(1)
人が、恋に落ちる瞬間を見てしまった。
その時、ミスギのくっきりとした形の良い両目が見開かれたことに気づいたのは、幸いにも隣にいた幼なじみだけだった。
夕刻のことだ。カサネは買い出しから帰る途中で、配達中のミスギと偶然会った。ちょうど良かった、手間が省けたと喜ぶミスギは鞄から一通の手紙を取り出してカサネに手渡す。白い封筒だ。
「最近多いな」
ミスギは郵便配達の仕事をしている。ああ、と気のない返事をするカサネに、
「女?」
とミスギが形の良い目を細めて揶揄う。
「まあな」
「嘘つけ」
「なんで嘘だと分かる?」
「分かるさ。何年の付き合いになると思ってんだ?」
ミスギに言われて、カサネは数えるフリをしてみる。本当は数えるまでもない。自分の年齢がそのまま、ミスギと過ごした年数なのだから。つまり、二十四年間だ。
「ま、誰でも良いけど差出人に名前くらい書くように言っておけよ。万が一返送しないといけなくなった時に困る」
友人の注意に生返事をして、カサネは手紙を自分の鞄へとねじ込んだ。
風が吹いたのはその時だ。
そして鈍い音がした。音の発生源が頭上だと気づいた二人は空を見上げる。
「あれ……まさか、鬼……?」
「鬼だ」
頭上に広がる茜色の空は、いつの間にか戦場に変わっていた。否、狩場と言ったほうが正しい。一匹の鬼の四方八方を狩人が取り囲み、少しずつ距離を詰めていく様はまさに獲物を捕らえる最終段階。
狩人の槍が鬼を追いつめる。しかし鬼も大人しく捕まる気はないようで、唯一逃げ道の空いていた足下へと、つまり、ミスギたちのいる地上へと狙いを定め風を切る。狩人たちがそれを見逃すはずはなかった。逃げる鬼の背中に投げつけた槍は、寸でのところで避けられてしまう。それでも、鬼の体勢を崩すには十分だ。
重力を操り空を飛ぶ力に何らかの影響があったのかもしれない。
鬼が――鬼の纏う、まるで重量を感じさせない純白の絹が――二人の目の前に落ちてきた。質の良さそうな衣がミスギの鼻先を優雅にかすめる。雨の匂いがした。
次いで、ミスギはこの世のものとは思えぬ生き物をまともに見てしまう。瞬いた両眼は長く濃い睫に縁取られ、僅かに濡れていた。白い肌は痛々しいほど夕陽色に染まり、まるで血を浴びたようだ。生気のない唇が動いた。その細い喉から絞り出された小さな声はミスギの耳だけに届く。鬼の手がミスギの腕を掴む。皮膚に爪が食い込んでいたが、ミスギは動けなかった。
「ミスギ!」
代わりにカサネが叫び、狩人の手がミスギから鬼を引き剥がす。捕獲用の縄にかかった鬼が、悲鳴を上げた。空気を裂くような高い声で。
「おい、ミスギ! 大丈夫か!? しっかりしろっ」
体をゆすぶられてようやく、ミスギは正気を取り戻す。焦点の定まらないミスギの視界の端に、大柄な狩人の男が見えた。チームの長だろう。一際立派な鎧を見に付け、屈強そうに見える。
男は厳しい顔つきで二人に近づいてきた。頬を真横に切り裂く鋭利な傷跡がまた、男の威圧感を増していた。
「怪我はないか」
気遣う言葉は感情を伴わない。
答えられないでいるミスギの代わりにカサネが頷くと、狩人はすぐに仲間の待つところへときびすを返した。
「今、の……」
ミスギの目は狩人を見ていない。今や意識を奪われ、弛緩した体を狩人に抱えられている鬼を凝視したまま動かない。
「驚いたな。……どうした? 魂でも食われたか?」
狩人たちはもう、捕らえた鬼を連れて空へと駆けあがっている。ミスギの視線はそちらを追っていた。空へと消えていく、鬼を。
「……たまげた」
