はたおりのとんてんかん
気がつくと、九鬼恒一は窓ガラスに額を預けたまま、ひどく浅い眠りの底から引き上げられていた。がたん、と車体が揺れる。首筋に鈍い痛みが走って、思わず顔をしかめる。変な角度で眠っていたらしい。右手でうしろを揉むと、筋が一本、妙にこわばっているのが分かった。汗ばんだ指先が肌に張りつく。人気のまったくない車内は冷房が切れているのか、妙に蒸していた。
薄く曇った窓の向こうを、見覚えのある風景がゆっくりと流れていく。山あいにへばりつくような棚田。夕陽を受けて鈍く光る用水路。濃い緑を呑み込んだ杉林。欄干の剥げた古い橋。白い塗装が錆に食われ、ところどころ茶色く爛れたガードレール。
懐かしい、と思うより先に、胸の奥に小さなひっかかりが残った。
こんなに狭かったか。こんなに古びていたか。記憶の中の故郷は、もっと遠く、もっと明るく、輪郭の曖昧な夏の匂いと一緒にあった気がする。なのに今、目の前を横切っていくそれらは、どれも湿った手触りをもって現実に沈んでいた。
恒一は深く息を吸った。大人になれば、この辺鄙な田舎はそんなものなのかもしれない。窓の隙間から入ってくる空気は、土と水と青臭い葉の匂いがした。都会で吸う空気よりもずっと生々しいはずなのに、なぜだか肺の奥まで重たく沈む。
どうして帰ってきたのか、自分でもうまく説明できなかった。仕事に疲れたのかもしれない。人間関係に嫌気が差したのかもしれない。けれど、そういう理由を並べるたび、どれも少しずつ違う気がした。何かをやり直しに来たというより、もう終わりにしてもいいと思える場所へ、気づけば足が向いていた気がした。
車内放送がいやに割れた音で終点を告げる。こちらを見向きもしない運転手を横目に降りると、夕方の空気がべたりと頬に貼りついた。まだ完全な夜ではない。西の空には赤黒い残照が薄く伸びていて、山の端だけが焼けた炭みたいに滲んでいる。けれど、村の方から流れてくる気配は、その明るさに似合わないほど沈んでいた。
静かすぎる。
恒一はバス停の前で立ち止まり、無意識にあたりを見回した。この時間なら、畑仕事を切り上げた誰かが道端で立ち話をしていたり、家の前で子どもが自転車を転がしていたり、縁側に腰かけた老人が夕涼みをしていたりしてもおかしくない。昔はそうだった。少なくとも記憶の中では、夕暮れの村にはいつも、誰かしらの生活音が浮いていた。
だが今は、何もない。
畑はある。細い道もある。家々も、そこにちゃんと建っている。庭先には軽トラックが停まり、二階の物干しには色褪せたシャツやタオルが風に揺れている。生活の痕跡だけは、やけに律儀に残っていた。
なのに、人の姿だけがない。
見てはいけないものを見落としているような、妙な気分だった。村全体が息を潜め、何かの合図を待っている。そんなふうに思ってしまって、恒一は自分で自分を馬鹿らしく感じた。
ただの田舎だ。たまたま皆、家の中にいるだけだろう。
そう思い直し、ボストンバッグを肩に掛け直して歩き出す。
道の脇を流れる用水路は、水かさこそ少ないが、絶えずひそひそと何か話しているような音を立てていた。夏草は膝のあたりまで伸び、葉の擦れあう音が生き物の身じろぎみたいに聞こえる。遠くで蜩が鳴いている。はずなのに、それすらどこか遠慮がちで、村の静けさを破るには足りなかった。
祖父の家は、村のはずれに近い場所にある。子どもの頃はずいぶん遠く感じた道も、今歩けばあっけないほど短い。角を二つ曲がり、石垣沿いの細道を抜けると、低い生垣の向こうに見慣れた瓦屋根が見えた。
