最古の駒組み「先手後手」とは?
江戸時代の駒組みに、「先手後手」というものがある。文献で確認しうる限りでは、最古の戦法のひとつであり、1703年出版の『将棋評判』第3番において二度、さらに1707年出版の『将棋綱目』において一度だけ、言及されている。
しかし、この「先手後手」という駒組みがどのようなものなのか、それについては正確な調査が行われてこなかったように思われる。そこで今回、この「先手後手」戦法を調査し、実証的な解釈を提示してみたい。
まずは、『将棋評判』の途中図まで再現する。
【先手後手パターンA途中図】
『将棋評判』第3番
先手:初代宗桂
後手:算砂
▲7六歩 △3四歩 ▲4八銀 △4四歩 ▲4六歩 △4二銀
▲4七銀 △4三銀 ▲3六歩 △3三角
ここで、次のような評がついている。
「二五歩突かぬうちは、如此桂の飛ある故、角を三三へ上らぬ者也。是習有る事也。先手後手の馬組と云ふあり。位づめの負となる也。此馬組に三五の歩をつくは習有る事なり。」
「桂の飛ある故」の部分は、「桂馬から飛車がある故」すなわち「3三桂型向かい飛車がある故」と読むか、それとも単に「2五桂跳ねがある故」と読むか、少々迷うところであろう。筆者は、後者と解する。本譜でも、そのように進んでいるからである。
以下、全文の私訳。
「(先手が)2五歩と突かないうちは、ここに(当たりの利く)桂跳ねがあるので、角を3三に上がらないものだ。そういう習わしである。先手後手の駒組みと呼ばれている。(2五歩と2筋の)位を詰めた方が負ける。この駒組みで3五歩と(先手が)歩を突くのは、習わしになっている。」
さらに全体評として、末尾に次のようなコメントも付されている。
「馬組に名あり此指方を先手後手といふ。此馬組極意習有は後手の方よし。然れども是は角の上り不詮議なる故に負となりし也。」
特に争う点もないので、早速、私訳を。
「駒組みには名前があって、この指し方を先手後手と呼ぶ。この駒組みを極めたところでは、後手の方が良いという習わしになっている。しかし、本局は角上がりが間違っているので、(後手)負けとなった。」
角上がりというのはもちろん、3三角のことである。
本譜では現に2五桂跳ねから仕掛けられ、後手潰れ模様。
▲7六歩 △3四歩 ▲4八銀 △4四歩 ▲4六歩 △4二銀
▲4七銀 △4三銀 ▲3六歩 △3三角 ▲1六歩 △1四歩
▲2六歩 △4二飛 ▲4八飛 △6二玉 ▲6八玉 △7二玉
▲7八玉 △6二銀 ▲5六銀 △5四歩 ▲5八金右 △5三銀
▲9六歩 △9四歩 ▲3七桂 △5二金左▲2五桂 △2二角
▲4五歩 △3五歩 ▲同 歩 △2四歩 ▲4四歩 △同 角
▲同 角 △同銀右 ▲4五歩 △3五銀 ▲8八角 △4四歩
▲同 歩 △同銀上 ▲4五歩 △5五銀 ▲同 銀 △同 歩
▲同 角 △2五歩 ▲1一角成 △3六歩 ▲3八歩 △3九銀
▲4九飛 △2八銀成 ▲4八飛 △4六桂 ▲2一馬 △3八桂成
▲同 飛 △同成銀 ▲5四馬 △3七角 ▲5三銀 △2四飛
▲6四桂 △同角成 ▲同銀成 △5四飛 ▲同成銀 △4五飛
▲3一飛 △5一歩 ▲8六香 △7一桂 ▲5六角 △4九飛成
▲3五飛成
まで79手で初代宗桂の勝ち
これだけでは、「何だ、簡単な話ではないか。4筋に銀を進め合う序盤の駒組みが、先手後手なのだろう」と思われるかもしれない。
しかし、『将棋綱目』を考慮に入れると、この解釈は成立しなくなる。『将棋綱目』冒頭部分は、定跡書になっており、2通りの先手後手を載せている。当時の呼び方は、「對馬駒組先手後手」。「對馬」は「たいま」と読み、「平手」の隠語だと伝えられる。
【先手後手パターンB】
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4三銀 ▲5八金右 △5二飛
▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉
▲9六歩 △9四歩 ▲5七銀 △6二銀 ▲4六歩 △3二金
▲1六歩 △1四歩 ▲3八飛 △6四歩
【先手後手パターンC】
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4三銀 ▲5七銀 △3二飛
▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉
▲5八金右 △6二銀 ▲9六歩 △9四歩 ▲6八銀 △8二玉
▲6六歩 △6四歩 ▲6七銀 △7二金 ▲4六歩 △6三銀
▲3七桂
お分かりいただけただろうか?
