表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

朝食

作者: 千葉





 何度も同じ旋律を繰り返しては涙している。

 我々は同じ個体ではないから、こうして無意味な哀切に煩わされなければならないのだ。



 いつだってぼんやりとした不安が付き纏っている。それはなぜ?


「今日、仕事ヤマだから。多分帰れない」

「仕事、」


 彼はトーストを齧りながらそう言って、私はそれを反復した。今日の夕食は一人か。一人だと、食事を作ることはおろか、食べること自体が億劫になってしまう。一人でする食事はまるで何か、義務感からそうしているような、決まった時間に餌を与えられてそれを疑いもせずに食べる家畜のような、そんな気分になる。


「明日の朝一で帰れると思うから、一応ごはん、用意しといてね」

「一晩働いて、朝帰りして、その日の朝ごはんにこんな美味しいウインナーが出てきたら、もうよそで朝ごはん食べる気無くなっちゃうところだったね」


 今朝の献立は、いつも通りのトーストとスクランブルエッグ、そこに更に、先日お歳暮で頂いた高級ウインナーが添えられていた。たった二本ずつのウインナーとはいえ、いつもの食卓がかなり豪勢に見える。パンパンに張ったその薄皮にフォークを突きたてながら、このささやかな贅沢を与えてくれた送り主に二人して感謝を述べあったところだ。


「まだ残ってるし、明日の朝も出せるだろ?」

「こんなにいいもの毎朝食べたら、体がびっくりしちゃう」


 二本目の、つまりは今朝最後のウインナーにフォークを向けながら私は言う。仄かにハーブの香る上品なウインナーは、絶対に自分では買ったりしないものだ。大事に大事に、賞味期限いっぱいまでねばって食べたい。

 フォークをウインナーの腹に当てると、柔らかな抵抗を指先に感じる。刺さないで、当てたまま、ころころと転がした。私は好きなものははじめに食べてしまうタイプだ。皿の上にはまだ、玉子もトーストも食べ掛けのまま残っている。彼の皿は、玉子はもう綺麗に片付いている。トーストもあと一口、ウインナーはあと一本。転がるウインナーを見て、彼は小さく笑う。ああ、いつもの朝だ、と私は思う。


「ちゃんと一人でもごはん食べるんだよ」

「食べてるよ」

「嘘、分かってるんだから」


 あなたが居なければ食事も咽喉を通りません、なんて乙女チックな話ではない。お昼ごはんは職場でしっかり食べるだろうし、おやつだってたくさん食べるだろう。興味が無くなってしまうのは晩ごはんだけだ。可哀想な晩ごはん。


「ちゃんと、食べるんだよ」


 彼はさっきよりもゆっくりと、同じことをもう一度言う。晩ごはんを食べなかったなんて、言ったことないのにな。わざわざごはんを食べた痕跡を探られたことだって無いはずだ。些細なこととはいえこうして何かを見通されるたびに、私は静かに安堵している。平然とした顔をしながら、喜びのため息を心中で深く吐き出しているのだ。


「夜中に確認の電話をしよう」

「無駄なことに時間を使わないで、真面目に仕事しないと駄目ですよ」

「嫁の健康を心配することの何が無駄だというのだ」


 そう言って彼はまた笑う。いつもの顔だ。こんなにも優しい人のことを、私はどうして疑うのだろうか。こんなにも誠実に私のことを見守ってくれる人のことを、どうして。


「ねえ、」

「なあに」


 彼はトーストの最後の一口を飲み込みながら、首を傾げた。その首筋と襟元の辺りに、窓から射しこんだ朝の光が溜まっている。その光は食器や、テーブルの上にも降っていた。テーブルクロスを白にして正解だったと思う。彼の瞳は静かに凪いで、私の言葉を待っていた。私は彼のその目と、朝の光を順番に眺めて、それから言葉を飲み込んだ。ごくり、と唾と一緒に飲み込んだ。


「お仕事、がんばってね」


 代わりに捻りだした言葉は、それなりにそれらしかった。彼は笑って頷いた。

 必ず彼は帰って来るのに、私はいつもまるでこのまま夜が明けないのではないかと思うことがあるのです、などと。だからあなたが乗るはずの始発列車はいつまでも動き出さないのではないかと思ってしまうのです、などと。きちんと夜が明けて電車が動いてあなたがこの家へ帰ってきても、それは元のあなたではないのではないかと思うことさえあるのです、などと。そう思ってしまうのはすべて、私に自信が無いせいなのです。私がどうしても心から誰かを信頼し、安心しきることが出来ないのは、私の自信の無さに由来しているのです。しかしこれは、朝の光の中でする話ではない。だから私はウインナーにフォークを突きさして、それと一緒にこの言葉をもっと奥まで飲み下してしまうことにする。


「明日の朝もウインナーにしてあげるよ、お仕事がんばったご褒美」

「やった、俄然やる気が沸いてきた」


 ああ、いとしのいつもの朝よ。私は仕上げにコーヒーを啜って、柔らかな陽光を全身に享受した。










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