胸の底が、わずかにさざ波を立てる。祖父はもういない。葬式に出たのは何年前だったか、すぐには思い出せない。あの家はそれ以来、空き家同然になっているはずだった。親戚がたまに風を通しに来ているという話は聞いたが、恒一自身、最後にここへ来たのがいつだったか定かではない。
門を押すと、蝶番が小さく軋んだ。庭には草が増えていたが、完全に荒れきっているわけではなかった。誰かが最低限の手入れだけはしているのだろう。飛び石のあいだに雑草が生え、軒先には蜘蛛の巣がいくつか張っている。それでも、家そのものは思ったよりずっと形を保っていた。
玄関の引き戸に手をかける。閉まってはいたが、鍵はかかっていない。拍子抜けするほどあっさりと戸が開き、湿った木と古畳の匂いが、ひやりとした空気と一緒に流れ出してきた。その匂いを嗅いだ途端、恒一の胸の奥で何かが微かに動いた。
懐かしい、というには少し重すぎる。思い出と現実がぴたりと重なる時の、逃げ場のない感触だった。
靴を脱いで上がる。床板は少し軋んだが、抜けそうな気配はない。薄暗い廊下の奥に、座敷、仏間、台所が順に口を開けている。障子は閉め切られ、家の中には夕方の光がうまく入ってこない。代わりに、外の赤みだけが紙越しに滲んでいて、部屋の輪郭を曖昧にしていた。
台所をのぞくと、流しの脇に古い鍋が伏せてあった。使われたのが昨日なのか十年前なのか分からない顔で、何食わぬふうにそこにある。仏壇の線香立てには灰が溜まり、小さく折れた線香の燃え残りが埋もれていた。誰もいないはずなのに、生活が死にきれずに残っているような光景だった。
家というより、暮らしの抜け殻だ。
恒一は座敷に荷物を置き、畳の上に腰を下ろした。畳表は少し湿気を含んでいて、ズボン越しにも柔らかく沈むのが分かる。柱時計は止まったままだった。耳を澄ませても、針の音はしない。こんなに静かだったか、とまた思う。
その時、不意に、ある記憶が浮いた。
夏の夜だった。縁側に寝転んだ幼い恒一の横で、蚊取り線香の煙が細く輪を描いていた。祖父は団扇で膝をあおぎながら、どこか面白がるような口調で言ったのだ。
「いいか、恒一。はたおりのとんてんかん、そう言うて振り向いてな。そん時、まだ動いとるもんがおったら、こっちの勝ちだ」
恒一はその時、ぽかんと祖父の顔を見上げた覚えがある。
はたおりの、とんてんかん。
妙に耳に残る言い回しだった。だるまさんがころんだみたいなものだろうと、その時も思った。子ども向けの、地方にしか残っていない遊び。少し古くさくて、少し不気味で、それでも祖父が話すと妙に可笑しい、そういう田舎の昔話の一つ。
実際に誰かがその遊びをしているところを見たことはなかったし、詳しいルールを聞いた覚えもない。ただ、祖父の笑い皺と、線香の匂いと、濡れた夜気の感触だけが今も変に生々しく残っていた。
恒一ははっとして顔を上げた。
座敷は薄暗いままだ。思い出に引きずられていたのはせいぜい数秒のはずなのに、外はずいぶん暗くなっていた。障子の向こうの赤みはほとんど失われ、代わりに青黒い夜の色が家の輪郭をなめはじめている。
腹は減っている、はずだった。昼からろくなものを食っていない。だが何かを口に入れたい気分にはなれない。喉も乾いているのに、水を探しに立つことすら億劫だった。
落ち着かない。
理由はない。強いて言うなら、静かすぎるのだ。
夜が深いのではない。まだ宵の口だ。なのにこの家の中では、夜だけが先に濃くなっていくようだった。柱の影、襖の隙間、天井の煤けた木目、そのどれもが少しずつ色を失って、黒い穴みたいに見えはじめる。
と、その時だった。
遠くから、声が聞こえた。
唄のようでもあり、囃すようでもあり、子どもの遊びの節回しにも似ている。けれど明るさはなく、湿った夜気の中を擦りながら近づいてくる。
「はたおりの」
恒一の背筋がすっと冷えた。
