(4)
話し疲れていつしか眠ってしまった二人を起こしたのは、地下室の天井に響く、重たい酒樽を動かす音だった。
カサネが顔を覗かせ、静かに中へと下りてくる。扉の隙間から僅かに見えた店内は夕日色に染まっていた。
「夜にもう一度、軍人がここに来る。ミスギは今すぐ出て行ったほうがいい」
カサネはミスギの目を見ず一方的に言い放つ。
「……彼女は」
ミスギは、自分の後ろで膝を抱えて座るニジを見た。ニジは何も言わない。カサネの視線も鬼へと移り、
「予定通りだ。売る」
事務的に告げる。
「カサネ!」
「俺には鬼を助ける義理はない。これまでどおり金を稼ぐ。俺はただ家畜を売って生きていくだけだ」
一切の感情を排除して、カサネは突きつける。どうして、とミスギの唇からこぼれ落ちた言葉が拾われることはない。
「お前の両親、殺したのは、鬼じゃないって――」
ミスギはもう一度、苦い真実を口にして、カサネの肩を掴み揺さぶった。
「わかってる」
カサネはその真実を疑っているわけではない。ミスギが嘘をつかないことを知っている。
「お前のことは助けるよ。友人だから。でも、鬼は違う。結局は敵だ。俺は敵を助けて狩人に殺されるなんて御免なんだ」
カサネの中で変わらない本質。鬼と人は違うもの。それは一般市民みなが持つ意識で、カサネだけが責められる類のものではない。
しかし、ミスギは違う。今日一日、ニジと話をして知ってしまった。鬼も人と変わらないことを。
敵とは何だ。
殺されて、殺して、また殺されて、殺して殺して、殺されて殺されて、繰り返し、終わりなく、空と地の間を血で隔て、向き合うことなく、どちらかが滅びるまで。
敵とは誰だ。
「……『助けて』って、言ったんだ。初めて会ったあの時、この子が俺の腕を掴んで、小さな声で、助けてって言ったんだ……。放っておけるのか、お前は。狩人に追われてる俺のことは助けてくれたのに、この子のことは助けないのか?」
ミスギは怒りと悲しみのバランスを取りながら、強い口調で迫る。どちらか一方が増えると泣き出してしまいそうだった。
カサネにもわかってほしい。これ以上、鬼を傷つけないでほしい。
「お前と鬼を一緒にできるかよ」
ミスギの願いは、カサネには届かない。吐き捨てるように否定する。
「一緒だよ」
「違う」
「カサネ」
「絶対に違う! ……どうしてわからないんだ」
肩を掴んだままだったミスギの手を、思い出したように、カサネは乱暴に振り払った。駄々をこねる子供のようだった。
ミスギは困ったような顔で、カサネの頭に手を伸ばす。幼子をあやすように撫でる手は拒絶されなかった。
「わかれよ、ミスギ……好きなんだ。俺は、お前が……」
苦しい思いを絞り出す。
カサネの真実。
鬼が憎いのではない。
彼女が鬼だから、助けないのではない。
ミスギを愛しているから、彼を奪った鬼の少女が憎い。
「一緒だよ、カサネ。俺はこの子のことが好きだから助けたい。お前のことも好きだ。だからこれ以上、自分を傷つけるようなことをするな。頼むから」
カサネの告白を聞いても、ミスギは彼の頭を撫でることを止めなかった。驚くこともなく、受け入れることも否定することもせず、ただ「わかってた」と頷く。
「……気づいて、たのか」
恐る恐る、カサネは顔を上げた。目の前の幼なじみの眼差しはいつも変わらない。真っ直ぐで、純真で、曇りない。
「俺も、カサネが好きだ」
頭を撫でていた手で後頭部を掴み、ミスギは唇をカサネのそれに押し当てる。カサネは数度瞬いた。ミスギの真っ直ぐな目が、静かな情熱を携えた目が、近すぎる距離でカサネを射抜く。乾いた唇が離れ、切なくなったのも束の間、
「……はっ! なんて奴だ……」
(俺を好きだと言った唇で、)
同じ唇で、ミスギは鬼の少女にも同様の行為をした。少女は大きな目を自然と閉じて悲しげに微笑んだ。
「俺は行く。お前も、彼女も一緒に連れていく」
ミスギの目は本気だ。馬鹿げているとカサネは鼻で笑い、首を横に振った。そんなのは御免だ。三人で仲良くハッピーエンドは有り得ない。
「行けよ。その子連れて、さっさと行け」
にわかに外が騒がしくなる。軍人が予定よりも早く来たようだ。
カサネが、狭い地下室の壁に設えてある戸棚の一つを横に押しずらす。くり貫かれた壁の空洞は、人がやっと歩いて通れる程度の大きさの抜け道だ。
「カサネ……」
「早く行け。町の外まで、誰にも見られずに行ける」
「お前も一緒に来るんだよ」
「無理だ」
「嫌だ!」
今度はミスギが、聞き分けのない子供のように叫ぶ。
「どちらもは選べないんだ」
鬼か、人か。
そんな難しい話ではない。もっと単純な。
(俺か、その子か)
「……ごめん。カサネ、ごめん。ごめん、俺はっ」
それは、どちらから交わした口付けだったのか。
先ほどのよりもずっと軽く、触れた箇所もわずかなものでしかなかったけれど、焼けるように熱くて。
さようなら。
暗い道の向こうに鬼とともに消えていく幼なじみの姿などいつまでも見ていたくはなかった。元の位置に戻した戸棚に寄りかかる。
(これで、いい……)
カサイの熱い唇からもれる小さな嗚咽は、乱暴に開け放たれた扉から入ってきた軍人によって、すぐに苦痛の呻きに変えられることになった。