ミスギの視線の先と、どこか現実味を帯びない声と、目の色を見て、カサネは頭を抱えたくなった。
「おいおいおいおい勘弁しろよ」
「何が?」
「すっとぼけんな。お前の今の顔、姉貴に一目惚れしたと時と一緒だ」
「――まさか」
自覚のない幼なじみは、しかし思い当たるふしはあったようで顔を隠すようにして掌で口元を覆う。
「確かに、恐ろしく綺麗だったけどな」
カサイは認める。鬼の、得体の知れない不気味さは時に妖艶に変わる。人ではないからこそ魅力的で、どうしようもなく惹かれていく。危険すぎる。
あれは鬼だ。
カサネの目の前には、未だ惚けたままの幼なじみの顔がある。
「あの子、どうなるのかな」
「殺すに決まってるだろ。あと、あの子とか言うな。あれは鬼だ。役人にでも聞かれたら良いことになんねぇぞ」
「わかってる。どうすることもできない」
わかっていない顔だとカサネは思ったが、言わなかった。ミスギの真っ直ぐなまなざしを見たら、言っても無駄だと思った。
「お前が狩人になれてりゃどうにかできたかもしれないけどな」
容赦のないカサネの言葉に、ミスギは痛そうに顔をしかめる。
ミスギは無重力を使えない。彼の家は代々多くの狩人を供出しているが、空を飛べないミスギはいわば落ちこぼれだった。
「いいんだ、もう。……配達しないと」
「頑張れよ」
カサネと別れた後、ミスギはもう一度空を見上げた。鬼の姿はもう、見つけることができなかった。
カサネは酒屋を営んでいる。子供のころに両親を亡くして以来、姉と一緒に切り盛りしてきた。ミスギの告白を断った姉は五年前に薬屋の息子に嫁いだので、カサネは今、一人だ。
ミスギから受け取った手紙を開いたのは、夜になってからだった。なじみの客からの注文書だった。
ただし、酒ではないほうの。
手元に燭台を引き寄せ、条件を確認する。
不意にその灯りが揺らめき、風の訪れを知らせる。顔を上げると、開いた戸口を塞ぐように大きな男の影があった。
「閉店だぞ」
「そんな儲からない商売は辞めたらどうだ」
カサネの抗議の声は関係ないとばかりに、男は店の中に踏み込む。燭台の明かりに、狩人の鎧が鈍く光った。
「今日はどうした? 狩人さんたちでお疲れ会やるために酒を注文しに来た訳じゃないんだろう?」
この狩人が店に来る時、用件はいつも決まっている。近づいた男の背に、あさぶくろが見えた。
「一匹引き取ってくれ」
狩人はカサネの足下にあさぶくろを投げて寄越す。あさぶくろの中から呻く声が聞こえ、幾度か袋が跳ねたが、すぐに静かになった。
「生きてるのか」
問いかけたカサネは、先ほどの手紙の中にあった注文書の条件を思い出す。一つは、生きていること。ちょうどいい。
「取れたてで活きがいい。見目も悪くない」
狩人は付け加えながら、かがみ込んで浅袋の口を開けた。まさか、とカサネは覚悟する。
袋口から覗いた鬼の顔は、覚悟をしていても、直視するには勇気が必要だった。
半ば諦めながら確認した鬼の顔にはやはり見覚えがあった。つい夕刻、ミスギが一目惚れした鬼は、濡れた目でカサネをいぬく。猿ぐつわで口を封じられてもなお、美しいことに変わりはなかった。
カサネは鬼の売人だ。酒屋を隠れ蓑に、文字通り鬼を売る。
買い手はさまざまだ。見せ物目的もあれば、完全に変態の域を越えている者もいる。死体でも相当の値が付くのだ。生きていればなおさらのこと。
カサネ自身は鬼には興味がない。こんな恐ろしい生き物を買う客の気が知れないと思いながら、商売にしているのだから文句を言う筋合いもない。