「とんてんかん」
思わず息を止める。
今のは、聞き間違いではない。祖父が昔口にした、あの妙な文句と同じだった。畳に置いた手のひらがじわりと汗ばむ。耳の奥で、自分の脈がやけに大きく鳴った。誰が。こんな時間に。何のつもりで。
村の祭りか何かだろうか、と考えようとしたが、その考えはすぐに崩れた。祭りならもっと人の気配がある。明かりがある。笑い声や足音がある。こんなふうに、声だけが暗闇の底から浮いてくることはない。
家の外に、何かいる。
そう思った途端、障子の向こうの闇が、ただの夜ではなくなる。
もう一度、声がした。
「はたおりの」
少し近い。
「とんてんかん」
そして、ぴたりと止んだ。
止んだ、というより、切れた。まるでその瞬間を境に、声の主が口を閉ざしたのではなく、最初からそこにあった音だけが抜き取られたような、不自然な途切れ方だった。
恒一はじっとしたまま、耳を澄ませた。
何も聞こえない。
何も──
ぴし、と小さな音が鳴った。家のどこかで。柱か、天井か、乾いた木が夜気で鳴っただけかもしれない。古い家なら珍しくもない音だ。実際、都会のマンションだって夜には配管が鳴る。なのに、その時の恒一には、それが何かが動いた音にしか聞こえなかった。
襖の向こう。
台所の奥。
廊下の曲がり角。
目の届かない暗がりという暗がりに、得体の知れないものが一斉に入り込んでいる。そんな馬鹿げた想像が、あまりに鮮明に脳裏へ立ち上がる。
かた、と今度は別の場所で鳴る。
呼吸が浅くなる。喉がひりつく。耳だけが異様に敏感になり、衣擦れほどの音にも心臓が跳ねた。座敷の空気が急に狭くなった気がした。閉め切った家の中に、自分だけが取り残され、その周りを見えない何かがぐるりと取り囲んでいる。
逃げ道がない。
その錯覚は、理屈よりも速く身体を支配した。
外なら、まだ走れる。
見通しのいい場所に出れば、少なくとも何がいるのか分からないまま囲まれることはない。声の主が何者であれ、家の中よりは避けようがある――そう思ったのか、そう思い込んだだけなのか、自分でも分からない。
次の瞬間にはもう、恒一は立ち上がっていた。ほとんど反射だった。荷物もそのまま、襖に肩をぶつけそうになりながら廊下へ出る。板の間が足の裏に冷たく、玄関までの距離が妙に長く感じる。背後の暗がりから、何かが音もなくついてくるような気がして、振り返ることができない。引き戸を乱暴に開けた途端、夜気が顔にぶつかった。恒一は半ば転がるように外へ飛び出した。
───
夜気の中へ飛び出した瞬間、少しは楽になると思ったのに、息苦しさはむしろ増した。外は外で、逃げ場になどなっていなかった。
村道は思っていたよりもずっと狭い。昼間なら何ということもないはずの道幅が、夜の中では人ひとり通すのでやっとの裂け目みたいに見えた。家と家のあいだの隙間は黒く沈み、石垣の向こうも、畑の先も、どこまで続いているのか分からない。闇そのものに奥行きがありすぎて、視線をやるだけで吸い込まれそうになる。
恒一はほとんど転ぶように駆けた。石垣に肩を擦る。荒いやすりのような感触がシャツ越しに皮膚を引っ掻く。細い用水路を飛び越えると、湿った泥が靴の裏にまとわりつき、着地した足がぬるりと滑った。伸びきった草の葉先がズボンに当たって、ぱし、ぱし、と小さな音を立てる。それだけのことに、背中の毛が逆立つ。
納屋の陰へ身を押しつけ、息を殺す。喉がからからに乾いていた。だが呼吸は熱く、吸い込むたびに肺の奥が焼けるように痛む。耳の内側では心臓が早鐘みたいに暴れ、頭の芯までその振動が響いていた。
誰もいない。
どこにも、人の姿は見えない。
それなのに、見られている気配だけがある。