パターンBは、後手ツノ銀中飛車。これに対してパターンCは、後手三間飛車。現代将棋において、両者を同一名称で呼ぶ人はいないであろうし、さらに『将棋評判』で言及されている形とも、異なっている。
以下、みっつを併記する。
【パターンA】
【パターンB】
【パターンC】
さて、ここで勘のいい人なら、「先手後手とは、今で言う対抗型なのでは?」と考えるであろう。筆者も、それが正しいと思う。しかし、ここで別の問題が生じる。『将棋綱目』では、四間飛車が別項で扱われているのだ。
【四間飛車パターンA】
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀 ▲7八銀 △6四歩
▲6七銀 △6三銀 ▲7七角 △7四歩 ▲6八飛 △8四歩
▲4八玉 △6二飛 ▲3八玉 △4二玉 ▲4八銀 △3二玉
▲5六歩 △5四銀 ▲5七銀 △5二金右 ▲5八金左 △9四歩
▲9六歩 △1四歩 ▲1六歩 △7三桂
【四間飛車パターンB】
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲4六歩 △4二飛 ▲4七銀 △4三銀 ▲2五歩 △3三角
▲3六歩 △6二玉 ▲6八玉 △7二玉 ▲7八玉 △6二銀
▲5八金右 △8二玉 ▲3七桂 △5四銀 ▲5六銀 △7二金
▲9六歩 △9四歩 ▲1六歩 △1四歩 ▲2六飛 △5一金
▲3五歩
【四間飛車パターンC】
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲4六歩 △4二飛 ▲4七銀 △3三角 ▲3六歩 △6二玉
▲6八玉 △7二玉 ▲7八玉 △4三銀 ▲5八金右 △5二金左
▲2五歩 △8二玉 ▲5六銀 △5四銀 ▲3七桂 △7二銀
▲9六歩 △9四歩 ▲6八金直 △6四歩
これらは全て、「平手定跡四間飛車」という名称で呼ばれている。
現代風に分析すれば、上から順に、
先手四間飛車 後手右四間飛車
後手四間飛車 先手2六飛型
後手四間飛車(美濃囲い) 先手居飛車
となる。
パターンBの2六飛定跡は、当時流行っていたものらしく、1六歩〜3七桂〜2六飛の実戦譜が多く残されている。これについては、後日扱うことにしよう。
さて、こうなってみると、「先手後手が、ある単一の戦法名を指していた」とは、考えにくい。そこで、やや視点を変えて、次の可能性を考えてみよう。
『将棋評判』の評者の時代に「先手後手」と呼ばれていたものと、『将棋綱目』の編者の時代にそう呼ばれていたものとが、異なっている。
さきほど述べたように、『将棋評判』の出版年は1704年であるが、これは1663年に出版された『将棋鏡』の加筆再版本である。加筆というのは、まさに評=コメントの部分であるから、まずは、この評=コメントが、どの時代に追加されたのか、これを確定しなければならない。伝承によれば、三代宗桂と檜垣是安の合評であるらしいが、筆者は、この見解に与しない。その理由は次回論じるが、とりあえず筆者の研究成果として、以下のことが言える。
1 『将棋評判』の評は、三代宗桂と檜垣是安の合評ではない。但し、『将棋評判』を出版するときに急造した偽評でもない。
2 評者は不明であるが、17世紀中葉の人物であり、三代宗桂や檜垣是安と面識のある人物であった。あるいは少なくとも、両者の生前の発言を追える人物であった。
3 評者自身の棋力はそれほど高くなく、17世紀中葉の将棋観を反映している。
以上の3点を前提にして、話を進める。
まず2と3より、「『将棋評判』に付された評にある『先手後手』は、出版された時代には古くさいものになっていた」ことが言えよう。
そこで、
『将棋評判』の「先手後手」を旧先手後手(17世紀中葉〜後期)
『将棋綱目』の「先手後手」を新先手後手(17世紀末期〜18世紀初頭)
と呼ぶことができる。
このような分類で、以下の3者をもう一度見比べてもらいたい。