鬼はアルコールやタバコと同じ趣向品、というのが商売人らしいカサネの考えだった。
鬼を捕まえても処分の手間がかかるばかりの狩人にとっても、カサネのような売人の存在は必要なのだ。決して公にはできないが、上の方の人間は知っていて黙認しているのが実情らしい。
今夜鬼を運んできた狩人、カラタチは鬼の代金のほかに酒も所望した。
「珍しい。酒は傷に障るんじゃなかったか?」
「もう完治した。グラスを――」
カラタチの頬に残る傷は、先の戦いで鬼の爪につけられたものらしい。
「ここで飲むのか」
「つき合え」
一介の酒屋であるカサネと、狩人の中でも上に立つカラタチは、本来ならば決して旨酒を酌み交わせる間柄ではない。突然の申し出に、カサネは嫌な予感を覚えたが断ることなどできるはずもなかった。いくら取引相手とはいえ、狩人と対等な関係が築けるはずがない。
何かがある。緊張を保ったまま飲む酒は不味い。
カサネがなかなか減らない時分のグラスの中身を見つめる一方で、カラタチはというと、その見た目を裏切らない飲みっぷりで杯を干していく。
「お前の売った鬼が逃げたらしいな」
最初に覚えた嫌な予感は、カサネがようやく一杯目を空にしたところで現実となった。
覚えのある話に、唇を横に引き結ぶ。
「餓鬼でも鬼は鬼だ。油断して、ちゃんと縛っておかないからそういうことになる」
責任をこちらに押しつけられてはたまらないとばかりに、カサネは憮然と言い切った。
が、カラタチの言わんとすることは別にあったらしい。
「知っているか。最近は鬼を助けようなんて酔狂なことをやってる連中がいるらしい」
カラタチの、狩人の目がカサネを捉える。ここで視線を逸らしたら終わりだとカサネは本能的に悟った。
揺さぶりをかけて、僅かでも怪しい素振りを見せればきっと、狩人は容赦なく捕まえにくるに違いない。
「何が言いたい」
「餓鬼をつないでいた縄は切られていた。……お前が関わっていないならばいい」
「はっ! 鬼を売って儲けてる俺が鬼助けか。――笑わせるな」
カサネの声は低く、カラタチを見返す目には侮蔑の色が混じっていた。そうだな、と頷いた狩人が果たして本当に納得したのかどうかはわからない。
ミスギが生まれる何百年も前から、人は鬼を狩っていた。「鬼に近づいてはいけないよ」と子供の時分から教えられてきたカサネと違い、ミスギの家では「鬼を殺して功績を上げろ」が常だった。ミスギ自身は無重力を使えなかったので、言われていたのはいつも年の離れた兄だったが。
両親の期待どおり狩人となった兄は、二年前に死んだ。鬼との戦いの中で鬼にやられたのだと教えられた。
配達員となったミスギは、命をとられることなどなく平和な日々を過ごしている。危険らしきものがあったとすれば、先日の鬼との遭遇劇くらいだ。しかしあれは危険というよりも……。
頭の中によみがえる鬼の姿を消し去ろうとでもするようにミスギは頭を大きく振るうと、配達の続きを再開する。
配る手紙の中に、カサネ宛の白い封筒を見つけた。また、差出人の名前がない。
鬼に惚れたのだと指摘した悲しい幼なじみの顔を思い出す。
カサネの両親は、鬼に殺された。
元々この辺りは鬼があまり出ない地域で、どこかのんびりした気風と活気のある商人が上手く同居する町だった。
狩人とも関わりなく、ただの酒屋でしかなかったカサネの両親がなぜ殺されなければならなかったのか。
平和な町はざわめき立ち、人々は外出を控えるようになった。不安に駆られた町は、中央に特別支援を申し出る。金を出すから自分たちを守ってくれと。