(3)
「逃げよう」とミスギは言った。軍人に追われる立場になってしまった以上、ミスギはもう家に帰ることは叶わない。
カサネは「待ってくれ」と頼んだ。
答えの出ないまま夜が明けた。
地下室へと二人分の朝食を運んだ時に「今日は店を開けない。少し、出てくるから」と一方的に告げたカサネは、今、死んだような目で町を歩いている。
どこにいけばいいのかわからない。それなのに足は勝手に、ミスギの家へと向かっていた。
辿りつけるかどうかもわからないのに。案の定、ミスギの家の周りには人垣ができていた。
大きな門が開き、軍人たちが物々しい様子で出てくる。ミスギの両親の姿は確認できない。
軍人の先頭に、頬に傷を持つ男がいた。一際大きな体躯と重たげな鎧を纏って、真っ直ぐにカサネの方へと歩いてくる。
カサネはおもむろに懐からペンを取り出し、狩人の前へ進み出ると、膝をついて恭しくそれを差し出した。
「昨夜、私の家を調べに入られた際、落とされませんでしたか?」
カラタチは足を止め、カサネを一瞥。後ろの部下に「先に行け」と言ってから、確かめるフリをしてペンを手に取った。
「……今夜もう一度、お前の店を調べる。俺は同行できない。……このペンは俺のではないようだ」
カサネの欲しかった情報を与えてくれたカラタチは、ペンを返し、早足に立ち去っていく。
最も懸念していた事だった。ミスギが一番親しくしていた友人は、カサネだ。幼なじみが鬼助けに関わっていたのならば、カサネとて疑われているに違いない。
今、狩人が踏み込んで来たとして、地下室にミスギと鬼の両方を見つけた時、彼らはどんな風に思うのだろうか。
カサネも鬼助けのグルだと思うに違いない。助けた鬼を匿っているのだと。
ミスギと鬼さえ見つからなければ、カサネは言い逃れができる。鬼に両親を殺された子供が、鬼助けなどするはずがないのだから。自身の傷を利用するのは良い気分ではないが、やむを得ない。
取るべき道は決まっている。しかし、店に戻るカサネの足取りは酷く重たかった。
地下室の中の一人と一匹は、静かに夜明けを待ち、厳かに食事を済ませた。鬼の口を塞ぐ猿ぐつわは食事の前にカサネが外した。両手を縛っていた縄も、同時に。
鬼は攻撃する様子もなく、ただ黙々と、ミスギと同じ食事をとり、同じ茶を啜っている。
「君……名前は? 俺はミスギ」
椀を置いたタイミングで、ミスギが口を開いた。
鬼の少女は躊躇いがちに薄い唇を動かし、「ニ、ジ」と伝える。
「ニジ……。聞いてほしい。カサネは、さっきの男は俺の友人で、君に酷い事をしたけど、本当は悪い奴じゃないんだ。子供の頃に凄く悲しい思いをして、それで……」
カサネのしていた事を、まだ、ミスギ自身信じられない。それなのに彼女に許してほしいなどと。虫のいい話だと気づいて、続く言葉を見失う。
「お話は昨夜聞こえておりましたので、事情はわかっているつもりです」
想像よりもずっと聡明そうな声が少女の口から発せられて、ミスギは驚いた顔をした。少女は頬に落ちる髪を子供らしくない仕草で耳にかけ、少しばかり険しい表情を見せる。
「ですが、私への仕打ちはともかく、同胞へのこれまでの扱いを、私は決して許すことはできないのです。あの方の生き方に多少の同情の余地はあっても……。私が、鬼であるがゆえに。……理解していただけますか?」
凛とした目で訴える少女の言葉には迷いがない。彼女は自身の置かれた立場をよくわかっている。これから先、どうなるかわからないこの状況下でさえ、鬼に両親を殺されたと思っていたカサネの心情に理解を示し、そして、カサネに対して迷いのあるミスギの心をも見抜いている。完敗だった。
「君の言うとおりだ。……鬼は、人を憎んでる?」
ミスギの問いに、鬼は浅く頷く。
「そういう同胞は、たくさんいます。あの方と同じように、近しい者を人に殺されたらそうなります」
「ニジは?」
次いで個人的な感情を問われた少女は、少し考え、言葉を選ぶ。
「恐怖の対象ですが、憎しみとはまた違います。あなたのような、不思議な人もいる……」
少女が僅かに微笑んだので、ミスギはその顔から目を離せなくなってしまう。異人の目の色に、囚われてしまう。
ミスギは何事も熱中しやすい性格だと自覚がある。恋愛でもそうだ。惚れやすく、一度惚れるとほかの何も目に入らなくなる。
(カサネの言ったとおりだった)
鬼に惚れた顔だとカサネに指摘された直後は自覚などなかったが、今ならばはっきりとわかる。
鬼の少女は美しく聡明で、そして強かだ。
視線を外す、ただそれだけの動きに随分と苦労した。
「俺だけじゃない。何人かで、捕らえられた君の仲間を逃がす活動をしてるんだ」
ミスギの活動は当然、軍人に見つかれば極刑に値する。元々、鬼を助けることに献身的な理由があったわけではない。無益な戦いを止めるため、兄を切り捨てた狩人たちに復讐を果たすため、ゲヒシテを求める暴君の目論見を阻むため。
彼らがこれほどに人に近いとは、思ってもみなかったのだ。ミスギだけではない。恐らく、この国の誰も気づいていない。気づいていながら隠匿し、あらゆる富や欲のために鬼を利用している一部の権力者を除いては。
ミスギ自身、鬼とまともに話すのはこれが初めてだ。
「先日、捕らえられた鬼の子が人に助けられたと話しておりました。あの子も、あなた方が……?」
ミスギが力強く頷くと、少女の目が驚きに見開かれる。明かりの少ない部屋の中でも静かな輝きを放つ彼女の目は水晶のようだと思った。
彼女の問いを皮切りに、ミスギとニジは多くのことを話した。互いの知る、人と鬼に関する認識と感情、歴史としがらみ。誤解や偏見も多く、真実を知るたびに二人は沈黙した。
もっと早くに知っていれば――しかし知ったところでどうにもできないほど、赤い血に濡れた悲しみは根深く、二つの種族を分かつ壁が高いことを思い知る。空と、地ほどに。