道の先から。家の窓の隙間から。石垣の上から。杉林の奥から。村じゅうの暗がりという暗がりに、目だけが潜んでこちらを窺っている。そんな考えが離れない。祖父の声が、唐突に脳裏で甦った。
『いいか、恒一。はたおりのとんてんかん、そう言うて振り向いてな。そん時、まだ動いとるもんがおったら、こっちの勝ちだ』
そう言うて振り向いてな。
そん時、まだ動いとるもんがおったら。
恒一は荒い息のまま、納屋の板壁に手をついた。
──だるまさんがころんだ、だ。
掛け声が続いているあいだに動く。止んだ瞬間に止まる。動いたら見つかる。見つかったら負ける。なら、逆に言えば、見つかる前に鬼へ触れれば助かるはずだ。子どもの遊びなら、そういうルールだ。
そう考えたのは、確信があったからではない。ただ、それ以外に縋れるものがなかった。意味の分からないまま追われるよりは、何か一つでも筋道があった方がいい。たとえ思い込みでも、ルールがあると思えればまだ動ける。助かるには、鬼に触れるしかない。恒一は唇の端を舐めた。汗の塩気がした。
その時、また声がした。
「はたおりの──」
びくりと肩が跳ねる。
「とんてん……かん」
今度は、わざと間を伸ばすような節回しだった。前より遅い。いやらしいほどゆっくりで、どこで止むのか分からない。子どもが遊び半分で相手を焦らす時の調子にも似ているのに、そこに混じる湿っぽい響きが、どうにも気味が悪かった。
恒一は歯を食いしばる。掛け声が止む。止まった瞬間に動いていたら見つかる。なら、その前に──
道の先、家と石垣の隙間を横切るように、何かが動いた。
人影。
そう思うより早く、恒一の体は反射で飛び出していた。見つかる前に。鬼に先んじて。そう考えたのか、それともただ恐怖に背中を蹴られただけか、自分でも分からない。暗がりの中で揺れた影に向かって、半ば飛びつくように手を伸ばす。
指先が、何かの肩──あるいは腕に触れた。
その瞬間。
相手の体から、ふっと力が抜けた。
支える芯が最初から腐っていたみたいにぐにゃりと折れ、崩れ落ちる。恒一は勢いのままたたらを踏み、危うく一緒に転びそうになった。足元で何かがどさりと鈍い音を立てる。
荒い息のまま見下ろして、恒一は息を呑んだ。
それは、まっとうな生き物には見えなかった。
朽ち木が人の形に折れ曲がったようでもあり、古い案山子の藁が湿気でへたったようでもあり、寺の裏にでも打ち捨てられていた木像が折れ曲がったようでもある。
恐怖で、顔があるはずの位置を見ることができない。灯りのない闇の中、目鼻も分からない。ただ人のような輪郭だけがあって、作り物じみている。
ぞっとした。
それでも同時に、恒一の胸には微かな安堵が灯った。
──終わった。
鬼に触れたのだ。なら、これで。
だが、その安堵は一息ぶんも保たなかった。後ろ、今度はまったく別の方向から、また声がした。
「はたおりの」
恒一の全身が凍りつく。
「とんてんかん」
終わっていない。うまく飲み込めない息が、喉の奥を鳴らした。一匹ではないのか。今触れたものは鬼ではなかったのか。それとも鬼そのものが複数いるのか。考えようとした瞬間にはもう、足が勝手に地面を蹴っていた。
走るしかなかった。祠の裏手へ回り込む。苔のついた石段で足を滑らせ、片手を地面について辛うじて持ち直す。湿った土が掌にべったりとついた。
背後でまた、あの節が流れる。
「はたおりの」
棚田の畦へ飛び出す。
「とんてんかん」
止んだ。
闇のどこかで何かが揺れた。恒一はほとんど突っ込むように手を伸ばす。触れた。倒れた。もう確かめる余裕はなかった。
壊れた機小屋の前でもそうだった。石橋のたもとでも。杉林の入口でも。
「はたおりの」
走る。
