(2)
ある晩、眠りについてすぐ、店の扉を叩く音にカサネは起こされた。何事かと身を起こし、枕元の燭台の蝋燭に火を灯す。
「……カサネ、カサネ……!」
扉越しに顰めた声で名前を呼ばれ、カサネは迷わず扉を開けた。ミスギの声だとすぐにわかったから。
「どうした? こんな時間に……ミ、スギ!?」
すでに日は越えている。扉が開くなり体を割り込ませるようにして中へと入ってきたミスギはそのまま、前のめりに床へと倒れ込んでしまう。
「ミスギ! おい、大丈夫か?」
体に触れて抱え起こそうとすると、ミスギは小さく呻いた。手に触れたなま暖かい感触。蝋燭の明かりに照らされた床には黒い染みが見てとれた。
「怪我、してるのか……なんで、」
カサネの問いには外から聞こえてくる怒号が答える。
「探せ! まだその辺に隠れてるはずだ、炙り出せ!」
複数人の、統率のとれた重たい足音と命令する声はすぐに軍人のものだと知れる。
足音は徐々に近づいてくる。カサネはまず灯りを吹き消した。しかし中に入って探されたら、すぐに見つかってしまう。
家の中でミスギを隠し通せる場所があるとすれば、一カ所だけ。
カサネは迷った。ほんの一瞬、幼なじみを天秤にかけた。
「動けるか? 少し、我慢しろよ」
引きずるようにしてミスギを運んだ先は、重たい酒樽の下に設えた扉の奥――地下室だ。
明かりはない。暗闇の奥で紫の光が二つ灯ったような気がしたが、カサネは気づかないフリをした。ミスギにはここで我慢してもらわなければいけない。
扉を締め、酒樽を戻して寝所へと戻る。途中で、店の扉を乱暴に叩く音がした。
数秒、間を置いてから戸口へと向かう。
「誰だ」
「開けろ。この辺りに賊が紛れ込んだ」
驚いたことに、聞こえてきた声はカラダチのものだった。
カサネは、自分の運の良さと判断の成功にいっそ拍手を送りたくなる。カラタチは当然、カサネが鬼をどこに隠しているか知っていた。
カサネは従順な一般市民の体をして、言われた通りに扉を開ける。床に残る小さな染みを靴の裏で隠しながら。
「物騒なことですね。こっちには来なかったようですが」
「念のため、中を調べさせてもらう」
カラタチと数人の部下たちは軍人らしいやり方で踏み込んできた。問答無用で寝室を暴き、小さな天袋まで覗いて。部下の一人が酒樽を動かそうとしたその時だ。
「ここはもういい。次に行くぞ」
タイミングよくカラダチが命を下す。
狩人が立ち去り、静寂が戻ってきてしばらくしてからカサネは地下室への扉を開けた。そこにはやはり、燃えるような目をしたミスギが何かを言いたげな顔をして待っていた。
だからカサネは先手を打つ。
「何しでかしたんだ」
「……迷惑かけるつもりはなかったんだ」
案の定、ミスギは申し訳なさそうに肩を落とす。問いへの答えになっていないことを知りながら。
「そうじゃねえだろ。ただ事じゃねぇんだぞ! 軍人に、それも狩人に追われるなんて……どういうことなんだよ説明しろ!」
思わず伸びたカサネの手は、ミスギの肩を掴む。怪我人であることは忘れていた。ミスギは苦痛に顔を歪めたが、カサネの行為をとがめない。彼が、自分を心配しているのだということは十分にわかっていたから。
「鬼を助けてるんじゃないか……って、ほとんど強制的に連行されそうになった」
「馬鹿な! なんでお前がそんな事……」
一蹴したはずの事実が、ミスギの真摯な眼差しに跳ね返されて真実へと変わってしまう。
「まさか……助けた、のか?」
鬼を。
声にならない問いを投げる。頼むから肯定だけはしてくれるなとカサネは祈りながら、しかしいつも実直な幼なじみが嘘などつかないことは十分にわかっていた。
「嘘だろ。どういう事だよ!」
「お前こそ、どういう事だ! これは!? 何故、」
再びミスギの目に炎が燃え盛る。地下室の隅、暗闇に光る紫を指差して、ミスギが問う。
「何故、彼女がここにいるんだ」
「そんな風に呼ぶな。あれはただの鬼だ。俺の、商品だ」
反射的にミスギの腕が動いた。怪我をしていない方の右手が、カサネの頬に痛みを与える。
殴られた勢いでカサネの体は後ろへ仰け反ったが、ミスギの肩を掴む手は離れなかった。
口の中に広がる鉄の味に、カサネの咽の奥からどす黒い何かが湧き出てくる。静かに戻したカサネの表情は、完全にいつもの冷静さを欠いて、
「あいつらは鬼だ!」
激情に任せるまま叫ぶ。
「違う、カサネ。お前の思ってるのは、違う」
「何が違う! あいつらは殺したんだ」
カサネの奥深くでヘドロのように堆積した憎しみが溢れ出す。
「聞けよ、カサネ!」
「はっ! 俺の両親を殺した奴らを利用して、生きて、何が悪い! 復讐だと喚いて殺すよりよっぽど建設的だろう!?」
一矢報いる事ができるとすれば、これしかないとカサネは信じている。
ミスギは答えなかった。責めるわけでも窘めるわけでもなくただ、哀れなものを見るような目で、
「カサネの両親を……殺、したのは、鬼じゃない」
ミスギの震える声が、嘘をつかない真っ直ぐな目が、真実を告げる。
それでもカサネは「嘘だ」と呟いた。
「本当だ。俺の兄者も、鬼に殺されたんじゃない。兄者は気づいてしまったから……鬼と戦うことの無意味さに。この国のカラクリを知ってしまったから、消されたんだ。……狩人に。同じ、人に。――兄者は殺される前に調べていた。カサネの両親の死は、俺たち市民に鬼が怖いものだって意識を植え付けるために利用されたものだった。殺したのは鬼じゃない。だから、カサネは鬼を憎まなくていいんだ」
カサネの目はもう、ミスギを見ていなかった。その肩越し、暗い壁に寄りかかり怯えた表情を見せる鬼の少女へ。
「俺は……俺は……一体、誰を憎めばいいんだ……」
ミスギは首を横に振る。カサネには誰も憎んでほしくない。それがミスギの答えだったが、それを口に出すのはあまりにも酷で、薄情だ。
もっと早くに気づいて止められたならば、という後悔と、今もまたどうすることもできない憤りを胸に、ミスギはただ黙って、慟哭するカサネを抱きしめた。