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7. 箒だけが働く庭

 この城の庭には、働き者の(ほうき)が一本いる。


 朝、東の窓から見下ろすと、荒れ放題の庭の小道を、箒がひとりでに掃いているのである。持ち手はいない。ただ、柄の角度だけが、腕のいい職人の律儀さで揃っている。最初の朝こそ二度見したが、いまでは見慣れた風景だ。城の皆さんに訊いても「庭師さん」としか返らない。名前はおろか、声を聞いた者もいないという。


「百年、ずっとああなんです」とリゼが言う。「わたしたちが来るより前から、いらした気がします」


 幽霊にすら古株と呼ばれる幽霊である。ちなみにピオの呼び名は「はきばのおじさん」。掃き場のおじさん、の意らしい。名前の代わりに、仕事が呼び名になっている。


 秋の終わりの庭は、見事な荒れ野だった。茨が石畳を呑み、涸れた噴水に落ち葉が積もり、蔦が日時計を丸ごと包んでいる。風が渡ると庭全体が乾いた音でざわめき、その奥に、しゅ、しゅ、と規則正しい箒の音が続く。百年、途切れたことのない音だと思うと、荒れ野の風景が少し違って見えてくる。庭の全部には、もう手が回らないのだ。それでも掃くのを、この人はやめていない。誰にも頼まれなくなってからも続く仕事は、たぶん、祈りに似ている。


 私は物置から熊手と鎌を探し出し、箒の隣に並んだ。


「お手伝いします。ご指示は、箒でどうぞ」


 返事の代わりに、箒がわずかに右へ傾いだ。数日の観察で判明した通信方式によれば、右がはい、動かなければいいえ、である。かくして庭仕事が始まった。私が茨を刈り、落ち葉を掻き、箒が仕上げを掃く。会話は一方通行、返事は角度。存外、成立するものである。三年、相槌だけの会話で暮らした身だ。言葉のない相手との間を、怖いと思ったことがない。


 落ち葉は掻いても掻いても降ってくる。手が冷えたら湯を沸かし、庭石に腰掛けて休む。箒はその間も律儀に動いていて、休みませんね、と声をかけると、初めて返事に迷い、それから斜めに傾いだ。はい、といいえ、の中間である。休み方のほうを、忘れているのかもしれなかった。胸が、静かに詰まる。仕事は覚えているのに、休み方だけ忘れる。真面目な人から、順にそうなるのだ。


 やがて、気づいた。箒は毎日、必ず同じ場所で長く止まる。南向きの、いちばん日当たりのいい一角である。刈り込んでみれば、煉瓦で囲った花壇の名残が現れ、弱った古木の株が行儀よく並んでいた。根元の土は、よく見ればほぐされている。毎日毎日、幾百回も均したような、きめの細かさで。


「……薔薇、ですか?」


 箒が、深く、深く傾いだ。


「咲かせたいのですね? 冬に?」


 深い傾ぎ。けれど、誰のために、と訊いたときだけ、箒は止まったきり動かなかった。はい、でも、いいえ、でもない。忘れた、の角度である。


 リゼに訊いても、冬の白薔薇の謂れは霧の向こうだった。ただ「庭師さんの薔薇は、それは見事だったって、誰かが言ってました」と、誰かの部分だけ曖昧な記憶が返ってくる。この城の思い出は、どれも肝心の名前のところで千切れているのである。


 翌日から、庭仕事の献立に薔薇が加わった。物置の奥で錆びていた剪定鋏(せんていばさみ)を、針と同じ流儀で研ぐ。枯れ枝を落とし、根元に灰を混ぜ、敷き藁で株の足元をくるむ。手順はすべて箒の角度に教わった。その株は残せ、その枝は切れ、藁はもっと厚く。日が傾くと指先がかじかみ、吐く息が白い。それでも起こした土の匂いは深く、藁は乾いてあたたかく、仕事は静かに進んでいく。急かされない仕事が、こんなに性に合うとは知らなかった。思えばあの屋敷の針仕事は、誰かの咳払いに急かされてばかりである。土は違う。土は、私の手際を値踏みしない。


 研ぎ上げた鋏を、日暮れに、掲げて差し出す。


「どうぞ。仕上げは庭師さんの領分でしょう」


 鋏が、ふわりと浮いた。


 柄を握ったのは、節くれだった大きな手である。手首、腕、日に焼けた首筋、白い無精髭、深い皺、麦藁帽子――老人がひとり、冬支度の花壇の前に立っていた。箒はその足元に、行儀よく寝かせてある。


「…………トバイアス」


 掠れた声が、それだけ言った。名乗りである。リゼが歓声を上げ、ピオが「はきばのおじさんだ!」と跳ね、当の本人は眉ひとつ動かさず、もう鋏の刃を検分している。無口は、生前からの仕様らしい。


 それでも、検分を終えた老人は私に向き直り、麦藁帽子を取って、腰から折れるように深く一礼した。職人の礼である。藁と土と灰の匂いが、ふわりと動く。言葉より、よほど雄弁な挨拶だった。そして私は、少々うろたえる。三年間、頭は下げる側だった私である。深い礼の受け取り方は、褒め言葉のそれよりさらに不慣れで、結局、同じ深さで礼を返した。腰から、職人の真似で。


 その手が、ふと止まった。鋏の先が、庭の奥を指す。茨のいちばん深い、誰も分け入らない一角である。


 総出で刈る。鎌をひとつ駄目にした頃、茨の下から出てきたのは――石だった。膝丈の小さな石が、列をなして並んでいる。一列ではない。二列、三列。夕日が石の頭を順に赤く染めていき、数えるうち、背筋が冷えてくる。四十を超えたところで、私は数えるのをやめた。疲れたからではない。数えるという行いが、急に恐ろしくなったのである。石のひとつひとつが、ピオやリゼと同じ、誰かなのだ。


 墓標である。それも、こんなに。


 夕暮れの風が茨の刈り口を鳴らし、烏が二羽、声もなく飛び立っていく。気づけば城の皆さんが庭に降りてきて、石の列を前に、立ち尽くしていた。


 トバイアスが麦藁帽子を取り、胸に当てて立っている。ピオがリゼの袖を握る。私は最前列の一基に膝をつき、苔を手のひらで拭った。何度も拭う。裏も、側面も見る。隣の石も、その隣も見る。


 ――ない。


 どの石にも、名前がひとつも刻まれていないのである。


 風化なら、まだ諦めもつく。けれどこれは、初めから彫られなかったのだ。誰かが、名前のない石を四十いくつ並べると決めた。その決め方の冷たさが、指先から腹の底へ、ゆっくりと落ちていく。


 隣で、リゼが胸の名札をぎゅっと押さえた。私はその冷たい手の上に、そっと自分の手を重ねる。


 墓標とは、名前を残すための石だろうに。ここには、名前だけが、ない――。


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