「とんてんかん」
止む。
揺れた影に触れる。
倒れる。
その繰り返しだった。
村の地形は懐かしいはずなのに、夜の中ではどこもかしこも見知らぬ場所に思えた。曲がり角の先に何があるのか分からない。見覚えのあるはずの橋はやけに細く、見慣れていた祠は小さすぎ、杉林の入口は口を開けた穴みたいに黒かった。足元の石につまずき、何度も転びそうになる。肩で息をしながら走るたび、汗で濡れたシャツが肌に張りつき、背中にまとわりついた。
胸が痛い。喉が焼ける。口の中が鉄みたいな味になる。それでも止まれない。止まれば、次は逃げきれない気がした。
祠の屋根を掠める風の音すら追っ手に聞こえた。杉の梢が擦れる音は、ひそひそと笑い合う声のようだった。自分の足音が大きすぎて、それだけで見つかる気がした。なのに走ることをやめられない。恐怖そのものが背中に噛みついて、前へ前へと追い立てる。
どれだけ触れたのか、もう分からなくなっていた。
一つ。二つ。三つ。もっとかもしれない。
ただ、倒れたそれらはどれも人間には見えず、だからこそ恒一は、自分が何をしているのか考えずに済んでいた。
考えたら、足が止まる。
止まれば終わる。
その予感だけで、彼は夜の底を喘ぎながら走り続けた。
───
夜半を過ぎた頃には、恒一はもう、自分が村のどこをどう走っているのか分からなくなっていた。
曲がったはずの角がまた現れ、見覚えのある石垣が別の場所にもある気がする。家並みはどれも同じような暗い輪郭に沈み、道は細く折れ、闇は村全体を一つの生きた迷路に変えていた。どこを抜けても、どこかへ辿り着くのではなく、同じ夜の腹の中をぐるぐる回されているような感覚だけが残る。
草の青臭い匂い。泥の冷たさ。喉の奥にこびりついた鉄みたいな味。耳の奥では、ずっとあの声が離れなかった。
「はたおりの」
「とんてんかん」
実際に聞こえている時だけではない。止んだあとも、その余韻だけが耳の内側にこびりつき、呼吸の拍子にまで混じってくる。走るたび、心臓の鼓動の隙間から、あの節回しが滲み出してくるようだった。
家の縁の下に身を縮めてもだめだった。湿った土に膝をつき、蜘蛛の巣を顔に引っかけながら暗がりへ潜り込んでも、しばらくすると必ず、どこか近くから、あの声がする。
石垣の陰に背中を押しつけてもだめだった。壊れた納屋の中へ転がり込んでもだめだった。乾いた藁の臭いの残る薄暗い中で息を殺していても、板壁の向こうから、まるでこちらの場所を最初から知っているような間合いで、また始まる。
「はたおりの」
「とんてんかん」
そのたびに恒一は、追い立てられる獣みたいに飛び出した。
もう、頭で考えてはいなかった。考えれば、恐怖でその場に潰れる。だから体だけを先に動かす。掛け声が続いているあいだに走り、止む前に影へ届くことだけを考える。いや、それだけを考えようとして、それ以外のすべてを必死に追い払っていた。
それでも限界は近かった。息を吸うたび喉が焼けるように痛い。胸はずっと締め上げられているようで、肺の奥に熱い砂でも詰め込まれたみたいだった。脚は何度ももつれ、脛は石にぶつけたのか鈍く痺れている。汗はとっくに乾く暇を失い、シャツも髪も肌にべったり張りついていた。
恒一は半ば泣きながら走った。
なぜ終わらない。
なぜこんなにいる。
祖父の言っていたことは、本当にこれで合っていたのか。
あれはただの昔話ではなかったのか。遊びだと思っていたものを、自分はまるで別の何かと取り違えているのではないか。そんな疑いが何度も頭をよぎる。だが今さら、それを疑ったところで他に縋れるものがなかった。
掛け声が止んだ瞬間に動いたものを捕まえる。
鬼に触れる。
それだけだ。
