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ハッカー・カナタ

未開領域に籠もってから、数ヶ月が経過した。

 かつての中層都市での喧騒が遠い昔のように感じるほど、カナタの日常は「死」と「記述」に埋め尽くされていた。

「――まだだ! 集中しろ、カナタ! システムを介さずとも、空気の震えで俺の拳を読め!」

 ジンの咆哮と共に、岩をも砕く拳がカナタの頬をかすめる。以前なら反応すらできずに吹き飛ばされていただろう。だが今のカナタは、紙一重の虚空を滑るように避けていた。

「……リセット、インク出力固定。筋肉の収縮効率(スループット)を、今の三倍に『追記』しろ!」

(代償:毎秒5,000ポイント継続消費)

 カナタの全身の血管が青白く発光する。彼は万年筆の力を使い、自分自身の肉体という「ハードウェア」をリアルタイムで書き換え続けていた。

(追記:俺の筋繊維を『炭素鋼以上の密度』へ。神経伝達速度を『光信号』へ。重力をハックし、慣性をゼロにする――)

 ドォッ! と地面を蹴ったカナタが、残像を残してジンの背後を取る。

「……ほう。自分の体までバグらせ始めたか。面白い!」

 ジンが嬉々として振り返り、裏拳を叩き込む。カナタはそれを左腕で受け流すが、衝撃で腕の骨が軋む音がした。

「ぐっ……! 物理の暴力が、演算の限界を超えてる……!」

「当たり前だ! 世界の理屈でおさまるなら、俺はとっくに死んでる。もっと奥底の、魂の震えをハックしろ!」

 漆黒の狼『ゼロ』が、主人の危機を察して咆哮を上げる。ゼロもまた、この数ヶ月で何度も「追記」を施され、今や小型車ほどの巨体と、ギルドの戦車すら一撃で引き裂く鋼鉄の爪を持つ最強の番犬へと進化していた。

 修行の合間、カナタは拠点の岩屋で、万年筆に溜まった「セツナの記憶インク」の解析に没頭していた。

 ホログラムとして投影される、セツナが今まで奪ってきた何千人もの「人生の断片」。

「……これ、見てよカナタ。変だと思わない?」

 リセットが、ある一つの記憶ファイルを指差す。それはセツナがギルド本部から直接受け取っていた機密データの断片だった。

「……なんだ、これ。地図が……消えてる?」

 投影された世界地図。中層、上層、そしてギルド本部。だが、本来なら広大な大地が広がっているはずの「未開領域」の外側が、真っ黒な塗り潰し――未定義領域(ヌル・データ)となっていた。

「ギルドの公式記録じゃ、この先には怪物が住む荒野が広がってるってことになってるよね。でも違う。……この世界には、そもそも『外側』が存在しないんだよ」

「存在しない……? どういう意味だ」

「この世界全体が、巨大なサーバーの中に隔離された『箱庭』だとしたら? そして、ギルド本部が管理している『大書庫』こそが、この仮想現実を動かしているメインフレームだとしたら……」

 リセットの言葉に、カナタは戦慄した。

 もし、この世界が本物の「現実」ではないのなら。デリートされた人々は、単に消されたのではなく、「削除済みフォルダ」に放り込まれたデータに過ぎないことになる。

「……じゃあ、俺たちは最初から、プログラムの一部だったってことか」

「そう。でも、あんたの万年筆だけは、そのプログラムを外側から書き換えられる『管理者権限』を持っている。だからギルドはあんたを恐れて、街ごと消したんだよ」

 解析を続ける中、セツナの記憶の最深部に、一つの座標が浮かび上がった。

 それはギルド本部の地下――「廃棄物処理場(リサイクル・ビン)」と呼ばれる場所。

「……見つけたぞ。街の連中のデータは、ここに隔離されてる」

 カナタの瞳に、修行で研ぎ澄まされた鋭い光が宿る。

 復讐でも、生存でもない。この偽物の世界を、自分のペンで「本当の世界」に書き換える。

「ジン、特訓は終わりだ。……本部の門番をぶち破りに行くぞ」

 岩の隅で拳を磨いていたジンが、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がった。

「ようやくか。腕が鳴るぜ、小僧。……いや、ハッカー・カナタ」

 未開領域の拠点を捨て、三人と一匹は、世界の中心――ギルド本部へと続く、地図にない道へと踏み出した。

少し早いですが、次はいよいよ最終回となります。19時の更新をしばしお待ちください!

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