは、フェルマーが一流の数学者だったのに対して、『将棋評判』の評者は、そこまで棋力が高くなかったのではないかと思われる点だ。詰みの見逃しなどについては、関連サイトを参照していただきたい。
最後に、第三者がいちいち将棋にコメントを付していたのか、という疑問に対して、有力な証拠を提示しておく。次の箇所だ。
『将棋評判』45番冒頭
此勝負は至って出来面白上手の一覧有し故、評も多く能考ふれば稽古に成べき手多し。
「評も多く」の箇所は、一見すると、「この45番には、多くの評を付した」とも読めるが、そうではない。この45番には、評が3つしかなく、他と比べて「多い」とは言えないからである。つまり、「評も多く」というのは、「私は45番に多くの評を付した」ではなく、「他の人の評もたくさんある」という意だと解される。つまり、有名棋士の棋譜にコメントすることは、将棋指しの間ではよく行われていたのだと窺わせる一文なのだ。
したがって、筆者は、同時代人他評説が正しいと考える。『将棋評判』の評は、17世紀前半の将棋観を知る上で、貴重な史料と言えるのではないだろうか。
『将棋評判』の評については、ウェブサイト『温故知新』様のものを引用させていただきました。
http://onkotisin.org/teai/hyouban/hyou3.htm
江戸時代の雁木については、東公平氏の記事を参照。
雁木は雁木でなかった
http://silva.blogzine.jp/blog/2012/07/post_4081.html