それしか、生き延びる手段がない。
そう信じるしかなかった。
だからまた、闇の中でわずかに揺れた影を見つけると、恒一は歯を剥くように飛びかかる。足がもつれようが、肩を打とうがかまわない。手を伸ばし、触れる。触れた途端、それはこれまでと同じように、芯を抜かれた木偶みたいに崩れ落ちる。
倒れたものを確かめる余裕は、もうなかった。見れば何かがおかしくなる。そう本能で分かっていた。だから視線を逸らし、また次の声から逃げる。次の掛け声。次の影。次の接触。次の崩落。その繰り返しの中で、時間の感覚も場所の感覚も、少しずつ磨り減っていった。
気づけば、空気が変わっていた。
村の匂いに混じって、水の冷えた気配がある。
はっとして顔を上げる。目の前に、橋があった。
村の外れへ出る古い橋だ。子どもの頃はただの古びた橋にしか見えなかったのに、今はまるで村そのものが最後に吐き出す細い喉みたいに、闇の中へ突き出している。
下を流れる川は見えない。橋の下は黒く沈み、流れの音さえ霧に吸われていた。ただ、橋脚のあたりにだけ白い靄がたまりはじめていて、それが川面から這い上がってくる息のようにゆっくり動いている。
恒一は橋の手前で、ついに膝に手をついた。喉が焼ける。呼吸が追いつかない。太腿の筋肉がひくひくと痙攣しそうだった。吐き気までこみ上げてくる。視界の端が暗く狭まり、耳鳴りがして、立っているだけで地面が揺れていた。
だが、それでもまた声がした。
「はたおりの」
橋の向こうからだ。
「とんてんかん」
恒一は喘ぎながら顔を上げた。霧の向こうに、人影が一つだけ見える。小さい。細い。橋の向こう側、白い靄の中にぽつんと立って、かすかに揺れている。それまでのようにあちこちから現れるのではなく、今度はたった一つだけだった。
恒一の胸に、ひどく弱々しい希望が灯る。
──今度こそ最後だ。あれだ。あれに触れれば終わる。これで助かる。
そう信じた瞬間、逆にその考えに縋りつくしかなくなった。もし違うと考えたら、もう立てなくなる。だから恒一は歯を食いしばり、脚の震えを無理やりねじ伏せるようにして橋へ向かって走り出した。
声が続く。
「はたおりの」
恒一はタイミングを測る。これまで散々、調子を変えられてきた。短く切る時もあれば、ねっとり引き延ばす時もある。止むと思ったところで続き、続くと思ったところで不意に切れる。まるでこちらの焦りを楽しんでいるように。それでも、ここで外すわけにはいかない。
「とんてんかん」
まだだ。
あと少し。
霧の中の影が、橋の向こうでわずかに揺れた。恒一は前のめりになりながら、最後の力を脚に込めた。
「はたおり──の」
伸びる。
恒一は踏み込む。
「とん、てん……かん」
今だ、と読んだところでまだ続く。
違う、もう一拍待つ。
「はたおりの──」
不意に恒一の足が、何かに引っかかった。細いものだった。草を輪に結んだようなものか、夜露を吸った蔓か、縄か、何かが足首に絡みついた気がした。転ぶまいとして、恒一は反射的に踏ん張る。
その一拍が、遅れになった。
掛け声が止んだ、その時に。
恒一は、動いてしまった。
次の瞬間、全身から何かが抜けた。
あまりにも一気で、何を失ったのか最初は分からなかった。ただ、体の中を張っていた見えない糸が、四方から同時に断ち切られたような感覚だけがあった。肩から、肘から、腰から、膝から、力がするすると零れ落ちていく。膝から下が、自分の脚ではなくなる。
立っているという感覚が剥がれ、肺から息がかすれた音を立てて漏れた。視界が白く揺れ、橋の欄干も霧も何もかもが遠のく。持ちこたえようとしても、踏ん張るための力そのものが見つからない。
立っていられない。