【パターンA】
【パターンB】
【パターンC】
確かに、新先手後手BCの方が、旧先手後手Aよりも整っている。
さて、ここからは推測になるが、『将棋評判』の評者が生きていた時代、つまり17世紀中葉から後期にかけては、まだ四間飛車などの概念が確立されておらず、「先手が居飛車、後手が振り飛車」の形を、一律に「先手後手」と呼んでいたのではないだろうか。つまり、この時代の「先手後手」は、「対抗型」のことなのだ。
ところが、18世紀初頭頃には、対抗型の中でも「四間飛車」が定跡化され、「四間飛車は独立した体系的戦法である」という意識が確立された。これは、『将棋綱目』で四間飛車のみが独立した対抗型として区別され、三間飛車や中飛車はそうでない、ということからも根拠づけられる。
ちなみに、本書で独立した項目として扱われているのは、
【左飛車】
先手四間飛車vs後手向かい飛車
先手三間飛車vs後手中飛車
=相振り
【石田流】
説明不要。
【お先】
角筋を開けた状態で、お互いに飛車先を交換する。
=相掛かり
となっており、三間飛車vs居飛車、中飛車vs居飛車は扱われていない。
では、このふたつは、どこへ行ってしまったのだろうか? 勘のよい読者ならば、既にお気づきであろう。そう、このふたつこそが、新先手後手で紹介されている指し方である。
したがって、次のように言える。『将棋評判』における旧先手後手は、対抗型一般を指していたが、『将棋綱目』の時代には四間飛車が独立したので、そこだけ意味しなくなった。一方、三間飛車と中飛車の対抗型は、一部の形を除いて独立しなかったので、『将棋綱目』においても、そのまま先手後手と呼ばれていた。
これが、最も辻褄の合う解釈であると、筆者は考える。この推論を裏付けるかのように、1717年出版の『象戯図彙考鑑』においては、もはや先手後手なる駒組みは登場せず、代わりに中飛車が紹介されている。
以下、図式化してみよう。
17世紀中葉〜後期
旧先手後手 = 対抗型一般(四間飛車、三間飛車、中飛車)
↓ 四間飛車の定跡が整備され、独立した戦法と認識される。
17世紀末期〜18世紀初頭
新先手後手 = 旧先手後手 − 四間飛車 = 四間飛車以外の対抗型
↓ 中飛車なども全て独立する。
18世紀初頭〜
先手後手という一般概念は消滅。
以降、それぞれの具体的な戦法名で話が進む。
というわけで、雁木と同じくらい古い名称であった先手後手が、いかに発展的に解消されてきたか、という歴史を見ることができた。愛棋家の方々に少しでも楽しんでもらえたならば、これに勝る喜びはない。
……と、これで話は終わりなのだが、少々雑談を。一般概念が解体されて、個別的な概念を中心に議論が進む、というのは、それはそれでひとつの進歩である。しかし、その逆、個別的な事象を一般概念で扱う、というのもまた、ひとつの進歩ではないだろうか。そのように視点を切り替えてみると、現代は17世紀の知見に回帰しているとも言える。なぜなら、現代では、居飛車vs振り飛車のことを全て、対抗型と呼ぶからである。これぞまさに、現代に復活した先手後手の概念。居飛車vs振り飛車があまりにも多いため、対抗型の一言で意味が通じてしまうように、当時も「先手と言えば居飛車、後手と言えば振り飛車、だから先手後手と言えば居飛車vs振り飛車」というように命名したのかもしれない。想像の膨らむところである。
先手後手を解体した江戸中期の将棋指しが偉大なことに違いはないが、彼らは「居飛車vs振り飛車には、四間であれ三間であれ中飛車であれ、共通性がある」という古人の捉え方を、一緒に否定してしまったようにも見受けられる。その共通性を再度繋ぎ合わせて、全てを「振り飛車」で統括したものは何だったのか……大いに気になるところである。
『将棋評判』の評については、ウェブサイト『温故知新』様のものを引用させていただきました。
http://onkotisin.org/teai/hyouban/hyou3.htm