飛び火
栄のオフィスへ向かう東山線は今朝も人込みで渋滞している。
神路優坂、三十二歳。
毎朝同じ時刻に家を出る。同じ車両に乗って同じ改札を抜ける。
気づけばそんな生活を何年続けているのかもわからなくなっていた。
仄暗い地下鉄をぼんやり照らす白熱灯。通りを覆う疲れた顔の老若男女。
代り映えのしない景色を通り過ぎて、いつもと同じ改札を抜け、同じ車両の前に立っている。
人混みに押され、いつもの車両にのまれようとしていると、いつも通りでない彼女が車両の入口付近に立っていた。
扉側の手すりに届くか届かないかほどの背丈 、華奢な彼女は焦げ茶色の寄れたTシャツに灰色のスウェットパンツを履いていた。
鎖骨まで伸びた髪は毛先が痛んで美しいとはいえない程だったが、不思議と彼女に目を奪われた。
ひどく疲れたような、それでいて不安もありそうな、そんな表情を浮かべる彼女の肌は蒼白という言葉を体現しているかのようだった。
彼女を眺めていると一瞬目が合ってしまったが、何とか押し入ろうとするサラリーマンに後ろから押しやられて彼女の横に立っていた。
電車が動き出し、何気なく彼女のほうに目をやると揺れる車内で彼女は小説を読んでいた。
何を読んでいるのか気になり、気づけば目で追っていた。
数ページ眺めただけだったが、働くうちに何かをすり減らしてしまったそんな誰かの物語のようだった。
何故かその本の内容が彼女自身と重なるものがあるように思えて、言葉をかけたいという小さな衝動が胸の奥に生まれていた。
けれどその衝動は突然の車内アナウンスと共にあっけなく一蹴された。
いつの間にか降車駅が近づいていたようだ。
降車間際、再度彼女のほうに目をやると本にしおりを挟みリュックにしまおうとしている彼女が目にはいる。
『夜明けのすべて』。ただの一冊の本の表紙を必死に目で追っていた。
会社に着くと本のタイトルを調べていた。
その本は心に抱えた何かによって生きづらさを覚える二人が互いを補い合いながら生きようとするそんな物語のようだった。
今朝の衝動がそれを行動に移せなかった小さな後悔となってその日の終業時刻を過ぎてもずっと胸のどこかに残り続けていた。
覚えのある耳を突くような音で目が覚める。なんてことはないいつもの朝。
けれどいつもよりも少し体が重い。
昨日の通勤時に出会った彼女のことがどうしても頭から離れなかった。
東山線。8時2分の電車。いつも気にしないはずの電車の遅れ。
今日はいつもよりも少し早く最寄り駅へ向かった。
電車を降りて乗り換えのため東山線改札へ向かう。時刻は7時46分。
朝の東山線は2分毎に電車が出ているが、その日は柄にもなく駅構内のベーカリーで朝食をとった。
東山線の改札を抜け、電光掲示板に表示される8時2分という次発の知らせ。
昨日にも増してホームに続く通路は渋滞している。
始業開始に間に合うであろう時間だが、せかされるように駅のホームへと向かった。
昨日と同じ時刻、同じ車両。
車両の扉が開き、出入口付近に目をやる。
そこに昨日の彼女はいなかった。
胸の奥がほんのわずかに沈む。
理由はわからない。ただ、呼吸が少しだけ浅くなる。
車両に乗り込み、電車が動き出す。
いつもの満員電車のはずなのに、人混みのざわめきがいつもより耳に刺さる。
車両の揺れが妙に落ち着かない。
昨日と同じ朝のはずが、何か欠けている。
それが何なのか、言葉にできない。
ただ、昨日のあの一瞬がいつもの毎日に飛び火して少しずつ穴を広げていく、そんな感覚を覚えた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
創作なんて考えたこともなかったけれど、昨日の朝の出来事が頭に焼き付いて離れなかったのでこの場を借りて消化させてもらいます。