恒一はそのまま橋の手前の土へ、前のめりに倒れ伏した。頬に泥の冷たさが張りつく。湿った土の匂いが鼻の奥いっぱいに広がる。口の中に砂のざらつきが入ってきて、咳き込もうとしても、うまく息が吸えない。指先に力が入らず、爪だけが土を浅く引っかいた。
起き上がらなければ。そう思う。思うのに、腕が震えるばかりで、上半身が少しも持ち上がらない。太腿に命令しても、もうそこに自分はいないようだった。さっきまであれほど体を突き動かしていた切迫感、ただ走らなければ終わるというあの激しい恐怖の熱が、一瞬で霧散している。代わりに残ったのは、底の抜けたような虚脱だけだった。全身が空っぽだった。
怖いはずなのに、その怖さすらうまく掴めない。ただ、何か大事なものを一息で抜き取られたあとみたいな、どうしようもない空洞感だけが、骨の中まで満ちていく。
その時だった。
四方の闇が、一斉に鳴った。
───
戸が開く音がした。
ひとつではない。
ばたん。がらり。ぎい、と湿った蝶番の軋み。家々の奥、納屋の陰、道沿いの戸口、今まで沈黙していたはずの村じゅうの闇が、いっせいに口を開くような音だった。
つづいて、草を踏みしめる音。
ざ、ざ、ざ、と乾いた葉を押し分ける足音が、橋のまわりの藪という藪から湧き上がる。今までどこにも人影はなかったはずなのに、次の瞬間にはもう、懐中電灯の灯がいくつも揺れ、松明の赤い火が湿った夜気を焦がしながら立ち上がっていた。
その灯りに照らされて、鍬が見えた。鎌が見えた。叉が見えた。縄が見えた。橋の周囲の闇から、村人たちが一斉に現れる。
左右の藪に潜んでいた者たちが、合図でも合わせたように懐中電灯を掲げた。白い光が何本も走り、地面に倒れ伏した恒一の体を容赦なく照らし出す。視界が焼ける。泥に押しつけられていた頬が、その光の鋭さだけで痛むようだった。
その合図を待っていたように、左右へ回っていた者たちがさっと広がる。橋へ続く道も、川沿いへ逃げる土手も、あっという間に人影で塞がれた。逃げ道を潰す動きに、ためらいがまるでない。
さらに後方から、太い縄を両端で持った男たちが駆け出してくる。恒一が腕を動かすより早く、その縄が低く唸って飛び、足元へ、胴へ、絡みつくように投げかけられた。
もっと奥には、鍬や叉を構えた者たちが半円を描いて間合いを測っている。誰が近づき、誰が押さえ、誰が打つか。見ただけで分かった。最初から役割が分けられていたのだ。この一瞬のために、村じゅうが配置されていた。
怒号が飛ぶ。
「やったぞ!」
「引っかかった!」
「弱ってる、今ならやれるぞ!」
「『戻り』だ! 触れんな、吸い取られるぞ!」
「縄だ、先に縄を掛けろ!」
「近づきすぎるな!」
「六人やられた! 終わらせるぞ!」
何を言われているのか、恒一にはすぐには分からなかった。胸がうまく動かない。息を吸おうとしても、肺が途中でつぶれたみたいに空気が入らない。泥の冷たさ、懐中電灯の眩しさ、怒号の熱っぽさ、それらが一度に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になる。
戻りだ。
吸い取られるぞ。
六人やられた。
言葉だけが、割れた器の欠片みたいに耳へ刺さる。
その時、後方さっき自分が触れ倒した鬼のあたりに灯りが当たった。
さっきまで、恒一の目には朽ち木や案山子や捨てられた木像のようにしか見えていなかったものが遠目で見れば、まるで干からびたような……人間。
その落差が、背骨の芯を氷でなぞられるみたいに恒一を凍らせた。
鬼ではなかった。
喉の奥で何かがひっくり返る。
一瞬で、夜じゅう信じていたものの意味が反転する。
掛け声を言っていたのは、鬼ではなかった。
村人たちだった。
自分は追われていたのではなかった。
追っていたのだ。
鬼だと思っていた相手は、村人だった。
「う、ぁ……」
声にならない息が漏れた。
縄が足に絡む。太い麻縄が夜露を吸って重く、蛇みたいに脛へ巻きついてくる。拘束役の村人たちは決して素手で近づきすぎない。二人がかり、三人がかりで長い縄を操り、竿でも扱うような距離感のまま、恒一の体を絡め取ろうとする。
「右だ! まだ腕が動く!」
見張り役の一人が叫ぶ。
その声で、別の男が間合いを詰めた。
鍬が振り下ろされる。
鈍い衝撃が肩へ叩き込まれた。骨の奥まで砕けるような痛みが走る。恒一は絶叫した。声は自分のものとも思えないほど掠れ、ひしゃげていた。つづけざまに鎌が腕を裂く。熱いものが飛び散った気がした。叉が胸元へ押し当てられ、逃げようとする体を地面へ縫いつける。
痛い。
猛烈に痛い。
だが、その痛みのさらに奥で、もっと恐ろしいことに気づく。
普通なら、とっくに動けないはずだった。
肩を打ち砕かれ、腕を裂かれ、胸を押さえつけられれば、人間はこんなふうにまだ身をよじったりしない。叫べたとしても、もう終わっている。
なのに自分は、まだ動けてしまう。
生きているからではない。
生きているのではない何かとして、まだ動けてしまう。
その事実が、傷の痛みよりも深く恒一の内側を抉った。
村人たちの顔が見える。
怒りだけではなかった。
本物の恐怖だ。
眉を吊り上げ、歯を食いしばり、怒鳴っている。そのくせ、目だけは怯えている。こっちが起き上がったら終わると、本気で思っている顔だ。鍬を持つ手も、縄を引く腕も、震えている。
「首をやれ!」
誰かが怒鳴る。
「よりによってあの川に飛び込みおって!」
その一言が、恒一の中の何かを不意に裂いた。
夕暮れの橋。眼下の川。
足を踏み外したのか、自分から身を投げたのか、そこだけがどうしても曖昧なまま、落ちる感覚だけが生々しく甦る。胃がふっと浮き、耳元で風が裂け、水面がこちらへ迫ってくる。
衝撃。
冷たい水。
息ができない苦しさ。
川底で首を打った、鈍く、致命的な痛み。
暗い。ひたすら暗い。水の中で目を開けても何も見えず、それでも上も下も分からないまま沈んでいく感覚だけがあった。
首筋が痛かった。
バスで目を覚ました時。
寝違えたのだと思った、あの痛み。
違う。
あれは。
恒一の中で、何かがきり、と音を立てて噛み合った。
バスで目が覚めたのではなかった。
戻ってきてしまったのだ。
川から。
向こう側から。
祖父の声が、今度は驚くほどはっきりと甦る。
『いいか、恒一。はたおりのとんてんかん、そう言うて振り向いてな。そん時、まだ動いとるもんがおったら、こっちの勝ちだ』
こっちの勝ち。
『こっち』は、自分ではなかった。
最初から、村の側だった。
祖父は遊びの話をしていたんじゃない。
村の者が、自分みたいなものをどう止めるか。
どうやって見つけ、どうやって追い立て、どうやって力を削ぎ、どうやって仕留めるか。
その勝ち方を、昔話めいた口ぶりに包んで、笑いながら教えていたのだ。
恒一は泥の上で、ようやく理解した。
鬼は、向こうじゃなかった。
僕の方だった。
その理解が言葉として形を結びきる前に、最後の農具が振り下ろされる。
肉を断つ音がした。
骨に当たる、嫌な手応えが夜気を震わせた。
東の空が、ほんのわずかに白みはじめていた。
山の端に滲むその薄明かりは、夜の終わりのはずなのに、赦しには少しも見えない。ただ、長かった闇がようやく仕事を終え、朝へ引き渡そうとしているだけだった。
村人たちの荒い息が、白みかけた空気の中で湯気のようにほどけていく。
川の方から、冷えた霧が這い上がってくる。
夜が終わる。




